カタコトの来訪者(1)
青天の霹靂。
晴れた日に雷が落ちるような、予想だにしていない出来事が突然起こる事を指す慣用句である。
「──ですって」
AIによる検索結果を確認した二人は、揃って煙草に火を点けた。
「じゃあ合ってんじゃん」
「コレ落雷に匹敵してますか?」
「でも意味はわかんねーよ?」
まこっちゃんもこの通り、目の前の光景の理解に難儀していた。
統香は煙を燻らせ、改めて視線を前へやる。
「だかラ! ワースト犬子犬ネ! ワタシそこ依頼されテ来たヨ!」
屋敷の門の外。
チャイナ服に両把頭。
カバーまで被せたその頭部、服装は、格闘漫画の登場人物を想起させる。
しかし、門に張り付きガシャガシャと癇癪を起こす様は、動物園の猿のように見えて仕方がない。
そのため彼女の第一印象は、『ちょっと頭の弱いコスプレイヤー』といったところであった。
「責任者呼んでくるネ!」
「アポイントメントの確認が取れておりません。統香様の承認が得られるまで今しばらくお待ちください」
そんなチャイナ娘の対応には一宮直属の部下であるシルヴィアが、毅然とした態度で当たっていた。
門を挟んでいるとはいえ、目の前では怒れる猿が暴れ狂っているにも拘わらず、その立ち居振る舞いはまるで平素と変わりない。
元ヘアメイクアーティストとは思えない強心臓である。
「シルヴィア、いいよいいよ。入れてあげな」
見かねた統香が声をかけると、シルヴィアは振り返った。
顔の右半分は刀の鋒を思わせる銀色の前髪に覆われているものの、左半分はワイルドに掻き上げられており、そこにはやや不満そうな表情が張り付いている。
「……承知いたしました」
遅い。
とでも思ったのだろう。察した統香は気まずそうに謝りつつ、門を開くよう促した。
「フン、初めから開けるヨロシ」
いつの間に門から降りたのか、チャイナ娘は腕組み直立している。
先ほど彼女は「依頼されて来た」と訴えていた。
本日の来客は予定されていない筈であったが、依頼を受けてわざわざ赴いていると言うのにこのような扱いを受けては不満も溜まろう。
それも、自分が直接関わっていない上役同士の連絡不備が原因であれば尚更である。
「どうしたんだ? 制作の依頼か何かか?」
そのため下手に出る統香であったが、
「その前に自己紹介ヨ」
チャイナ娘はそう言うと、ゆるりとしつつも小慣れた動きで両腕を胸の前へ運んだ。
「你好。ワタシ、李・晨星ネ!
湖南省・紅星寺カラ、武者修行の旅の途中ヨ!」
抱拳礼にて、ぺこりと頭を下げる。
丁寧な所作に吊られ、統香もつい畏まった挨拶をした。
「っとと、はじめまして。八月朔日統香です」
吸いかけの煙草を一宮へ預け、腰の前で右手の上に左手を重ねて頭を下げる、いわゆるお辞儀にて礼を返す。
「ン、謝謝ネ」
抱拳礼を解いた晨星の作る砕けた明るい表情に、統香は再度吊られた。
へらへらとした壁を感じさせない物腰でもって、
「いやいやぁご丁寧にありがとねぇ。
人間だけの来客なんてほんといつぶりだろ。良かったらゆっくりしてってね」
「是啊。思たヨ。この国人間少ないネ」
そうして流れるように雑談が始まった。
「人口の半分くらいは機械人形だからね。
てか晨星ちゃん、人間と機械人形の区別つくんだ? 見た目は普通の人間と変わらないのに、やるねぇ」
可愛いものに目がないアラサー予備軍は、既にデレた顔付きを晨星に向けている。
晨星もそれには気付いているだろうに、さりとて不義理は働くまいと考えての事か、極めて真摯にやり取りを続けていた。
「それくらい気でワカるヨ。機械人形、人間に比べて気大きいアル」
「そっかそっか、晨星ちゃんは達人ってやつだね。
そんで? その達人さんが今日はどうしたの?」
統香は雑談のついでとばかりにそう尋ねた。
「哎呀! そウそウ、要件ネ要件。是渡せばわかル言われたヨ」
懐から取り出されたのは一枚の紙切れ。
名刺よりはやや大きいか、統香はそれを受け取り目を通す。
「ほ〜んどれどれ──」
一行目を黙読し、そして、
『親愛なる我が姉上様へ』
飛び出さんばかりに目を見開いた。
(姉上……って)
「は──」
声ならぬ声を発し、硬直する。
統香に弟妹は居らず、また、画業一本の父が他所に愛人を作っていた線も考え難い。
虚言かとも思ったが、文末にはこのように記されていた。
『Artiste Inconnue代表 八月朔日統弥より』
(ほずみ……とう……や……?)
