第五章
「ドラゴンよ」
アビスの声が、夜の谷に響いた。
宙を舞うその獣は、咆哮とともにこちらを見据える。
巨体、速度、威圧感――
その存在は、“逃げる”という選択肢を、初めから否定していた。
アビスが一瞬だけ私の腕を引き寄せ、すれ違うようにしてドラゴンの突進を回避する。
「ぼうっとしないで。走るわよ!」
彼女の声に迷いはない。細い岩場を駆け出しながら、空中に左右対称の魔法陣を展開していく。
片方は足元に、もう片方は背後の空間に。
詠唱の言葉が紡がれると、足元の魔法陣が淡く光り、私たちの足を跳ね上げるように反発力を加える。
同時に、背後では青白い三層の結界が生まれ、迫る熱風と衝撃を押し返していた。
加速と防御。ふたつの魔法を同時に維持しながら、アビスは私を谷の上部へと導き、岩の陰に身を隠す。
けれど、空に舞うドラゴンの群れに、見つかるのは時間の問題だった。
「ここで逃げても、またどこかで同じことが起きるわね。……ちょうどいい、今から“訓練”よ」
「訓練? あの数のドラゴンを相手に!?」
ようやく現実を受け入れた私が思わず叫ぶと、アビスは首を振った。
「剣があるでしょ。それを使うのよ」
彼女は私の左腕にそっと手を添えた。
「今から、あなたの思念と私の思念をリンクさせる。そして私の言うとおりにするの」
小さな詠唱とともに、左腕から肩、そして脳へと、温かいものが流れ込むような感覚が走る。
『リンクしたわ、シリウス。聞こえる?』
――変な感じ。でも、はっきりと彼女の声が頭の中に響いてくる。
そういえば、アビスが呪文を唱えるとき、私はいつもその意味を理解できなかった。
言葉の構造も理屈も分からず、ただ異質な響きが空間に溶けていくだけ。
でも今は違う。
リンクによって、彼女の呪文の意図・構造・力の流れが、そのまま私の中に流れ込んでくる。
まるで、言葉ではなく“概念”が伝わってくるように。
『行って。援護は任せて』
私は岩陰から飛び出した。
アビスの指示どおり、障害物のない開けた場所へ向かって走る。
『そのほうが援護魔法が通りやすいし、剣も大きく振れるから』
なるほど。殺すには、空が必要なのだ。
背後から咆哮が迫る。
ドラゴンたちがこちらに気づき、地を揺らすような勢いで迫ってくる。
『命令文を強く想像して。私の言葉を、復唱して』
私は剣を構え、魔力を集中させる。
「剣よ、力を受け入れよ。形を変え、意思を宿せ。
崩壊を纏い、断絶を描け――《武器拡張》」
剣が震え、青紫の光が刃を包み込み、形を変える。
魔力の糸が幾重にも絡みつき、斬撃の軌道が空に残光を描く。
跳ぶ。ドラゴンの眼前へ――
「くっ……!」
初撃は逸れた。体勢が甘く、魔力も不安定。
爪が頬を掠め、焼けるような痛みが走る。
私は後退しながら、呼吸を整えた。
『焦らないで。狙うのは、接合点。鱗の継ぎ目、翼の付け根、首の根元……構造線が見えるでしょう?』
視界に、淡く光るラインが浮かぶ。
それは、アビスが見ている“死角”――構造の弱点だった。
跳躍。二度目の斬撃。
「その体、強くあれど、結びは脆い。
崩れ、砕け、断て――《崩壊処理》」
刃が触れた瞬間、鱗が内側から剥がれ、肉と骨が分解されていく。
ドラゴンは叫ぶ暇もなく、地へと崩れ落ちた。
――倒せた。確かに、自分の手で。
けれど、その悲鳴の代わりに、新たな咆哮が谷を揺らす。
群れが、集まり始めていた。
⸻
まるで底なしの泉のように、谷の奥から湧き上がるドラゴンの群れ。
一体、二体、五体……数が、止まらない。
かつて読んだ書物では、ドラゴンとは孤高の存在であり、滅多に見かけるものではないとされていた。
だが現実はあまりにも違っていた。
「キリがないわね……」
アビスがため息をつく。
「こうなったら、女王を狩るしかないわ」
「女王? ドラゴンって蜂みたいな組織なのか?」
「本来は違うわ。ドラゴンは孤独を好み、縄張り意識も強い。
なのに、これだけの数が同時に共存しているなんて、おかしい。
この谷には――すべてを支配する“女王”がいる」
その存在を倒せば、群れは崩れる。
私に確信はなかったが、アビスの言葉に嘘はないと信じた。
アビスは防御結界を三重に張り直し、私を包み込むように言う。
「目を閉じて、五感を塞いで。意識を一点に集中させて。空気と馴染ませるの。
そして、心で唱えて――」
私は剣を地に突き立て、深く呼吸を整える。
そして、心に浮かんだ言葉を、自分の声で再構築した。
⸻
「この空を埋める群れの中、
ひときわ重く、深く、強い“核”を――見つけ出せ。
密度は、五倍。
座標は、中心近傍。
支配の意志、輪の中央にあるもの。
対象、特性探知――《視よ、空の女王を》」
⸻
両目に淡い魔法陣が灯り、視界が反転する。
魔力の波が空を流れ、赤い群れの中に――ただひとつ、金色に脈動する存在が浮かび上がる。
「……いた。あれが、女王だ」
「上出来だわ。さあ、狩りの時間よ」
⸻
私は剣を構え直し、体を低く落とす。
魔力を剣に集中し、一気に跳んだ。
襲いかかるドラゴンたちは、今や“足場”だった。
二、三体を踏みつけ、邪魔な一体を斬り捨てながら、さらに跳躍。
風を蹴り、空を駆ける。
そして――女王の頭上へ。
「喰らえ!」
剣に溜めた魔力を一気に解放し、振り下ろす。
着地のことなど考える暇もない。
私は――女王とともに、谷へと落ちていった。