表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

妄想女子の証言

作者: 有馬佐々


 ビタビタとたたきつける音は、一体何。

 カーテンは締まっている。確認をしなかったのは、今思えば失敗だ。そのまま眠りに就こうにも、そんな時に限って眠れなく苦しむの。とても不吉な予感がして、とても悲しくなり、彼女は昔を思い出して枕元で少し泣いた。

 彼女が寝返りを打って静かに目を開けると、直ぐ目の前に疲れた優しい寝顔があり、少し安心した。そして、また涙を流してしまった。甘えてばかりで直ぐに怯えてしまうのが、今の小さく弱い彼女である。

 恐怖の対象は山程ある。幽霊、呪い、暗闇……そして人間である。大人はよく「一番怖いのは人間だ」というが、それは大人になってから気が付かされることだろう。彼女にとっての唯一の恐怖も同じく人間だ。しかし、彼女はとても幼かった。彼女は一括りとして『家族』を怖れていた。恐怖を知ってからは、ただひたすら逃げ道を探して助けを求めるようになった

。 

 彼女は今夜も一人で怯えていた。


 その夜は長い雨が降っていた。青森県青森市は大雨警報まで出て、川沿いに住む人達へ向けての洪水警報、山沿いに住む人達へ向けて土砂災害などの注意が促されていた。二宮家一階にある寝室のカーテンはしっかり閉じてある。ベッドに枕は二つある。しかし、横になっているのは一人だけだ。テレビは感染症のニュースを垂れ流しているが誰も聞いていない。四年前から流行り出した感染症は世界の行動を制限して、人々を生きにくくさせたままだ。

 午前二時十五分になっても雨は続いたままである。それなのに二階にあるベランダに続く扉は開きっぱなしのまま。カーテンは勿論、周りの床もびしょ濡れで、部屋の中にあったテキスト用紙も滲んで散乱しめちゃくちゃだ。叩きつけるような雨粒と暴風は一瞬にして二階の部屋を荒らしていった。

 それなのに、二宮家は平然としていた。そう、異変に気が付く人が居なかったのだ。


 二〇二二年十一月十四日、死の臭いがしたのは確かな出来事だ。


 警察が二宮家を訪ねたのは事件から翌日のことで、パトカーから降りてくる警察を見て、一瞬にして周りにいる人殆どは緊張し、張り詰めた空気を纏い始めていった。

 警視庁捜査一課の牛木は周りを見渡して軽く挨拶をする。立ち入り禁止テープを中腰で潜りじっくり現場を眺めながら白手袋をはめていく。手袋をはめるとキュッと気持ちが締まる。

 地面に顔を近づけると、雨上がりの土と錆びた鉄の混じった臭いがしてきて、ほんの少し牛木は顔をしかめた。

「先輩、まるで二日酔いの人みたいですね。もしかして、飲んできました?」

 牛木を見ていた片桐が冗談交じりのちょっかいを出す。勿論、出勤前に酒を飲む訳ない。

「馬鹿いえ。ここ最近は酒を飲んでいない、というより飲む暇がないんだ」

 振り向きもせず牛木は死体があった地面を観察しながら答え、続けて話をした。

「それより見てみろ。ここにシミがあるだろ。これは二宮圭の血痕で間違いないだろう。確証は二宮圭の頭部に損傷があったからだ。普通二階程度からの落下じゃ、そう簡単には死なない。現に二宮奏は死んでいない」

