第三章
扉の前で、ふと昔のことを思い出した。
私の生まれ育った村には、子供が入ってはならない部屋がいくつかあった。
特別な秘密があるわけではない。ただ、書斎だったり、道具がぎっしりと詰まった部屋だったりして、子供がうっかり壊すことを大人たちが懸念していただけである。
けれど、そういう場所ほど、なぜか気になってしまうのが子供というものだ。
私は一度だけ、立ち入り禁止の倉庫に忍び込んだことがある。
中は薄暗く、空気は湿っていた。土と木の匂い、古びた布の埃が混じったような、重たい香りが鼻をついた。
思わず深く吸い込んで、むせてしまったのをよく覚えている。
けれど、そのとき私は、不思議と身体がふわふわと浮いているような感覚に包まれたのだった。
あれから何度か足を運び、積まれていた本を読み漁った。
ページをめくるたびに広がる知らない世界。見たことのない道具や記号。読めない言葉で綴られた文章。
私はそこで初めて、「未知」というものに心を奪われた。
今、私はその扉の向こうへと足を踏み入れた。
空気はどこか澄んでいるのに、妙に重たかった。
そこには自然の香りも、火のぬくもりもなかった。
代わりに、乾いた鉄と薬品のような匂いが満ちていた。まるで、ずっと昔に止まった時間が、そのまま封じ込められているようである。
そして、目に飛び込んできたのは――中央に鎮座する、見たこともない巨大な“箱”だった。
それはまるで棺のような形をしていた。
重厚な鉄の骨組みに覆われ、表面には鈍い光を反射する透明な板が張られていた。
ガラスのようでありながら、年月によって曇り、細かなひびが無数に走っていた。中はほとんど見えなかった。
箱の側面には、何本もの黒い管が刺さっていた。
部屋の奥に並ぶ古びた装置から伸びており、まるでこの“棺”と何かを繋ぎ留めていたかのようである。
歯車と針のついたその装置は、今は完全に沈黙していたが、不思議と“気配”のようなものだけは残っていた。
「……棺、か?」
私は思わず、呟いていた。
中に誰もいないのは分かっていた。
けれど、ほんのわずかに、何かの気配がその中に残っているような気がした。
ついさっきまで誰かがそこにいたかのような、体温の名残。呼吸の断片。そんな幻を感じていた。
それが何なのか、私には見当もつかなかった。
けれど、たしかにこの部屋には、私たちの生きてきた世界とは異なる“過去”が残っていた。
胸の奥が、静かに、けれど確かに脈打っていた。
「……コールドスリープポット、だっけ?」
アビスが、ぼそりと呟いた。まるで過去に見た夢の続きを語るような口調だった。
それきり彼女は何も言わなかった。
問い返す隙もなく、あっさりと話を打ち切るあたりがいかにも彼女らしかった。
私はその言葉を、心の中で何度も繰り返した。
コールドスリープポット。
何だ、それは。どういう意味なのか、何のためにあるものなのか――まるで分からない。
「久しいな」
低く、乾いた声が部屋の奥から響いた。
私は思わず肩を震わせた。アビスの影に隠れるようにして、声のした方へ視線を向ける。
暗がりの中から、ゆっくりと一人の老婆が姿を現した。
杖を突き、背筋は曲がっているが、歩みに迷いはなかった。
その眼差しは鋭く、年老いてなお、何者にも屈さぬ気配を纏っていた。
「随分老けたわね、リン」
アビスは飄々とした調子でそう言った。どこか懐かしげな響きを滲ませながら。
「人間にしては、長生きな方じゃない?」
軽口とも皮肉ともつかないその言葉に、リンは眉一つ動かさず返した。
「所望の品は何だ」
口調は静かだったが、その一言には長年の付き合いゆえの容赦のなさが滲んでいた。
アビスは肩をすくめ、つまらなさそうに私の方を指した。
