癒しと滅び/元春菊(2)
一行が特上寿司を食べ終えた頃、腹の底まで響かすような低音ボイスと共に、その男はやって来た。
「よォ、やってるかい」
「へい、二名様! どうぞお好きな席へ!」
その男は元春菊の隣に腰を下ろす。
連れだろう青髪の少年はその隣へ座った。
他の客が会計を済ませ、店を後にすると、店内には一行とその二人組だけが残る。
「おすすめを二人前頼むよ」
「へい! おすすめ二丁ォ!」
流麗な手つきでネタを切る様子を眺めながら、男は口を開いた。
「やってくれたな。
土地を売らせるまで、あと一手だった」
元春菊は視線だけで男を一瞥する。
仕立てでわかる。先ほどの若衆とは違う、一級品のスーツ。
上役か、親玉か。
元春菊は平然としたまま会話を続ける。
「知らん。この味を失う方が損失だ」
「フッ、俺は利益を失い、お前は損失を失った。
それだけならフェアだな」
「……は?」
突然の奇妙な一言に、元春菊は思わず男へ顔を向けた。
その顔はゼロ距離。
目と鼻の先にあった。
突き出すように向けられた瞳に光は無く、
「っ!」
元春菊が反射的に距離を取ると、即座に轟音が轟き、木片が宙を舞った。
突然の轟音と、衝撃。
戦闘経験の浅いまこっちゃんは、何が起きたのか理解らなかった。
ただいきなり大きな音がして、机が、椅子が、床が壊れた。
何かが起きた事しか理解出来ない。
それが何かは理解出来ない。
恐怖から思わず身を屈め、蹲った。
唯一、これまでのチンピラや子供との喧嘩とは次元の違う何かが起こっている事だけが、本能的に察知出来たから。
「けどなぁ、こっちはメンツ潰されてんだわ。
これじゃあフェアとは言えねぇよなぁ?」
埃煙の向こうから声がする。
頭を覆う腕の隙間から、シファが、統香が、一宮が、自分を庇うように目の前に立っているのが見える。
後ろ姿しか見えない。
顔が見えない。
不安。
震えが止まらない。
理解出来ない事態と言う恐怖に、まこっちゃんは何も出来ずにいた。
「金は返した。十分公平だ。
何なら色を付けた分、そちらの方が得だろう」
毅然とした態度の元春菊と男が相打つ。
机を破壊した少年。恐らくは機械人形であろう。
彼を自身の背後へとやり、男は口を開いた。
「それが通るのは堅気の連中だけさ。
こっちはそうもいかんのでね、フェアにさせて貰わねぇと」
男の背後から少年が跳躍する。
狙いは──
「っ一宮!」
統香が叫んだ。
狙いは、ツヅミ。
ガギン!
金属音が鳴り響き、衝撃が空間を撫ぜる。
「堅気を守護るのが任侠ってものじゃないんですか?」
「……」
少年は沈黙したまま、反対の腕を振り下ろした。
再度、重い金属同士がぶつかるような音を発生させる。
その音の正体。内一つは一宮の構えるマグナム(うちの子)が攻撃を防ぐもの。
少年が一宮から距離を取る。
もう一つは、
「……そういうアトリビュートですか」
少年の腕。
それは鉄色で、液体のように波打っていた。
推測されるアトリビュートは、腕、或いは全身の硬化と軟化。
流体のように、固体のように全身を操る能力。
(軟体と剛体。
仕組みはシンプルですが、ここには非戦闘員が多すぎる。
攻守に汎用性が高いとなると……)
「……厄介ですね」
「うっ、く……」
一宮の背後から呻き声した。
見るとそこには、木片が肩に刺さったイヅミが、慣れない激痛に膝をついていた。
その隙を突くように、少年は一宮へ襲い掛かる。
「シファ!」
元春菊がシファを呼ぶ。
"癒し"のシファ。
アトリビュートは名の通り。
「ああ!」
一宮と少年が繰り広げる剣戟のような激しさの戦闘の隙間を縫って、シファは駆け出した。
イヅミを抱え、素早く戦線を離脱する。
そんなシファの足を絡め取らんと、触手のように伸びる少年の腕。
ズガン!