「ッ!」
その瞬間、一宮は叫ぶよりも疾く駆け出した。
そして、
「呀ッ!!」
晨星の放った縦拳に、一宮のメイド服の裾は消し飛ばされた。
「イイ動きネ」
一宮は二度の跳躍を続けて距離を取ると、抱えた統香を優しく下ろす。
(今の攻撃……殺気は感じられませんでした。
余程の達人か、マエストロ以外が目的か……)
晨星を強くに睨み付けるも、その顔に動揺は見られない。
寧ろ鋭い視線で睨め付け返し、半身に構える。
「一宮。ワタシ、オマエ倒セ言われテここ来たアル」
晨星は低く抑えた声音でそう言うと、左肘を曲げ、背に張り付ける。そして真っ直ぐに伸ばした右腕の指先を手前に引き、一宮にとっても、誰にとっても見覚えのあるポーズを取った。
かかってこい。
露骨な挑発を前に、一宮は冷静さを保ったまま臨戦態勢へと移る。
軽く握った拳を構えた。
「だぁーめだわからん」
背後からは気の抜けた主の声。
先ほどから、何やら手渡された紙切れを前に固まっていたが、
「一宮。その子からは色々と聞きたい事がある。
任せたよ」
そう言うと胡座をかいて煙草に火を点けた。
「はい」
「まこっちゃんも、こっちおいで」
「お、おう……」
晨星をぐるっと迂回するように、まこっちゃんは統香の元へと走っていく。
最大限警戒するまこっちゃんに見向きもしない辺り、非戦闘員には手を出さない主義なのだろう。
「殊勝ですね」
「弱い者イジメするのこと、功夫が鈍るのことヨ」
「……そうですか」
(先ほどの突きと言い、恐らくこの言葉に嘘は無い。
……となると、気持ちの良い人ですね。無闇に暴力を振り撒かない、武人気質。
せっかくの機会ですし、この人を相手に私の武術がどこまで通用するのか、試してみてもいいかもしれません)
一宮にしては珍しく、拳に力が入った。
先ほどの一撃。一宮は努めて素早く動いたつもりでありながら、裾を捉えられた。
到底全力でないだろうその一発は恐らく、主を狙われるという一宮の逆鱗を刺激する為だけのもの。
純粋な武術に於いては数段格上か。
比武というほどのやり取りは無かったものの、一宮は相対する晨星をそのように位置付けた。
グッと握った拳を改めて緩め、敵を見据える。
「准备好了吗《準備はいいか》?」
意味はわからない。が、一宮は頷いた。
その直後。刹那の出来事であった。
「哈ッ!!」
裂帛と共に放たれた晨星の拳が、突如、一宮の視界から消えた。
半径四メートル以内。己の間合いであるにも拘らず、一宮はその拳の行き先を見失ったのだ。
(これは──ッ!)
即座にサイドステップで距離を取り、一度間合いから離れる事に。
咄嗟の判断であったが、それは間違いではなかった。
晨星の驚異的な部分。まず挙げられるのはその拳速だろう。消えたと錯覚するほどの速度で、軸もブラす事が無い。
しかし、問題はその踏み込みの脚力。瞬発力にある。
あれだけの爆発力ある踏み込みに耐え得るバネと、強靭な下半身。
下手に間合いを保っていては、反応し切れない。
事実、その一撃により裾への被弾を許した。
額から一本の冷や汗が垂れるのを一宮は感じた。
「ムッ……流石ネ」
一宮の居た空間。丁度顔面のあった辺りには、繰り出されただろう晨星の左拳が残されていた。
冷や汗が顎を伝うと同時に、左頬に鋭い痛みが走る。
拭ってみると、その手の甲には赤いものが付着していた。
「……マズいですね」
出血。
統香の下着を嗅いで以来、それを目撃した統香にドン引かれて以来、半年振り。
戦闘においては、実に二年振りの出来事であった。
「マジ……?」
その事実に統香の目も見開かれる。
全幅の信頼を寄せている事に変わりはないが、それでも、目の前にいる相手は想像以上に想像以上である可能性が浮上する。
「ホォオオオオ……」
晨星は脇を絞め、握った両の拳を腰だめに据えた。
そこには最早先ほどまでのコスプレ感は無く、代わりに達人の風格をまざまざと感じさせる。
猿癇癪からは想像だにしていなかったその迫力。
(青天の霹靂……)
一宮は思わず生唾を飲み込んだ。
「今のは挨拶代わりヨ。次は当てるネ」
亜音速に達する攻撃すらも容易く回避する一宮。
そんな彼女が攻撃に反応しきれず、攻撃を躱しきれず、裾は愚か顔面にまで傷を負った。
「……お名前、もう一度伺ってよろしいでしょうか」
深く息を吐いた一宮は両腕を構え、万事に万全に備える。
対する晨星はそんな一宮を挑発するように、或いは己を鼓舞するように、
「晨星──」
歩形、独立歩の形を取ると、
「──李・晨星ネ!!」
ビシッと構え、力強くそう名乗った。
* * *
「ホアァアアッ!!」
晨星は影を置き去りにする程のスピードで駆け出した。
激しく地面を陥没させ、瞬く間に一宮へ肉薄すると、
「嘿ッ! 嘿ッ嘿ッ嘿ッ嘿ッ嘿ッ!!」
目にも留まらぬ連打を繰り出し、上下左右様々な打ち分けで一宮を翻弄する。
「ここッ!」
しかし連打の僅かな間隙を縫い、一宮はカウンターを振り抜いた。
「かかったネ!」
抜群のタイミングで放たれたその攻撃。晨星は突き出された一宮の拳を躱さず、両手で受け止める。
(いけない!)
