第七章
谷の縁に広がる光景は、見慣れた自然とはまるで違っていた。
巨大な車輪に支えられた建築群、空へと突き刺さるような観測塔、絶えず白煙を吐き出す蒸気炉――。
まるで都市の一部がそのまま移動してきたかのようだった。
これが、学者の町。
私とアビスが谷底から戻った頃、ちょうどその町が斜面を慎重に降りようとしているところだった。車輪は軋み、蒸気音が周囲にこだましていたが、その動きは精密で、一糸の無駄もない。
ほどなくして、彼らは町を停め、私たちのもとに一人の老紳士が現れた。
「君たちが……ドラゴンを追い払った者たちか」
灰色の髪を後ろで結び、眼鏡越しにこちらをじっと見つめてくるその人物は、自らをフリムと名乗った。
「観測隊から報告は受けている。見事な手腕だった。改めて――ありがとう」
その声には、深い疲れと、どこか知性の重みがあった。
私たちは軽く会釈し、谷底で目にしたもの――遺跡らしき構造について語った。
メモは現物がないので、伏せていた。
途端、学者たちの雰囲気が一変する。
「やはりこの谷に……!」
「図面を広げろ、地形を照合する!」
「想定より早いが、移動準備を急げ!」
フリムは落ち着いた調子で指示を出しつつ、私たちに目を向けた。
「町ごと谷底に降りる。可能であれば、君たちにも手を貸してもらえないだろうか?」
もちろん、とアビスは即答した。
私も迷いなく頷いた。
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私たちは数日かけて、学者の町の谷底移動を支援した。
私は地形の変化に敏感だった。岩のひび割れ、水の流れ、風の通り。そうした微細な感覚を頼りに、崩落のリスクが少ない安全なルートを選定し、誘導した。
アビスは魔力を使い、危険箇所に一時的な補強魔法を施した。橋が必要な場所には浮遊円環を、傾きが危うい支柱には結界を。彼女の魔法は、あくまで目立たず、けれど確実に町の重みを支えた。
そうして、巨大な町は谷底へと静かに降りていった。
⸻
拠点を安置した翌日、フリムは再び私たちのもとを訪れた。
「……アビス様に、お願いがあります。もし“魔女の感覚”で、この地にあるものの所在がわかるのなら、ぜひ――」
アビスは無言のまま頷くと、彼らの工事現場について行き、周囲を見渡す。
そして職人たちが見守る中、地面に膝をつき、手をそっと土に添えた。
瞳を閉じ、静かに呼吸を整える。
その場の空気が、少しだけ張り詰めた気がした。
「……だいたい、このあたりが中心になってると思う。深い空間がある。はっきりとは言えないけれど、人工的な気配がするわ」
「その情報だけでも、私たちには十分です。……ありがとう」
フリムは、アビスに心から頭を下げた。
⸻
発掘はそこから本格化した。
木の杭を打ち、支柱を組み、土砂を少しずつ掘り起こす。
滑車で土を運び、仮設の記録小屋では日々の測量と進捗が記録されていく。
魔法は使えない。だが、彼らの動きは正確で、迷いがなかった。
私も現場の一員として動いた。
鍬を振るい、木材を担ぎ、崩落の兆しを察知すればすぐに報告した。
初めは距離を取っていた職人たちも、いつの間にか私に話しかけてくるようになった。
「シリウス嬢、力持ちだな!」
「風向きが変わったら教えてくれ、あんたの勘はすげえ」
私は笑って頷きながら、どこか救われたような気持ちになっていた。
現場の一員として働くようになって数日が経っていた。
日差しは強く、谷底の空気は湿っていたけれど、身体を動かしていると、むしろ心は軽くなる。
この日も私は、作業班の一人と並んで、運び出した土砂を仕分けしていた。
「にしても、あんたみたいな旅人が手伝ってくれるなんて、なかなかないぜ」
隣でスコップを振るうのは、赤茶けた髪とひげ面が印象的な職人――ヨランという名の男だった。
「見かけより力あるし、反応もいい。鍛えられてんな、シリウス嬢」
「鍛えては……いるつもりです。旅とか」
ドラゴンとか……
「旅、ねぇ。で? 何の旅だ? 世界を救う勇者の旅ってか?」
からかうような口調に、私は真面目に答えてしまった。
「いえ、私は――“使い魔”なんです。アビスと一緒に、神を探しながら旅をしてます」