 レンガ造りの小さな花壇の端を牛木は指差す。

「本当、運が悪いですよね。辺りはすべて土なのに、頭部をレンガに……」

 農家である二宮家の庭の足の踏み場はかなり悪い。牛木の履く革靴に柔らかい土が跳ねた。

「奏さんは今、病院にて眠っているようですが、いつ目を覚ますかはわからないそうです」

 顔を寄せて片桐は告げた。

現在、奏は昏睡状態となっている。一番の重要人物の話を聞けないのは致命傷といえた。

「仕方のないことだ、ただ命は助かったようで何よりだ」

「でも、困りましたよ。話を聞けないんじゃ何も進まない」

 両手を腰に当てて力なく首を振る片桐。

「まあ、詳しいことは署に行ってから調べるとしよう」

 そうして牛木は手袋を脱いで素手で革靴の土を払った。


「ダメだ、痕跡が一つも見つからない」

 屋上で煙草を加え、ため息を漏らす牛木。

「まあー、あの夜は雨が酷かったですからね、でも洪水や土砂災害に至らなかっただけ幸いですよ」

 横に並ぶ片桐はこの前の豪雨を思い出しながら答える。

「いや、人が一人死んだじゃないか。幸いどころじゃない」

「でもそれって、自然災害とは関係ないことじゃないですか」

 確かに片桐のいうことに間違いはない。雨が降っても降らなくても事件は起きていただろう。 

「まあ、そうだが。しかし、雨がなければ手掛かりがつかめたかもしれないのに、参ったもんだ」

「仕方がないですよ。だって、天気の気分ですもの」

「そりゃあ、逆らおうにも逆らえんな」

 そういって、牛木はポケットから小型携帯灰皿を取り出して、タバコの火を消した。

「直接聞きはしなかったんですけど、部長はどう捜査を進めようとしているんですか?」

 ふと思い出し、片桐は訊く。

「それがなぁ、上も手が進んでいないらしい。この件に関しては殆どが頭を抱えている状態だ」

二本目の煙草を取り出しながら牛木は答える。ここ数日、警官の気分はずっと晴れないままだ。

「事件解決まで長引くのもなんだか気分が悪いです」

「そうだろう。だから、俺は単独捜査をしようかと思っている」

「二宮家にですか?」

「そうだ、部長には既に許可を取っておいたんだ」

 牛木が部長から捜査の許可を得るのはなんら難しいことではなかった。捜査中の事件はあったものの、牛木はその事件の担当刑事ではない。それに、部長は牛木を有能刑事として見定めていた。それ程、牛木は常に真面目ということだ。 

「それなら僕も行きます」

 片桐の台詞は正直、本気なのか冗談なのか、イマイチよくわからない。

「一緒にいくなら、本気で捜査に取り掛かってもらうぞ」

 目を細めて並ぶ片桐に視線を向けていう。

「わかってますよ、先輩」

 半笑いで答えた片桐だが、いつもよりかは慎重で真面目な心意気であった。


 二宮家についての家族構成について調べていた。すると気になる点が幾つか見えてきた。

二宮家の家族構成は娘の奏を基準にして、父親である圭と祖母である伸江、祖父の誠一であると思っていた。しかし、新たなる真実として、圭にはもう一人の娘がいたということだ。その娘の名前は凛といい、奏の姉にあたり、現在は同市内にあるアパートにて一人暮らしをしているとのことだ。

これが、何故、不可解な点かというと、凜は事件当日アパートではなく、二宮家に帰ってきていたという事実が上がってきたからだ。一人暮らしをしている凜が何故、その日に限って実家に帰ってきていたのか不審に思った牛木は、凜を聞取り対象としたかった。

 しかし、それは困難なこととわかった。何故かというと、凜は精神を患う二十一の成人女性で、十一月十六日から精神病院に入院をすることが決まっていたのだ。そして今日は事件から九日過ぎた十一月二十三日。凜は七日前ととっくに入院をしていた。

入院先を調べ上げようとしたが、入院先は特定できるものではなかった。

代わりに、伸江と誠一の昨晩の過ごし方や、事件について何かしらの関わりが無かったかを調べることにした。

 早速、二人は二宮家を訪ねた。家に居たのは伸江だけであった。ドアを開けて牛木らの顔を見ると、伸江は一瞬にしてかしこまった素振りを見せる。警官を見て緊張するのはそんなに珍しいことではない。特に気にすることもなく、牛木らは二宮家にお邪魔した。