自らの過ちに気付くも、晨星の攻撃は既に起こっており、
「アイヤーーッ!!」
衝撃を吸収、溜め、放出。
一宮は、自らの力によって後方へ弾き飛ばされた。
「うッ……!」
激しい衝突音が耳に残る。
力を受け流す、或いは押し返す。その技法には心当たりがあった。
(使えて当然でしたね)
一宮は空中でくるりと身を翻し、着地と同時に晨星へ向かって駆け出す。
が、眼前には既に拳が迫り来ていた。
「危なッ──」
それを咄嗟に合気でいなすと、バックステップで再度距離を取る。
攻勢の立て直しを目論んでの事であった。
「よく躱すネ」
汗一つかかず、息一つ乱さない。
本物の武人を前に、一宮の身体は硬くなっていた。
アトリビュートを使用せず、武術だけで相手と渡り合う。
己の科した無理難題に辟易する。
「哈ッ!」
しかし休んでいる暇は無い。
晨星は相変わらずの速度で一宮の懐へ潜ると、
「嘿ッ!!」
地を蹴る反動を利用し、足の裏を天高く突き上げる。
「くッ!」
必倒の一撃を辛うじて躱した一宮は、反撃に右の縦拳を繰り出した。
「甘いヨ!」
しかしそれは軽くいなされ、カウンターの肘が鳩尾へ突き刺さる──
「フッ!」
──かに思われたが、一宮は打ち込まれた肘を起点に身体を反転させ、返す刀で肘打ちを放った。
「遅いネ!」
それも読みの内か。晨星は難なく躱す。
目にも留まらぬ攻防を前に、統香とまこっちゃんは完全に置いてけぼりを食らっていた。
構え直す晨星は据わった瞳で一宮を見つめ、幕間とばかりに口を開く。
「……フン、驚いたヨ。
オマエ、『化頸』使うネ?」
落ち着いた様子の晨星とは対照的に、一宮の顔色は優れなかった。
化勁。
それは晨星も使用する中国拳法、太極拳における、相手の力を利用する高等技術である。
奇しくも二人の取る戦法は似通い、これをカウンターの起点として用いていたのだが、限々で受け流す一宮と、余裕を持っていなす晨星の構図から、実力差が露わになっている事は否定のしようが無かった。
一宮は慢心していた訳では決してない。
しかし、それでも、彼我の差からプライドに影が差す。
「……ええ」
眉間に皺を寄せ乍らも、己の呼吸を整え、相手の呼吸を読むために返答する。
「オマエ、誇るヨロシ。ワタシの功夫ここまで粘られたの初めてのことヨ」
墓穴か。一宮からすれば辛うじて難を逃れているに過ぎない。そして、「ここまで」も何も、攻防は数度程度。
それ故に一宮はその言葉を額面通りには受け取る事が出来ず、寧ろ煽られている気さえした。
胸の内にぐつぐつとした熱が溜まっていくのを感じる。
「それはどうも」
怒りにも似た感情に沸騰する複雑な心境を抑え、努めて冷静に言葉を返すのが精一杯であった。
「ケド、次で終わりネ」
言い切るが早いか、突如、分かりやすく空気が変わった。
ビリビリと肌を焼き付けるような殺気に、一宮は再び構える。
特に流派の無い、いくつもの武術を体得した末に編み出した、謂わば自己流の構え。
空手で言うところの『天地上下の構え』にも似た体勢をとり、晨星を見据える。
対する晨星だが、
「これ喰らえば終わりのコト。
殺しナイから安心するヨロシ」
彼女もまた、独自の構えを披露した。
弓歩のようではあるが、前脚の膝は曲げ切らず、後脚は伸ばしきらない。小回りが利くだろう適度に脱力された幅に脚を開き、両拳は握らず、それはどこかレスリングの構えのようにも見えた。
ともすれば何らかの文献には記載されているかもしれないが、少なくとも、相対する一宮の知識には、これと類似するものは無かった。
「ワタシの和拳、見せてヤるネ」
その言葉を残すと、晨星は瞬きの間に姿を消した。
(ックソ! 狙われた……!)