それを撃ち落とす、一宮のうちの子による一撃。
「ッ!!」
切断こそ叶わなかったものの、延びた腕は円形に激しく穿たれた。
箇所からボタボタと血を流すも、すぐさま波打ち、整形。
少年の治癒が完了する。
「へぇ。便利ですね」
跳弾を考慮して、背後のイヅミを庇ったままでは引き金を引く事を躊躇われていた一宮であったが、こうなると話は変わる。
「腕"ごと"でも、それ、出来るんですか?」
狂気を孕んだその笑みに、少年は冷や汗を垂らした。
「ウィロゥ、戻れ」
その声にハッとし、ウィロゥと呼ばれた少年は、男の元へと跳んだ。
そして、男の背後へスッと隠れる。
「ったく、あのボンクラ共。何が「相手は元春菊だけ」だ」
男もウィロゥ同様、冷や汗が顎先へ伝う。
「いいか、相手はあの一宮だ。
後は理解るな?」
「……うん」
ウィロゥが初めて口を開いた。
否、口だけではない。
ウィロゥは再び飛び上がり、右の手のひらを起点として腕を開く。
それは瞬く間に広がると、板場丸ごとを飲み込んだ。
そこに立つ一宮諸共に。
空間ごと閉じ込めて仕舞えば、一宮と言えど打つ手無し。
そう言わんばかりの一手であった。
「おお、すげ」
気の抜けた統香の声。
それに反応したウィロゥは、着地と同時に左腕を伸ばし、統香を補足する。
「ッ、馬鹿!」
男が叫んだ。
しかし、時既に遅し。
ウィロゥは統香へ照準を合わせ、網状に整形した腕を射出するように伸ばした。
刹那、ウィロゥの右腕が消し飛んだ。
見開かれた両眼が、自身の右腕があった空間を捉える。
「っ!!」
声にならない声が上がり、脂汗がぶわりと浮き上がる。
と、染み出したばかりの汗をその空間へ置き去りにし、ウィロゥは遥か後方へ吹き飛んだ。
入口を突き破り、暖簾を吹き飛ばし、向かいの建物へ激突する。
「キャアアアッ!!」
平四庵の外から悲鳴があがった。
時刻は夕方。
大通りな事もあって人通りは多い。
が、この一撃による人的被害はゼロであった。
まるで、通りの人波の全てを把握し、どの位置、どの角度、どのタイミングなら、誰に当たる事も無く吹き飛ぶかが計算されていたかのようだった。
ウィロゥは、未だ多くの人が闊歩するその隙間を縫うように、吹き飛ばされたのだ。
額に浮かんだ汗を置き去りにするほどの速度で。
その衝撃と、全身にかかるG。
「ッ……! ガッ……!」
内臓が全て押し潰されたかと錯覚するほどの激痛に、ウィロゥは身悶えした。
攻撃の正体は理解らない。
蹴りか、打突か。はたまたそれ以外の何かか。
幾つかの内臓が損傷し、折れた肋骨が肺を貫いている。
耐え難い痛み、夥しい量の吐血。
考えても仕方が無い現実から目を背けるように、ウィロゥは面を上げた。
「貴方……今、何をしようとしたんですか……?」
その虚な目に一宮が映った。
否、一宮の構えるマグナムが。
ライフリングを見せつけるように、至近距離に銃口を構えられ、
「ソレは悪手でしょう」
眼孔に押し付けられ──
「っま、待って──」
ズガン。
ズガン。
ズガン。
ズガン。
ズガン。
ズガン。
──
「マエストロに手を出しておいて、何を今更」
一宮は煙草に火を点けると、生命活動が停止したウィロゥの頭髪を鷲掴み、平四庵まで引き摺って歩いた。