 牛木らはリビングにある腰掛に案内された。そして少し待った。    

 伸江はおぼんを両手で持ち、二人の前に湯気の出た緑茶を丁寧に置いていく。

「お気遣い、ありがとうございます」

 片桐は軽く頭を下げた。それに続いて牛木も礼をした。

「いいえ、お熱いのでお気をつけて」

 伸江は丁寧な口調で優しい忠告を入れる。

十一月二十四日、午前十時から第一発見者となった伸江の聞取りは開始されることになった。

「今日はひとまず、よろしくお願いします」

「はい、お力になれるかはわかりませんが……」

「些細な情報でも構いませんので」

 そういって、牛木は少し前のめりの中腰になる。片桐は胸ポケットからサイン帳とペンを取り出して、メモの準備をする。

 牛木は「よし」といい、片桐に合図を送る。片桐は固くペンを握りしめて準備オッケーの合図を返す。

 事件の日何をしていたか、どのように眠ったか、どのようにして遺体を見つけたのか、等次々と聞取りをしていった。

伸江が証言したことで手掛かりとなったのは、十一月十六日に凜が精神病院に入院することになったため、十一月十一日にアパートから実家に戻ってきていたということだ。凜は一階にある座敷で過ごすことが多く、夜は伸江のベッドで眠っていたという。しかし、伸江が証言したことで気になったのは事件の夜中のことで、凜が一瞬目を覚まして、三十分程寝室を抜けていたという点だ。とても重要な情報を手に入れることができた。それを一つも漏らさないよう、片桐は終始ペンを走らせることを止めない。

「その時の時間は覚えていますか?大体で構いませんので」

 目を大きく見開く牛木は、貴重な情報を聞き逃すまいと、少しの沈黙も丁寧に待つ。

「時間帯は特に気にしなくて、特に確認を取ったりはしなかったのですが、夜中だったのは確かです」

 伸江はそう証言した。

「その時、旦那さんは既に就寝していましたか?」

 片桐はサイン帳とペンを構え、頭だけを起こして訊いた。

「いいえ、主人は躁鬱の病気を持っていまして、処方箋を飲んでからリビングで午前二時頃まで、電気をつけっぱなしのまま、ソファーで仮眠を取り、それから寝室で眠るのが殆どで。そんな生活に慣れてしまったもので、十四日も主人のうるさいイビキも聞かずに眠りに就くことが出来ました」

 それを聞いた片桐は牛木が言葉を発する前に問い質した。

「躁鬱?それにしても何故すぐに寝室で眠りに就かないのですか?」

 少し考えた後に答える伸江。

「ええ、主人は一カ月に一回、最寄りの精神病院にて通院をしているのです。躁鬱になったきっかけは……確か、競馬などのギャンブルに手を付けたことだったと思います。負けた時と勝った時の浮き沈みが激しい人で、昼間も眠っていることが多いのです」

 伸江はなんでもこまごまと説明をしてくれる。刑事としてはとてもありがたい。

 牛木はダメもとで一つ質問をした。

「電気をつけっぱなしにして眠ることのメリットとは何かわかりますか」

「いいえ、それについては私も訳が分からなくて。後で主人に訊いてみてください」

 やっぱり、そうだろうと牛木は思った。

 片桐はサイン帳を両手で軽く閉じて牛木に目で合図を送る。牛木はそれに反応した。刑事同士が目配せをするのはもはや沈黙の会話といえるだろう。それ程、勘が鋭くなっているのだ。