無論、晨星は真人間である。そのためこれはアトリビュートではない。
純然たる技術であった。
文字通り、一宮の瞬きの間を狙い素早く移動する事で、あたかも姿を消したかのように思わせる体捌き。
相手の呼吸を読み、一瞬の隙を突く御業。
そうして晨星は一宮の背後へ回り込んだ。
「そこッ!」
しかし一宮とて達人の域である。
足音も、衣擦れの僅かな音さえ発さない晨星の気配を微かに感じ取り、素早く背後へ蹴り込んだ。
「白ッ!!」
しかし攻撃は空を切り、代わりに視線ががくっと下がる。
そうして視界の下方に映ったのは、繰り出した蹴りよりも遥かに低く構えた晨星が己の軸脚を蹴り抜いた様であった。
バランスを崩された一宮。即座に体勢を整えて跳躍を試みるも、
「撥ッ!!」
その脚は踏み抜かれる。
震脚にも劣らない晨星のその踏み込みの威力に、一宮のフットワークは封じられ──
「中ッ!!」
間髪を容れずに山突きが襲いかかった。
見事に打ち分けられた双拳は人中と鳩尾。正確に急所を目掛けて放たれた。
「ッッ!!」
一宮はそれを既の所でガードする。
そのままガッチリと拳を掴むと、晨星の顎へ膝を蹴り上げた。
こちらもまた、当たれば必倒の一撃であるが、
「哈ッ!!」
晨星は全身を回転させて拘束を千切ると、そのまま流れるような化勁によってその力を受け流し、
「和了ネ!」
回転の勢いを全身に乗せ、咄嗟にクロスアームブロックを構える一宮の身体へ己の背を押し当てると、
「大三元ッ!!」
繰り出したのは『貼山靠』。別名『鉄山靠』。
「ガッ……ハッ……!」
体勢の崩れた相手へ打ち込む、爆発力に秀でた技。
通常、地面を強く蹴り込むだけでも相手の防御を貫通する威力を誇るそれに、化勁によって生まれた回転力を加えた奥義。大三元。
食らってしまえば、タダでは済まない技であった。
「役満ネ」
晨星は正面に向き直ると、宙を舞う一宮へ抱拳礼にて礼をし、踵を返す。
「へぇ」
「ちょ……え……?」
そのまま毅然と歩み、憮然と胡座をかき続ける統香と、対照的に困惑の表情を浮かべるまこっちゃんを、
「……」
「うわわっ!」
素通りした。
「……はぇ?」
まこっちゃんは素っ頓狂な声をあげた。
てっきり殺られると思ったのに。
なんて視線で通り過ぎた晨星を追う。
するとそれに気付いたのか、晨星は振り返る事なく歩みを止めた。
「殺しナイ言うたネ。
ここ一宮倒しニ来ただけヨ」
そう言い、再び歩き出す。
そんな背を見送り、統香は次の煙草に火を点けた。
「晨星ちゃんさぁ」
「……なにヨ」
律儀に歩みを止め、しかし振り返る事は無く。
一宮を打倒した今、その主にまで用は無い。
特段警戒する様子もないその背中へ、統香は煙を吐きながら、
「君さぁ、死にたいの?」
そう尋ねた。
「は──」
晨星は思わず振り返った。
何を言っているんだと思った。
しかし、その言葉は、その思考は、突如響いた轟音に掻き消された。
「什么ッ!?」
目の前に濛々と立ち昇る土煙によって視界を封じられた晨星は、弾かれたように咄嗟に防御の構えを取る。
しかし、
「ガッ!!?」
突如、己の腹部に重く鋭い衝撃が走った。
気配を感知してからでは回避も受けも間に合わず、構えた両腕の隙間を縫うようにして、途轍もない貫通力を持った何かが鳩尾に衝突した。
反射で比肩するものが枚挙されるも、どれも違う。
それは鋭利な刃物でも、高い質量を持った鉄塊でも無い。
正体不明の何か。
そう結論付ける他無く、晨星は土煙から弾き出された。
抜群の平衡感覚を以て着地に成功するも、
「ッ、ヴ……ヴォエエアアッ!!」
ダメージは深く、胃の内容物を全て逆流させる。
「ゔっ……ぐぶ……」
(煎鸡蛋……せっかくキレイに焼けたのに……)
晨星は吐瀉物の映る視界に影が差したのに気付くと、ゆっくりと面を上げた。