* * *
「……無能な部下を持つと苦労するよな」
「さぁな。ソレは俺には理解らん」
男と元春菊。
そんな二人の間に流れる空気から、趨勢は見て取れた。
毅然とした元春菊と、冷や汗を浮かべる男。
そんな二人の元へ、決定打がやってくる。
「案外重いんですね」
一宮はその手に持ったモノを放った。
それは、右腕を失い、両の眼孔を撃ち抜かれ、半端に口を開いたまま生命活動を停止したウィロゥだった。
「……そうか」
一宮は尖らせた唇から煙を吐き、ソレを見下しながら言う。
「アトリビュートは悪くないですが、無知は罪とはよく言ったものです」
そして、男に銃口を突き付けた。
「「ごめんなさい」は?」
男は俯いた。
足元に転がるウィロゥを呆然と見つめたまま、微動だにしない。
「……一宮、殺すな」
「勿論です。小脳を軽く抉りはしますが」
「それもダメだ!」
「んぅ……」
元春菊の静止に、一宮は統香を見やった。
店の奥、座敷の一角。
煙草を吸いながらまこっちゃんを撫でる主がそこに居た。
銃を下ろした一宮は、流れるようにその輪に加わり、統香と一緒にまこっちゃんを撫でるのだった。
「お疲れ」
統香はそう言って、空いた手で一宮の頭を撫でた。
咥え煙草で一挙両得。
「……ありがとうございます」
一宮は統香の胸へ体重を預け、パーカーの上からこっそり吸い、眼を閉じた。
お腹いっぱいな上、運動をし、煙草を吸って、主を吸って。
多幸感から眠気がやって来たのだ。
一宮はそのまま眠った。
統香はそんな一宮の頬を撫でながら問いかける。
「元春菊、そいつどうすんの?」
「協会へ引き渡すさ。さっきの口振りから、俺を俺と知って強行に及んでいるんだ。
裏に何かがあると見るのが妥当だろう」
元春菊は、依然として俯いている男の肩に手を遣った。
「色々と聞かせてもらおうか」
そして、その手のひらは無数の刃に貫かれた。
「ッ!?」
ような気がした。
元春菊は即座に動いた。
男からバックステップで距離を取る。
改めて確認した手のひらは無傷であった。
この感覚に、元春菊は覚えがあった。
(これほどの殺気……)
強烈な敵意からなる幻覚だ。
「……ふ、流石は彼の有名な元春菊だ」
だらりと身体を揺らしながら、男は元春菊へと向き直った。
「あのお方が一目置くのも納得だな。
機械人形の扱いも、戦況を見通す慧眼も然る事乍ら、最たるはその心か」
試すような視線が元春菊を射抜く。
男の腹積りは理解らない。
が、確信にも似た何かがある。
「……」
元春菊は次の言葉を待った。
臨戦態勢の元春菊を視界の中央に据え、男は思う。
(元春菊の心を砕くには、奴の矜持を破壊してやる必要がある。
奴の矜持……それは、一重に民草の命だ)
男は外へ視線をやる。
周囲は既に野次馬によって囲まれていた。
(一宮に俺への射撃を辞めさせたのも、尋問の他に、ショッキングなシーンを奴らに見せない意図も兼ねてるんだろう)
「お前の心をな、俺ァ、何時でも壊せるんだなぁ」
男は両手をクロスさせ──
「こうやってなァ!!」
その指先から半透明の糸を伸ばすと、それは背後にいる数人の野次馬を捉えた。
(だからこそ、俺のアトリビュートが刺さる!)
