第四章
ずっと暗い部屋にいたせいか、外の眩しさに目を閉ざさずにはいられなかった。
澄んだ空気が肌を撫で、自然と背筋が伸びる。
背後では、アビスがリンと何やら話している。
「もう行かれるのですか?」
ひょん、と再び現れた看板娘に思わず肝を冷やした。気配がまるでない。
「もう行くよ。どこに行くかは、まだ分からないけど――」
これからアビスと旅に出ると思うと、少し気が重くなる。
中央都市に向かったこの三日間は、正直、散々だった。
使い魔になったのかは分からないが、体力だけは凄まじいらしい。
山道も野原も何の苦もなく歩ききった――が、
「シリウス〜、お願い!」
魔物が出るたび、アビスは私に戦ってこいと強請るのだ。
無論、言われた通りに片付けてきた私がいる。
アビス曰く、自分の力は「強すぎて簡単には使えない」のだそうだ。
正直なところ、魔女の戦い方を実際に見てみたいという私念は、心の底にしまっておこう。
魔物退治以外に、もうひとつ煩わしいことがある。
アビスは――やたらと、おしゃべりだ。
好きな食べ物から趣味、昔どんなものを食べたか、感想まで。
延々と語ってくる。耳にタコができそうなほどに。
けれど、彼女は自分の過去をほとんど話さない。
そして、私のことも、聞いてこない。
――本当は、私に興味なんてないんじゃないか。
一方的に話しかけられるというのは、なんとも、つまらないものだと改めて思った。
今思えば、またあの時間に戻るのかと思うと、溜息が出る。
けれど、くよくよしても仕方ない。
元に戻るには、彼女が必要だ。
――そう思うようにしよう。
「行きましょ、シリウス」
アビスは微笑みながら、私を振り返る。
私は静かにうなずき、チェンクンの一同に一礼を捧げる。
そして私たちは、中央都市を後にした。
――数刻後。
とても奇妙だ。いや、由々しき事態だ。
アビスが、まったく喋らない。
中央都市を出てから、野原を越え、森に入ってもずっと無言だ。
正直、長旅のお喋り攻めには覚悟していた。
だからこそ、こうも静かだと逆に落ち着かない。
ちらりと横目で盗み見ると、アビスの表情は穏やかそのものだった。
――これが本来、彼女が一人で旅していた時の姿なのかもしれない。
黙々と歩き続けるうち、私は耐えかねて声をかけた。
「アビス」
「な~に?」
返事はあったが、こちらを振り向く気配はない。
「これからどこに行くの?」
「東の谷よ。貴女はまだ半人前の使い魔だもの。ちょうどいい訓練になるわ」
――好きで使い魔になったわけじゃないけどな。
その本音は飲み込む。
アビスは、気にも留めず続けた。
「それに、約束したでしょう? 貴女を元に戻す方法を探すって。……方法は知らないけど、心当たりはあるの」
一応探してくれるんだ、案外律儀だな。
「本当にあるの?」
ようやくアビスが私の方を向き、ふわりと微笑んだ。
「オーパーツを探しに行くの」
「オーパ……って、神じゃん!?」
思わず大声が出た。
アビスと出会ってから、驚くことには慣れたつもりだった。
でもこれは、段違いだ。
フレジーがよく言っていた。
“太古、世界は欲望に染まり、泥のように沈んだ。だが神はそれを洗い流し、循環を取り戻した”と。
寿命を与え、罪と再生を繰り返す「輪廻」という罰と救済を創り出した存在――それが神、オーパーツ。
古い本で見た記述では、「リュクス・エテルナ」という都市に君臨していたらしいが……。
そんな存在に、会えるわけがない。
「無茶苦茶でしょ、それ」
私が呆れ混じりに言うと、アビスはさらりと返す。
「無茶じゃないわ。実際に会ったことがあるから」
まるで心を読まれたように。
そして、淡々と。
「私を魔女にした張本人よ」
その言葉に、一瞬空気が凍りついた。
背中に、鋭い冷気が刺さるような感覚。
彼女にとって、それはおそらく――触れてはならない地雷だ。
私でも、そう思うくらいに。
しばしの沈黙のあと、アビスが手を合わせるように合掌して言った。
「陰気くさい話はここまで! まずは東の谷に行きましょう。ドラゴン退治と、貴女の訓練と、ついでに……運が良ければオーパーツに会えるかもしれないわ」
「話の飛び方がすごすぎて、ツッコミ追いつかないって。なんで“神”に会えるの? てか、なんでドラゴン?」
「さっきリンから頼まれたのよ。最近、東の谷でドラゴンが繁殖しすぎてるって」
アビスは空中に手をかざし、なにかを描いた。
淡い水色の魔法陣が指先に浮かび、風を読むような仕草をする。
「……急ぎましょ。もうすぐ雨が降るわ」
「あー、そういやさっき鳥がめちゃくちゃ低く飛んでた。そりゃ、降るよね」
「え?」
「ん?」
アビスは魔法陣を消し、私の両手をばしっと掴んだ。
「すごい! そんなことも分かるの!?」
