第一章
ーこの世は大きな渦巻きだ。我々はその渦の中を循環しながら、罪を洗い流す。
それが、我が師フレジーの最初の教えだった。
初めて師と狩りをしたのは、私が十四になった朝のことだった。師は私を村はずれの森へ連れて行き、「銃」というものを手渡し、一匹の鹿を狩るよう命じた。
無理だ、と私は心底思った。
しかし、十分もしないうちに鹿を仕留めた。
「銃」ではなく、素手でだった。
師は黙って鹿を捌き、焚き火で肉を焼き上げる。そして、私に食えと差し出した。
「鹿は草を食べ、排泄し、大地へと還る。それが土を肥やし、新たな生命を育む。我らもまた鹿を食らい、いずれ死し、大地へ還る。そうやって循環することで、我らの罪は清められるのだ。」
「循環? 罪?」
焼き焦げた鹿肉は思ったよりも固く、飲み込むのに手間取る。師の言葉に頭が追いつかない。
「我らは生まれながらに罪を背負っている。貧弱な身体、涸れ果てた大地――これは神が人間に与えた罰なのかもしれない。」
師は鹿肉を細かく切り分け、上品に口へ運ぶ。
「学者もどきが何かしら発見していただろう。発掘された古代の遺物によれば、かつてこの地には中央都市の教会よりも大きな建物がいくつも聳え立ち、奇妙なカラクリが使用されていたという。大層繁栄していたことだろうな。」
「ふーん、それで?」
「だが、祖先たちは触れてしまったのだ。禁断の領域、神の逆鱗に。そして、その末路は――魔女のようにな。」
師の静かな瞳が脳裏に浮かぶ。
「そして我らは……」
死をもって許しを乞う。
死に際に思い浮かぶには、あまりにも相応しい光景だ。
意識が闇に沈む。
冷たい地面に横たわる感覚だけが、かろうじて残っている。全身の力が抜け、指一本動かせない。鼓動が遠のき、意識の向こう側へと引きずり込まれる。
死。
それは、いつか必ず訪れるものでありながら、こんなにも唐突で、理不尽で、抗いようのないものだったのか。
生きた証も残せぬまま、ただ朽ちる。
痛みも、恐怖も、すでに希薄だ。ただ、無力さだけが心を締めつける。
こんな形で終わるのか。
私は何のために生まれ、何を成し遂げることもなく、ただ命を摘み取られるのか。
記憶がぼやけ、師の教えが耳の奥で響く。
――我らは、死して大地へ還る。
だが、それが救いになるわけではない。
何かにすがりたい。
誰かに助けてほしい。
だが、もはや声を発することすらできない。
目を閉じれば、闇がすべてを飲み込んでいく。
……いやだ。
消えたくない。
消えたくない!!
「大丈夫?」
耳に優しく響く、鈴のような声。
重い瞼をこじ開けると、白いコートを纏った少女が立っていた。春の花のように淡い桃色の髪が印象的で、幼い頃に読んだ絵本に登場した、古の神に仕える一族を思い出す。
新緑色の瞳は、昔商人の連中が見せた、翡翠のようだった。
何か言おうとするが、声にならない。早く逃げろと伝えたかった。狼の魔がまだ近くに――。
少女はじっと私を見つめると、ふと面白そうに微笑んだ。
「あら、丁度いいわね。」
……何の話だ?
飄々とした声に、不吉なものを感じる。
少女の視線は、まるで瀕死の者を見る眼では無かった。
「あなた、もうすぐ死ぬわ。」
分かっている。そんな軽やかに囁かなくても。
冷やかしに来たのかと思うほどに、苛正しさが込み上げてくる。
けれど、少女の次の言葉に、私の弱りきった心臓はぐっと強い鼓動を復帰した。
「ねえ? まだ生きたい? たとえどんな代償を払ってでも。」
何当然の事を、
生きたい。
まだ死にたくない。
「い、いきた……。」
少女は微かに微笑むと、コートの袖から手を伸ばし、爪で中指をなぞった。
一滴の赤い雫が垂れ落ち、私の唇へと落ちる。
その瞬間、全身に「何か」が起こった。
燃えるように熱い。
身体の奥底から突き上げる、言いようのない苦しみ。
気がつくと、私は地面に立っていた。
傷どころか、痛みすら消えている。
手を見下ろすと、紫色の液体がベタベタと滴っていた。
狼の魔の血だろうか。
周囲には、散乱する残骸。
だが、それだけではなかった。
目の前には、まだ息のある狼の魔がいた。
私は――考えるより先に動いていた。
腕を振るう。
爪が肉を裂き、骨を砕く。
狼の魔は叫ぶ間もなく、私の手によって引き裂かれていった。
力が溢れていた。無尽蔵に。
「こ、これは一体……?」
思わず問いかける。これは普通ではない。
少女は艶やかな笑みを浮かべ、軽やかに一歩近づいた。
「ねえ、魔女だって言ったら、信じる?」
その言葉が耳に入った瞬間、背筋が凍りつく。
「まじょ……魔女!?」
「そう、死ぬ際の貴女を助けたの、でも方法はこれしかなかった。」
少女は天真爛漫に口ずさむ。
「貴女を私の使い魔にしたわ。」
衝撃の事実の前に、私は驚愕した。当然、元に戻してほしいと訴えた。
しかし、少女は肩をすくめ、困ったように笑った。
「そんな方法、知らないわ。」
淡々と告げられたその言葉に、言い知れぬ絶望が広がる。
だが、次の瞬間、彼女は何かを思い浮かべたかのように、楽しげに微笑んだ。
「だったら、一緒に探しに行く? 貴女が“元”に戻る方法を。」
その誘いに、私は迷う余地もなかった。
こうして、私は彼女と、深淵の魔女アビスと共に旅に出ることになったのだった。
「これからよろしくね、シリウス。」