「ッ、そう言う事かっ!」
そして、身構える元春菊へ立ち向かわせた。
「えっ、えっ!?」
「きゃあっ! 何コレ!!」
「うわぁあ!! 体が勝手に!」
男は機械人形であった。
これまでの振る舞いから、元春菊はこの男がウィロゥの主と思い込まされていた。
しかし、その全てはフェイクだったのだ。
操られた男は、女は、拳を振り被って元春菊へ襲いかかる。
「チッ!」
元春菊は攻撃を躱す。
合気や柔術は使わない。
ともすれば彼らを傷付けかねないからだ。
「オイオイ! それはいくらなんでも甘ぇんじゃねぇのか!!」
そんな元春菊の隙を突き、男の蹴りが元春菊の鳩尾を貫いた。
「ふん、大した事無ぇ──」
かに思われた。
「……お前、いいんだな?」
攻撃は既の所でガードされていた。
そして、元春菊のその一言に、男は全身を複数の刃に貫かれた。
「ッ!!」
ような気がした。
「真!」
元春菊の声に、まこっちゃんの身体はビクッと反応する。
「おぁ、な、何だ!」
「シファとイヅミを迷彩で隠してくれ。出来るな?」
「っ……!」
まこっちゃんは背後を見やる。
そこには、イヅミの肩に刺さった木片や割れたガラス片を、アトリビュートによって一つずつ取り除くシファの姿があった。
こちらに気付いたシファと目が合い、
「まこっちゃん、頼めるか?」
繊細な作業が故か、シファは額に汗を浮かべながら、険しい面持ちでそう言った。
シファはアトリビュートを行使し、治療に専念している。
一宮は眠り、元春菊は操られた民衆の攻撃を躱すのに手一杯に見えた。
この先、何かがシファとイヅミの二人を襲う可能性。
それは例えば、飛散したカウンターの周辺の木片や、ガラス片や、操られている民衆や。
キリが無かった。
「ハッ、ハッ……」
まこっちゃんの肩が激しく上下する。
突然発生した命のやり取りに、頭も身体も置いてけぼりを食らっていた。
元春菊からの頼みにも、満足に応えられない。
「ハッ……ハッ……」
浅い呼吸によって思考力は奪われる。
寄る辺無いかのような頼りない視線があちこちへ移った。
背後のシファに、正面の元春菊に、
右隣の、統香に──
「ん? どした?」
平然。
なんてモノじゃない。
現状を自分よりも理解していないかのような統香の反応。
その様子に、まこっちゃんの肩の力が抜けた。
「……は、はは……」
笑いが洩れる。
「っはは、はははっ!」
火花が散る様に、口から笑いが溢れた。
そうして一頻り息を吐き出し、それを補填するように深く息を吸う。
それと同時に、何かが全身を迸った。
お前なら大丈夫っしょ。
統香の口から、そんな言葉が聞こえてきた気がした。
「……あァ、任せてくれ」
元春菊とシファ。
この国のトップ層から当然のように頼りにされた。
そして何より、統香からの信頼。
何の問題も無い気がしてならない。
これに奮い立たない真ではなかった。
まこっちゃんの全身がモザイクに飲み込まれる。
それは徐々に鮮やかな色を纏い、パッチワークの様相を呈した。
そして、瞬きの間にその小さな全身を飲み込み、突然払われたように霧散する。
「砂埃一つこっちにはやらせねぇよ!!」
極彩色のパッチワークが晴れた向こうから、世紀末的風貌の真が姿を現した。
そんな真の背後。シファは、拳一つ分に口を開いたまま固まった。
それでも治癒は続く。流石はプロである。
真が両手を前へ突き出す。
それを契機に、その姿は不可視の壁に覆われていった。
パズルのピースを一つ一つひっくり返すように、背後の景色と同化していき──
やがて、その姿は完全に隠された。
元春菊はその光景の一部始終を見届ていた。
見届けていた上で、真の迷彩に呑まれた。
(……ん? どうして俺は何も無い座敷の奥なんか見て──……)
そこでハッとした。
イヅミを治療するシファを迷彩で隠すよう、真に頼んだ事を思い出したのだ。
元春菊に戦慄が走る。
統香から聞いていた。
真の迷彩は有る物を無くし、無い物を顕現させる。
元春菊はてっきり、それは物理的な話に限った物だと思っていた。
(……気を抜くと三人の存在そのものを忘れてしまいそうだ)
元春菊と向かい合う男は、既に真の術中にあった。
背後には誰も居ないという視覚情報に支配され、元春菊のみを標的に据えていた。
(……末恐ろしいな)