「いや、常識だから」
引っ張られた手を抜こうとするが、意外と力が強い。
無理に振りほどいたら怪我しそうなのでやめた。
「……ここ数年、ずっと旅してたけど、知らなかったわ」
アビスは心底感心したように呟いた。
「私は猟師志望だったし。そのくらいの知識は、師匠に教わった」
ちょっと照れ臭いけれど、悪い気はしなかった。
「師匠……物知りだったのね。優しかった?」
彼女の問いは、さっきまでよりも柔らかく、優しい。
「悪くはなかったよ」
視線を向けると、一瞬――
彼女の瞳に、寂しげな色が浮かんだ気がした。
チェンクンで見たときと、同じ。
でも、すぐにいつもの無邪気な笑みに戻る。
「ねえ、もっと教えて? 貴女の知識を」
聞きたいことは、山ほどある。
なぜ旅をしているのか。なぜ魔女になったのか。なぜ、私を助けたのか。
でも、焦る必要はない。
いつか、聞ける気がする。
「いいよ。あんたの話に飽きたし、今度は私の番ね」
「ひどい」
子供みたいに口を尖らせたあと、アビスは無邪気に笑った。
その笑顔を見て、ふと思う。
――案外、この旅は、居心地がいいかもしれない。
しんしんと、小雨が降り出した。
森の匂いが湿り気を帯び、落ち葉を濡らしていく。
ちょうどよく岩陰が見つかったのは幸運だった。
私はフレジーに教わった通り、火打ち石と木の枝を使って、手早く焚き火を起こす。
アビスは、その様子をまるで初めて見る子どものような目でじっと見つめていた。
「石と枝で……火って起こせるのね。不思議だわ」
「そっちこそ、今までどうしてたの」
「魔法よ。私は優秀だから」
アビスは胸を張って言う。得意げに。
そういえば以前も、戦いは任せるけど日常生活なら自信あるとか言っていた気がする。
今の調子を見る限り、それはちょっと怪しい。
――まあ、私が何とかすればいいか。本人も楽しそうだし。
ふと、私は尋ねた。
「ねえ、私って……魔法、使えるの?」
アビスは「んー」と首を傾け、少しだけ考えてから答える。
「使い魔になった以上、身体の中に私の魔力が流れてる。素質次第だけど、使えるはずよ」
そう言って彼女は枝を拾い、地面に向かってしゃがみ込んだ。
「せっかくだから、簡単なの教えるわ。火の魔法、やってみる?」
私はうなずき、アビスの描く円のそばへと腰を下ろす。
「知っての通り、この世界の理は“循環”。つまり、連鎖する“円”なの」
彼女は枝で、地面に円を描いた。滑らかで綺麗な線だった。
「魔法の基礎はこの“魔法陣”。最初に魔力をこの円に流して、世界の循環とつなぐ」
円の中央に、ぽんっと枝先で軽く触れると――
その溝に、青白い光が流れ込み、淡く輝き始めた。
「初心者は、魔力で直接円を描くのが難しいから、地面に溝を掘って、そこに魔力を流すことから始めるの」
その光に見入っていると、アビスが言葉を重ねる。
「でもね、案外難しいのよ。魔力の制御、量、速度……全部がバランスなの」
「それって……魔法っていうより、鍛錬って感じ」
「その通り。だから、みんな最初はここから躓くのよね」
“みんな”――誰のことか聞こうと思ったが、やめた。
「さあ、次は“命令文”。この円の中に書いて、実行する」
アビスは円の内側にさらさらと模様を描いた。
その模様は、見たことのないものだったけれど、どこか論理的な構造を感じさせた。
一つずつ、丁寧に。まるで儀式のように。
そして――彼女がぽんっと中央を叩くと、
ぱちっと小さな火の種が生まれ、そこから鮮やかに炎が立ち上がった。
私がさっき作った焚き火より、ずっと豪快で綺麗だった。
「ね、簡単でしょ?」
「……中の模様が全然わからないけど」
「覚えればいいのよ」
「……覚えるのか」
なんだか納得いかないけど、興味は湧いてきた。
私は枝を手に取る。
「……試してみてもいい?」
「もちろん。やってみなさい」
アビスの隣で、私は見よう見まねで円を描いた。
そして、自分の中を流れる“魔力”のようなものに意識を向け――ゆっくりと、溝に注ぎ込む。
次の瞬間――
ボワァァァァンッ!
青い魔力が円の溝から噴き上がり、まるで光の壁のように上空へと伸びていった。
あまりの勢いに、私とアビスは同時に仰け反り、そのまま尻餅をつく。
「ちょっとシリウス!? 止めて、止めてってば!!」
アビスが珍しく本気で焦っている。
私は慌てて魔力を引っ込め、混乱のまま呆然と立ち尽くした。
そのとき、アビスが私の手首を強く掴んだ。
「今ので――あいつらに気づかれた! 逃げるわよ!」
「あいつらって、誰――」
言葉を言い切る前に、谷底の方から、
黒い塊がふわりと舞い上がるのが見えた。
それは、羽ばたいた。
地響きのような咆哮とともに、空が震えた。
アビスが叫ぶ。
「――ドラゴンよ!!」