「すみません。矢張り武では太刀打ち出来そうになかったので、使わせていただきました」
見上げた先に居たのは、つい今し方、己が打ち倒した機械人形。
それも、世界一の芸術家が使役する機械人形である。
「いちの……みや……」
その顔を認め、気付いた。
「傷……」
「はい。治しました」
先ほど己の基節骨にて切り裂いたはずの左頬。
そこには切り傷は愚か、擦り傷すら、血の跡すらもが認められなかった。
(治した……成程……)
“使う”の意味を悟り、段々と頭が追い付いてくる。
その服に土埃は残れど、生傷の一切が確認出来ない。
今こうして地に伏しているのは、一宮の前蹴りによるもの。
理性と共に、本能で理解した。
「……ワタシ、負けたネ……」
言いつつ、目尻に涙が浮かんだ。
生まれてこの方、功夫以外に取り柄が無い事は理解していた。
それでも李・晨星が大手を振って街を歩けたのは、その功夫にて師範以外の誰にも、ただの一度も敗北した事が無いからであった。
その師範にも認められ、免許皆伝を受け、己が誇らしかったからであった。
それが、負けた。
涙が溢れた。
「ッ……んぐぅ……」
晨星は声を押し殺して泣いた。
武者修行を通し、多くの高名な武術家、格闘家を正面から打倒してきた。
己の積み重ねた功夫は、独自に編み出した拳法は、他のどの武術や近代格闘技にさえも、勝るとも劣らない事を証明した。
己に敵う者は居ないと思っていた。
慢心ではなく、誇りとして。単なる事実として。そう思っていた。
涙がぼろぼろと溢れた。
武術に於いて己より劣る一宮へトドメを刺さなかった事。
そんな一宮の前蹴りを食らい、一撃でダウンを喫した事。
そして、敗北した事。
それらが一本の線として繋がり、油断していた事を理解する。
晨星は、己の不甲斐無さに涙が止まらなかった。
「えっと、その……」
「黙レ……聞きたくナイ……」
堰切り流れる涙を前に、一宮は言葉を飲み込んだ。
一宮とて、勝利しただなどと思えよう筈も無い。
主を守護するため、より多くの局面に対応出来るようになるため、古今東西ほぼ全ての武術を修めていた。
その粋を計ろうと挑むも、一切が通用しなかった。
己に課した縛りさえ達成出来ず、肉体一つで挑んでくる真人間を相手に、アトリビュートまで使わされた。
相手が誰であろうと関係無い。
屈辱であった。
「……わかりました」
そう返し、主の元へと歩いていく。
「おかえり」
統香は一宮を讃えるでもなく、慰めるでもなく、ただそうとだけ言って、項垂れる頭を撫でた。
「っ……」
悔しさに歯噛みする。
微かに聞こえる晨星の嗚咽に、敗北感を強調された。
勝者の居ない激闘は、こうして幕を閉じた。
* * *
踏み込みによって陥没した地面を見つめ、後の修繕に思いを馳せる人物が一人。
「とりあえず中へ入りません?」
シルヴィアである。
空気を読まず、変わらず平素さながらに振る舞う彼女の様子を見ていると、統香はへにゃりと力が抜けた。
「だなぁ〜。聞きたい事もあるし」
一宮の頭をぽんと撫で、ついでにまこっちゃんの頭もぽんと撫で、統香は晨星の側へ移動する。
「……殺すカ……?」
随分な鼻声で、俯いたまま。
項垂れた頭を、統香はぽんと撫でた。
「気安く触るナヨ……」
晨星はその手をぶっきらぼうに払い除ける。
そして、触れるなとでも言うかのように、膝を深く抱え込んだ。
「……ワタシ、負けたネ。
敗者に情け無用ヨ」
「知ってるよ。
だからさ、『Artiste Inconnue』について知ってる事、洗いざらい話してもらいたいんだよ。こっちは」
尻上がりに強まった語気に晨星は顔を上げた。
涙を涸らし、晴らした目で統香を見上げる。
「……良い。ケド、もう……ムリ……」
そして、白目を剥いて仰向けにぶっ倒れた。