元春菊は薄らと冷や汗を垂らす。
敵であれば脅威だが、味方であれば何と頼もしい事か。
真の迷彩に感嘆し、男へと向き直る。
「さて、もう一度聞くが、本当に良いんだな?」
肩にのしかかるような重圧を携えた言葉が、男の動きを止めた。
それは操られている民衆にも伝播し、静止画のようにその動きを停止させる。
幾多数多の修羅場を潜り抜けてきた元春菊である。
現場での判断は類を見ない程に迅速かつ的確。
この場にいる、自らに仇なす害悪の排除を目的に据え、元春菊は既に準備を終えていた。
その"準備"とは何か。
元春菊。彼は、非常に理性的な人間である。
明確な意図を持たずに行動を起こす事は無く、己の行いの全てを即座に言語化する事が出来る男である。
そんな彼はこれから、目の前に居るこの男を殺す。
元春菊の終えた準備とは、心構えのことであった。
人を殺す心構えである。
どれだけの任務を熟そうと、依頼を達成しようと、これにだけは遂ぞ慣れる事が出来なかった。
現場では身を滅ぼしかねない甘さ。
敵にすら温情をかける優しさ。
それは紛れもない元春菊の人柄の良さではあるが、このような場では一瞬の気の迷いが命取りになる。
故に、元春菊は覚悟を決める。
相手に数度語りかけ、その覚悟を揺るぎ無いものとする。
対象の生涯を強制的に、そして一方的に、簒奪する覚悟を。
もしここで命乞いの一つでもされようものなら、元春菊は彼を法の下に裁き、然るべき機関へ送致する手筈をすぐにでも整えるだろうが……
「……ハッ、知るかよ……」
男は強がりか、額に冷や汗を浮かべながら、強気にそう答えた。
その言葉を受け、元春菊は眉間に皺を寄せ、祈るように瞳を閉じた。
数瞬。
そして、重く閉じた瞼を、口を、ゆっくりと開いた。
「ファナ。来なさい」
元春菊が右手を中空に開いた瞬間、黒い籠が何もない空間から現れた。
這い出すように、ズルリと籠が出現しきる。
やにわに、襟の伸び切ったTシャツや人の肌のようなものが露出した。
それをもって、男はようやくそれが、頭全体を覆うほどに髪を伸ばした、小柄な少女であると理解する。
「はいほ〜ん」
甘く明るい声で返事をする少女。ファナ。
彼女は元春菊の屋敷にて爆睡中の身であった。
シファに踏まれようと、
蹴られようと、
素っ裸にひん剥かれようと、目を覚ますことはない。
元春菊に呼ばれたから。
ファナが目を覚ますのは、瞼に夕陽が差し込んだ時。
そして、元春菊から呼び出された時のみである。
「おねむのところ悪いな、ファナ」
「ん~ん。春ちゃんならいいよ。
それで? どしたの?」
元春菊は無言で男を見やる。
ファナはそれに釣られるように、ゆっくりとそちらへ顔を向けた。
ぬるりとしたその動きに、男は全身が総毛立つのを感じた。
「な、何だ……ソイツは……」
男の声は震えていた。
突如として出現した異様な存在に、完全に呑まれていたのだ。
「アイツは、もういいらしい」
元春菊は男の問いを無視した。
そのままファナと言葉を交わす。
「え”っまだ三十代じゃない? 若いのにいいの?」
コミカルな身振りに騙されそうになる。
邪悪が少女の皮を被ったようなその気配に、眼を見開いたまま息を呑む。
「ああ──」
加えて、元春菊の視線に射抜かれた男は、息を呑み、
息を呑み……
元春菊は眼を閉じる。
そして、ため息交じりに言葉を続けた。
「──もう、生きなくていいらしい」
「うっ……!」
胃の内容物が逆流する。
ファナから発せられる得体の知れない圧。
それを受けた男を、極度の緊張と重圧が襲っていた。
「へぇ、もったいなぁ」
「っぐ……ハァ……ハァ……」
男は辛うじて吐瀉物を飲み込み、怪訝な視線をファナへと向ける。
前髪の隙間からギラリと光るファナの瞳と己の視線がかち合う。
「ッ!!」
耐えきれず、男は嘔吐した。
「それと、そこに統香達がいるんだが、一緒にいる真という子を巻き込まないよう注意してくれ」
既に元春菊に慈悲は無い。
無情にもファナとのやり取りを続けた。
元春菊の口から発せられた「統香達」という言葉に、ファナの目は爛々と輝いた。
「トーカちゃん!? じゃあミヤちゃんもいるんだ!?」
そして背後を振り返り、
「──あっ、ホントだ! ミヤちゃんは寝てるんだね! 可愛いねぇえへへっ!