「この子に合う旅装束と武器を。見繕ってくれるかしら?」
リンは一歩近づくと、私の前に立った。
その目は、まるで衣服ではなく内面を測るように、じっと私を見上げていた。
「人間を使い魔にしたのか。……魔女の考え方は、どうにも分からん」
その一言に、私は息を呑んだ。
やはり、この人はアビスが魔女であることを知っている。
隣でアビスが、まるで私の動揺を見透かすように言葉を添えた。
「ここ“チェンクン”は、中央都市でもかなりの古株よ。
500年前から代々続く商人の家系で、魔女に理解がある――というより、支援者として有名だった時代もあるくらい。
リンは今の当主。もう70年くらいの付き合いになるわ」
「正確には六十四年だ。人をそう安々と歳を重ねるでない」
リンは淡々と訂正し、アビスの方にわずかに視線を向けた。
「――エヴァリエの弟子よ」
私は目を見開いた。
その名はどこかで聞いた覚えがある。だが今はただ、リンがその名を口にしたという事実に、妙な緊張感が走った。
アビスは一瞬、目を伏せた。
ごくわずかな間だったが、その表情に翳りが差したのを私は見逃さなかった。
哀しみにも似た、懐かしさと痛みの入り混じった陰りだった。
リンはそれを感じ取ったのか、話をそっと逸らすように言った。
「ちょうど、新しい旅装束が入っている。革製だから、防衛魔法を掛けるには都合がいいだろう」
そう言って、彼女は棚の奥から黒いコートを取り出した。
それは重厚な軍用コートのような作りで、襟には銀糸で繊細な模様が刺繍されていた。
それを見た瞬間、思わず口をついて出た。
「……すごい」
アビスがそれを受け取り、にやりと笑って私へ差し出した。
「気に入った? じゃあ着てみて」
私は無言でうなずき、コートに袖を通した。
革とは思えないほどしなやかで、動きを妨げるような硬さがまったくない。
肩の動きも軽く、まるで身体の一部になったかのような感触だった。
「……ぴったり」
思わず漏れた声に、アビスは満足げに頷いた。
そのときだった。
気づけば、いつの間にか私の隣に、先程の看板娘が立っていた。
「少し失礼いたします」
そう言って、彼女――エンサはまるで当然のように、私の上着へと手をかけた。
その手つきは迷いなく、無駄もなく、服を扱うというよりも、まるで布の一部を摘んで剥がすような静かさだった。
「えっ……ちょ、ちょっと待って――」
抗議しかけたが、反応する間もなく、私はいつの間にか下着姿になっていた。
羞恥と驚きで目を見開く私に、エンサは首をかしげるようにして言った。
「着替えるのですから、当然でございます。お気になさらず」
そう言って、まるで空気のように、淡々と新しい下着と服を差し出してくる。
声も動きも丁寧で、言葉遣いも淀みない。けれど――その態度はどう見ても容赦がなかった。
私はただ、無言で受け取り、指示されるがままに次々と身にまとっていった。
気づけば、下着から靴に至るまで、すべてが新しいものに替えられていた。
着替えが終わったとき、確かに動きやすさも、軽さも段違いで、質の良さは歴然だった。
しかし同時に、自分の過去を一枚ずつ剥がされていったような、不思議な感覚が残っていた。
やや複雑な気持ちを抱えているというのに、アビスはというと、どこか楽しげにこちらを見ていた。
理由は分からない。けれどその笑みを見ていると、少しだけ、何も言わずにいてもいいような気がした。
しばらくすると、リンが再び部屋の奥から戻ってきた。
その腕には、一本の細身の剣と、白いワンピース、それに同じく白のロングコートが抱えられていた。
「ほれ」
そう言って、彼女は無造作にその剣を私に渡してきた。
私は両手でそれを受け取り、そっと重さを確かめる。
一見華奢に見えたそれは、手に持つと思いのほか重かった。
