第六章
……生きてる。
そう気づいたのは、頬に柔らかく絡みつく蔓と、背中に染み込むような湿った土の感触だった。
ゆっくりと目を開けると、上空に薄く霧がたちこめ、光すら届かぬ谷の底が広がっていた。
私は女王と一緒に、落ちたのだ。あの黒い巨体と共に。
身体を起こす。あちこちが痛むけれど、骨は折れていない。擦り傷、打撲、息苦しさ。思ったより軽い。
蔓と地面が、私を受け止めてくれたのだろうか。
「……アビス?」
意識を集中して、思念を送ってみる。でも……応答はない。
何も返ってこない静寂に、胸の奥が冷たくなった。
距離が離れすぎているのかもしれない。私は唇を噛みしめ、立ち上がった。
と、その時──
重たい唸り声が、空気を揺らした。
恐る恐る近づくと、瓦礫の向こうに、巨体が横たわっていた。女王ドラゴン。
あの黒い鱗。目はかすみ、呼吸は浅い。すでに立ち上がることもできず、血に濡れた腹の傷口が波打っていた。
……まだ、生きてる。
私は剣を拾った。鞘に戻っていたのは、どこかで意識を失う前に握っていたのだろう。
そのまま一歩、また一歩と、近づく。
「……ごめん。」
そう言いながらも、足が止まる。
このドラゴンも、生きていた。痛み、傷つき、恐れていた。私がそれを、今から終わらせようとしている。
一瞬、頭をよぎる。
本当に、これでいいのか?
戦いの中ならともかく、今はもう、動けない。抵抗もしない。
でも、放っておけば、また苦しむ。
私がここで終わらせなければ、誰が彼女の痛みを引き受ける?
──私は剣を両手で握り、深く息を吸った。
そして、心の中で何かが小さくはじけたその瞬間、剣を突き立てた。
音はなかった。ただ、静かに、命の灯が消えた。
•
少し歩こうと思った。アビスとも繋がらないこの場所で、立ち止まっていても仕方がない。
とりあえず、出口を探す。どこかに、上へと続く道があるかもしれない。
谷底は思ったより広く、倒木や岩が積もって迷路のようになっていた。
踏みしめるたび、湿った土が靴底にまとわりつく。
周囲は静かだった。鳥の声も、風の音も聞こえない。ただ、私の呼吸だけが、この場所の音だった。
……その時だった。
柔らかな光が、暗がりの先に揺れていた。
私は近づく。そこには──小さな花が咲いていた。
薄い、青白い光を放つ花。それが一輪だけでなく、群れをなして咲いていた。まるで星屑が地面に降りてきたように。
その光は、あたりを淡く照らしている。まるで、時間すらゆるやかに進んでいるような、神秘的な空間だった。
風が吹いた。花がそっと揺れる。音はしない。
水音が聞こえた。どこからか、小さなせせらぎが流れていた。
私はその流れに導かれるように歩き出す。花と水の道を辿って、暗闇の奥へ。
やがて──古代の石壁が、木々の陰から顔を出した。
石でできたアーチ、ひび割れた床。自然に飲まれかけたその場所は、まるで忘れ去られた神殿のようだった。
私は中に入る。
中は広く、天井は高かった。無数の棺のような箱が、整然と並んでいた。
白く、冷たく、無機質なその形。どこかで見た記憶がよみがえる──チェンクン。あの装備屋の奥にあった、棺。
まるで、これはその原型。
私はさらに奥へ進む。
風に晒されて風化しかけた、紙のような何かが壁に貼りついていた。
なんとか視認できたその模様には、見たこともない文字のようなものが並んでいる。
————————————
struct Human {
DNA dna;
Emotion emotion;
void (*evolve)(struct Human *);
};
void upgrade(struct Human *h) {
h->emotion.level += 1;
if (h->dna.potential > threshold) {
h->evolve = advanced_form;
}
}
————————————
模様……なのか?
でも、どこか構造的で、整っていて、意味があるように見える。
私にはそれが何かなんて分からない。
けれど、何か大切なものがそこに書かれている気がした。
「……シリウス!!」
声が聞こえた。
アビスの声。私は思わず立ち上がった。
「ここにいる!」
そして数瞬後、駆け込んできたアビスが、まっすぐ私の胸元に飛び込んできた。
「良かった……無事なのね……!」
彼女の体温が伝わる。私は静かに、彼女の背に手を回した。
「うん……大丈夫。ちゃんと、生きてる。」
アビスが私の手元に目を留めた。私は壁から剥がしていた、あの風化したメモを手に持ったままだった。
「それ……何かしら?」
「さっき拾った。よく分からない模様が書かれてたけど──」
アビスがその紙片にそっと指を伸ばした、その瞬間。
──風が吹いたわけでも、強く触れたわけでもないのに。
メモは、まるで自分の内側から崩れるように、音もなく、砂のように零れていった。
……拒まれた。
そう思った。まるで、このメモ自身が「見られたくなかった」と、そう言って消えたような……不思議な感覚だった。
でも、アビスは気づいていない。ごく自然に劣化していたものが崩れたと、そう思っているみたいだった。
「……ごめんなさい。触ったのがいけなかったわね……」
彼女が申し訳なさそうに眉を下げた。
私は、しばらく視線を手のひらに残る微かな粉に落としてから、微笑んで首を振る。
「……いいよ。もともと、崩れそうだったし。」
でもその言葉の奥に、小さなひっかかりが残ったままだった。
何かが──私にだけ、見せられた。
そして、何かが──彼女を、拒んだ。
•
遺跡の奥には、かすかに光の差し込む広場があった。
まるで空の色を映したような薄青の光が、天井の割れ目から舞い降り、花の群れとコールドスリープポットというの箱を照らしていた。
ここだけは……世界の終わりじゃなく、始まりのように見えた。
私はアビスと並んで腰を下ろし、背中を壁に預ける。彼女が手をかざし、私の肩の傷を癒してくれた。
「残りのドラゴンたちは……?」
「あなたがほとんど倒したから、残りは散っていったわ。」
そうか……。
「でも、なんでこんな谷に?」
アビスはしばらく黙ってから、静かに話し出した。
「昔、一部の商人たちが、貴族に売るためにドラゴンを繁殖させようとしたそうよ。知識も、管理もないままに。そして、手に負えなくなって、捨てた。」
「……命を、ただの商品みたいに。」
私は、天井を見上げた。光が落ちてくる。あまりに静かで、美しい空間にいるのに、胸の奥が重たかった。
「人って……循環から外れても、気づかないんだね。壊すまで。」
アビスは、静かにそう呟いた。
•
気がつけば、眠っていた。魔力の消耗も、疲労も限界だったのだろう。
目を覚ましたとき、天井から差し込む光はもう金色に染まっていて、遺跡の中に長い影を落としていた。
私たちは遺跡を出て、崩れた岩をよじ登りながら谷の縁を目指した。
そのとき──
山の向こうから、ゆっくりと動く何かが見えた。
列を成した人々。背中に荷物を背負い、車輪のついた棚や本を引いて、動く小さな都市のようだった。
「……あれ……人?」
私は目をこすった。
「移動型都市、ね。あれは学者の町よ。」
アビスが微笑む。
私は小さく息をついて、アビスと肩を並べ、夕陽の道をゆっくりと歩き出した。