真って子が何処にいるのかはわかんないけど……うん、わかった! きをつけるねっ」
嬉々とした様子でそう言った。
統香と一宮の向こう、座敷の奥にいる真とシファ、イヅミの気配には気付いていないらしい。
(能力の起こりを見逃してしまうと、察知すら出来ないか……)
「流石ファナだ。頼んだぞ」
真の迷彩の分析は程々に、元春菊はそう言うと、ファナの頭を優しく撫でた。
「うんっ!」
天真爛漫。
天衣無縫。
その実、暴虐非道。
見境をもって、しかし無邪気に。
元春菊を始めとした、己が認めた人間以外からの要求は頑として飲まない。
「ふふっ! じゃあ、今日は鬼ごっこだ!」
そんな言葉がファナの口から発せられる。
空気を振動させ、周囲の空間へ広がる。
そして、男の鼓膜を揺らした。
言葉が脳へ浸透し、意味を理解する。
すると、男の視界が真っ黒な闇に染まった。
こうして、彼の生涯は幕を閉じた。
──
ここかな?
そこかな?
「あはっ」
「ひぃっ!!」
夢。
真っ暗闇の中、鬼から逃げる夢。
突然世界から切り取られたような、とても受け入れ難い死と言う現実。
そんな運命を受け入れられるよう、ファナが見せる夢。
それは、せめてもの慈悲。
「なんちゃって」
「っく! はぁっ! はぁっ……!」
気を付けて。
終わりはあなたの、半歩後ろ。
でもここじゃないの。
そこだよ。
終わりは底にあるの。
男は走った。
息急き切って、走り続けた。
何時迄も何処迄も、果て無く走り続けるのだった。
──
「ねぇ~え~、これはやりすぎじゃないんですかぁ~?」
背後の統香からそんな野次が飛ぶと、
「私達なんて可愛いものじゃないですか」
いつの間に目を覚ましたのか、一宮もそれに便乗した。
元春菊と相対していた筈の男は、その痕跡の一切を残さず消滅した。
存在そのものがこの世から切り取られたのだ。
情報。手掛かり。
もしあの男が何らかの組織に属していた場合、それを逃した事は痛手である。
それに間違いが無い事など重々承知の上で、元春菊はファナを呼び出した。
「……そうだな」
故に、二人の煽りには乗っからず、そうとだけ返す。
「……素直すぎるな。裏あるぞこりゃ」
「ですね」
「聞こえてるぞ! ったく……」
二人を軽く叱責した元春菊は、座敷の奥へと歩いていく。
何も無いそこへ片膝を付き、
「真、ありがとう」
短くそう言った。
すると、ペリペリと剥がれていく。
空間が、数センチ四方の紙切れになったかのように、剥がれ落ちていく。
「もう大丈夫なのか……?」
その向こうから、世紀末的風貌の真が顔を覗かせた。
シファを治療に専念させるため、こちらもまた迷彩に専念していたからだろう。戦闘が終わった事には気付いていなかったようだった。
「お〜、まこっちゃん。やっぱ凄ぇなぁお前の迷彩は」
剥離していく世界の向こう。
元春菊の肩越しに、真は見た。
にへっと笑い、こちらへ手を振る統香の姿を。
それを視認した瞬間、真の全身はパッチワークに飲み込まれていった。
しかし、そんな事はお構いなしなのか、真は──まこっちゃんは、一目散に駆け出した。
「統香っ! 統香ぁぁああああ!!」
パッチワークを靡かせるように纏い、泣きじゃくりながら、躓きながら、まこっちゃんは統香の胸に飛び込んだ。
生まれて初めての命の危機も、蓋を開けてみれば圧倒に終わった。
それでも、まこっちゃんは確かに、生きた心地がしなかったのだ。
大見栄を切って迷彩を展開したはいいものの、いつそれを見破られるか。
もし剥離した世界の向こうに、倒れ伏す統香がいたら……
そんな恐怖に押し潰されそうになりながら、まこっちゃんはシファを、イヅミを守り通したのだった。
「うわぁぁああっ! うわぁぁああああん!!」
これまで己を覆っていた恐怖と、それが払われた事による安堵。
情緒が滅茶苦茶になったまこっちゃんは、力の限り統香にしがみ付き、
「……お前は立派だなぁ。凄いよ、本当に」
統香もまた、力の限りにまこっちゃんを抱きしめた。
「ええ、格好良かったですよ」
一宮もその輪に加わる。
お前は寝てたから知らないだろ。
なんて野暮な事を口にする者はここには居なかった。
思う者はいたが。
元春菊とか。
「ま、まこっちゃん」
と、泣きじゃくるまこっちゃんを呼ぶ者が一人。
振り返って確認すると、そこに居たのはシファだった。
「まこっちゃん、凄かった!