「…………」
一瞬だけ、隣のスコップの動きが止まった。
そのあと、ヨランは盛大に吹き出した。
「ぷっ……ははっ、なにそれ!使い魔って! あの静かなお嬢さんが“ご主人様”か?!」
「はい、一応……」
「いやいやいや、あんた、マジメに言ってるのか?!」
「てっきりさ、あの子はどこかの城のお嬢様で、あんたはそのボディガード兼、身の回りの世話係かなんかかと思ってたぞ?」
「……ち、違いますよっ!」
「だって、雰囲気あるじゃん。こう、全身白ずくめで、しゃべるとちょっと怖くて。
でも子どもには優しい。おまけに、魔法がちょっとだけ使える……って、あれ?」
「魔法は、“ちょっと”じゃなくて、ちゃんと使えてます……!」
「あっはは、冗談だって。冗談!」
ヨランは腹を抱えて笑っていた。
私は呆れながらも、なんだか悪い気はしなかった。
「でもな、シリウス嬢」
笑いながらも、彼は少しだけ真剣な目で言った。
「そうやって“何かのために”頑張ってる奴を見ると、こっちも手を抜けねぇって思うんだよ。……いい旅してるな」
私は少しだけ、黙ってから答えた。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、ちょっと嬉しいです」
スコップの音が、再び土を叩く音に戻る。
私はその横顔を見ながら、「あの人、きっと昔は兵士だったんだろうな」と思った。
そして、もしかしたら――どこかで、“守れなかった誰か”がいたのかもしれない、と。
でもそれを聞くのは、たぶん今じゃない。
だから私はただ、黙って、次の土を掘った。
その一方で、アビスは発掘には加わらず、生活区で過ごしていた。
特に、子供たちの世話をしていたらしい。
最初は“魔女”という存在に怯えていた子供たちも、彼女が静かに絵本を読み聞かせたり、包帯を巻いてくれたりするうちに、少しずつ心を開いていった。
作業を終え、喉を潤しに生活区の井戸まで足を運んだ。
町の広場では、子供たちが駆け回っていた。
その中心には、アビスが座っていた。膝の上には開かれた絵本。周囲には小さな子たちが集まり、彼女の声にじっと耳を傾けていた。
ふと、一人の子が私に気づいて手を振ってきた。
「シリウスお姉ちゃんー!」
そして、もう一人が笑いながら言った。
「おとこお姉ちゃん〜、おつかれです!」
「……それ、どっちかにしてくれない?」
私は静かに水桶を置いて応じた。
「だってさ、声はちょっと低いし、背も高いし、動きもかっこいいし! ほんとは男の人なんでしょ?」
「……女です」
「でもアビスお姉ちゃんを守ってるし、ちょっと男っぽいじゃん!」
「それは、役目だから」
「えー、本当にー?」
子供たちはきゃははと笑いながら、私のまわりをぐるぐると走り回った。
その光景を見て、アビスが口元に指を添えながら、ふっと微笑んだ。
「……人気ね、シリウス」
「からかわれてるだけだろ」
私は小さくため息をついて、水をすくった。
でも、心の奥では、少しだけくすぐったいような気持ちが残っていた。
⸻
そして――発掘開始から2週間後。
その日は、風がひどく穏やかだった。
湿った土を削っていた職人の一人が、ふいに声を上げた。
「……金属だ! これ、石じゃねえ!」
みるみるうちに作業が加速し、慎重に土を削ぎ落としていくと、灰銀色の表面が姿を現した。
それは何層もの構造材が重なり、円を描くように広がっていた。
「これは……階段? いや、螺旋だ。沈み込んでいる……!」
「中心がある。施設だ、これは!」
見上げると、発掘地はいつの間にか円形の深淵のようになっていた。
フリムが目を見開き、呟く。
「……ここは、ただの建築物じゃない。“過去の中心”……もしかすると、それに繋がる場所かもしれん」
私は足元の風の流れが変わったのを感じた。
穏やかだった風が、ほんの少しだけ、背中を押すように通り抜けた。
「……何かが、“こちらを見てる”気がする」
その言葉が、自分の口から自然と漏れた。
目の前に広がるのは、遠い昔に埋もれた、誰かの記憶の残骸。
けれどそこには、間違いなく“何か”がある。
私たちは、その入口に立っていた。