重さというより、“意味”が乗っているように感じた。
指先から腕、そして胸へとじわじわと沈み込んでくる、静かな圧力。
私はその重さを黙って受け止め、剣を腰に差した。
その横で、リンはアビスに残りの衣装――白いワンピースと新しいロングコートを差し出した。
「お主も着替えろ。その服装はあまりに古すぎる。……今の流行じゃない」
アビスは肩をすくめると、口をとがらせた。
「え〜……そうかなあ? この服、わりと気に入ってるんだけど」
「そういうのは、流行に敏感な者が言って初めて許されるものだ」
リンの言葉に、エンサが「ごもっともでございます」と小さく頷いた。
アビスは苦笑まじりにワンピースとコートを受け取り、小さくため息をついた。
「はいはい。……じゃあ、ちょっと着替えてくるわ」
そう言い残して、彼女は軽やかな足取りで部屋の奥へと消えていった。
アビスの姿が見えなくなると、リンは私の方へと目を向けてる。
「……聞きたいことがあるだろう。今のうちだぞ」
その声は穏やかだったが、どこか試すような響きがあった。
私は、心に浮かんでいた問いを――今しかないと、意を決して口にした。
「……なぜ、魔女を支援するのですか?」
リンは一瞬だけ目を伏せ、そして、付近の椅子にゆっくりと腰を下ろした。
しばらくの沈黙ののち、まるで遠い昔を手繰るように口を開いた。
「このチェンクンの創立者はな……かつて砂漠で飢え死にしかけていた。
誰にも助けられず、命を失う寸前だったところを、ひとりの魔女に救われたのだ。――審判の魔女、エヴァリエだ」
私は思わず息を呑んだ。
アビスが“弟子”と呼ばれていたその人物の名を、リンの口から再び聞くとは思っていなかった。
「命を救われた創立者は、誓った。
その恩に報いるため、一族をあげて魔女を支援すると。
それが、チェンクンの始まりだ」
リンの声には誇りと、どこか静かな覚悟がにじんでいた。
「チェンクンという名前もな、我が一族の祖より受け継がれた古い言葉だ。
“天地”を意味する――天と地が存在する限り、我らは不滅であるという意味を込めてな」
私は、胸の奥に広がる熱のようなものを感じながら、黙って聞いていた。
その信念は、今もこうしてここに根づいている。
リンの目は、再び遠くを見つめた。
「アビスと初めて出会ったのは、私が十二の頃だ。
当時の彼女は物静かで、エヴァリエの背後にひっそりと立っていた。
他の弟子たちと違って、妙に影が濃くてな……どこか、触れれば壊れてしまいそうな儚さがあったよ」
「……弟子は他にもいたのですか?」
私は自然と問いかけていた。
「ああ、いたさ。だが実際に話をしたのはアビスだけだった。
……桃色の髪が、目に焼きついて離れなかった。あの髪には、人の気配とは違うものがあったな」
私は、その言葉に心の中で頷いた。
アビスには確かに、“異質”をまとった美しさがある。それは私が最初に出会ったときから、変わらずに。
「エヴァリエたちは、長年チェンクンの得意客だった。
それは我ら一族にだけ伝えられている秘密。無碍にはできまい」
リンはふう、と小さく息をついてから、唐突にこう問いかけた。
「お主は……アビスと、どうなりたい?」
「……え?」
返答を探す間もなく、奥の扉から足音が近づいてきた。
アビスが戻ってきたのだ。
「これ、ヒラヒラして可愛いわね。今の子って、こういうのが流行りなのね!」
白いコートとワンピースに身を包んだアビスは、意外にも満更でもなさそうだった。
いつもの無頓着な雰囲気からは想像できないほど、嬉しそうに裾を摘んで回ってみせる。
「気に入ったか。それなら……旅立て。見送ろう」
リンはゆっくりと立ち上がり、私たちを外の光の方へと導いていった。