スゲェ昔のヤンキーみたいになってたのも! あんなの初めて見た!
まこっちゃんのおかげで、今までで一番安心して治癒出来た!」
飾り気なく、本心をぶつけるシファ。
彼女もまた歴戦の猛者である。
そんなシファをもってして、まこっちゃんの迷彩は度肝を抜くものだったのだ。
「だから、その……こ、これからも! 私が誰かの傷を癒す時は、私のそばにいてくれ!!」
照れくさいのか、シファは頬を朱く染めていた。
拳を握って、ぷるぷると震えている。
「……ああ、もちろん!」
そんなシファの胸を打ったのは、まこっちゃんの力強い返事だった。
泣きじゃくっていた先ほどとは打って変わって、目尻に涙は残せど、その瞳は力強さに満ちていた。
「っへへ! よろしくなっ!!」
シファはぱたぱたと駆け、まこっちゃんに抱きついた。
「おっとと! こちらこそだ!」
熱いハグ。
抱擁。
安心して背中を任せられるコンビ。
後の『まこ×シファ』爆誕の瞬間であった。
ファナは元春菊の側で、そんな光景に目を奪われた。
重く閉ざされた前髪の奥にある大きな瞳をキラキラと、煌々と、爛々と。
百合豚のファナにとって、ロリ×ロリは多分な栄養を孕んだものだった。
ファナは機械人形の中でも特段稀有な存在である。
その所以は対価にあった。
基本的には日がな一日引き篭もり、ゲームに没頭する事が対価であるのだが、彼女の場合はもう一つ、対価として成立するものがある。
多くは語るまい。
そういう事である。
余談だが、ファナは初対面の統香と一宮に、今回と同様のアトリビュートを行使していた。
ファナの作り出す夢の世界から抜け出す方法は一つしか無い。
一つしか無いのだが、統香と一宮が現在こうして生きているという事は、二人がその世界を攻略した事を示している。
ファナの夢から抜け出す方法。それは──
「君たちなら、トー×ミヤみたいに抜けられるかもね」
ファナはまこっちゃんとシファの隣を通り過ぎた。
"それ"を残して。
「んぁ〜〜、そんじゃあ、モデラー呼びますかぁ〜」
飽和し始めた空気を統香は締めた。
モデラー。
此度の一件のように、市街へ被害が及んだ際の事後補修を請け負う、協会所属の芸術家の総称である。
基本的には破損前の状態に、場合によっては各々の好みに。
そんな調子での修復となるが、これが案外評判が良い。
他人の作品はインスピレーションを働かせるケースが多くあるからだろう。
芸術の国ならではと言えた。
何にせよ、平四庵を舞台に起こった急襲劇は、こうして幕を閉じたのだった。
* * *
「あ~あぁ……」
「ん、どうした」
「金策、一個潰れちゃった」
「金策……ああ、あの金融か。
どうせ長くは持たなかったろう」
「そうだけどさぁ~、自分で始めた物語、終わらせるのも自分がいいじゃんか」
「わからんでもないが……じゃあ、何でそんなに笑顔なんだ」
「……フフ、フッフフフ! マスク越しなのによくわかるねぇ?
喜べアルディオ、戦争だ」