「翌日、旦那さんと話をさせていただきますので、今日はここらで、おいとまさせていただきます。ありがとうございました」

 二人はタイミングを合わせて立ち上がり、軽く頭を下げた。

「あ、捜査はまだ終わってはいませんので、また聞取りや連絡をさせていただくかもしれません。その日はまた、ご協力お願いします」

 玄関を出る前に付け加えて牛木はいう。

 伸江は礼儀正しく静かに「はい、わかりました」と頷きを見せる。


 翌日、伸江は早朝五時に起きて畑仕事へ出かけていったが、誠一は家に居ると聞いて、牛木らは再び二宮家を訪れることにした。

そうして、誠一の聞取りが開始された。

 昨日座った腰掛に牛木はピシッと背筋を伸ばして座る。今日着ているスーツは妻からのプレゼントで、皺をなるべく作りたくなかった。それに比べて片桐は腰を丸めてサイン帳と睨めっこしている。スーツは見るからにしてよれている。

「今日はよろしくお願いします」

 牛木の言葉の二秒後に、やる気のないような頷きを見せる誠一。

 どうやらまだ眠剤が効いているようで眠たそうにしている。それを察した牛木はちゃんと聞取りができるのか不安に思ってしまった。隣に座る片桐もそう思ったに違いない。

「大変なことになってしまったなぁ、刑事さんよ、どういった風に終止符を打つつもりですかい?」

 牛木は誠一の目を見て、静かに首を振りながら答えた。

「それが、まだ事件の見通しはついていません。解決するにはまだ先が長いと予測されます」

 それを聞いてあからさまに落ち込んだ様子を見せる誠一はカクリと頭を下げ、強く目を擦る。

「……そうですかぁ、なんだか……モヤモヤしちゃって、事件以来ずっと気持ちが晴れないんですよ」

 気持ちが晴れないのは刑事も一緒だが、躁鬱持ちの身内である誠一だ。かなり心にダメージを負っていることだろう。

「昨日、誠一さんの奥さんからお話を伺いましたが、少し気になる点がありまして。幾つかお伺いしてもよろしいでしょうか」

「はい……」

 相変わらず誠一は元気がない。

「奥さんから伺いましたが、誠一さんは躁鬱をお持ちのようですね。その際に飲まれている薬などはどういった薬でしょうか」

「安定剤、睡眠薬になるかなぁ……あ、後は体調がすぐれない時の下剤です」

 片桐はペンを走らせる。字は羅列していて読みづらい。自分が解釈できればいいという気持ちでメモを取っていく。

「もう一つ、些細なことですが誠一さんは毎晩、薬を飲んでから午前二時頃まで、電気をつけっぱなしにしたリビングで仮眠を取り、その後に寝室で眠りに就くと奥さんはいっていましたが、それは何故ですか」

 牛木は少し早口で質問した。

「幼い頃から、ずっと電気をつけながら寝ていましたので、こんな爺さんになっても電気をつけたまま寝ると安心するんです。それに私は株についてのニュースを見るのが好きなんですが、妻はバラエティー番組を好んで見ていたので、寝室のテレビとリビングにあるテレビを分けて使い、夜は過ごしているんです。でも、そんな情報、事故にせよ事件にしても関係あることかなぁ……」

「些細なことも聞いていくことが聞取りですから、できるだけ事件の日、何をしていたかなど、詳しくお伺いしていきたいのです」

 牛木がいかに真面目かわかる台詞だ。それを片桐は横目で見て、うんうんと小さく頷いていく。

「あの夜は……何をしていたっけなぁ……申し訳ないが、薬を飲んだ後は殆ど記憶がないんですよ……ああ、でも前日の午前中は凛と一時間遅れで同じ精神科へいったのは覚えています。私が先だったような……」

「え、凜さんと同じ精神科に通っているのですか。すみませんが、通院先の名前を教えていただけますか」

十分興味がそそられる証言だ。牛木の上半身が更に前のめりになる。

「ええ、そうですよ。名前は丸山メンタルクリニックです。凜は、今アルコール依存の治療を受けられる特別な精神病院に入院しているんですが、連絡はつかないし、その他の詳しい病気も知らなくて……記憶が持ちませんでしたねぇ……」

「凜さんってかなり多病な精神障碍者なのですか。それと現在、アルコール治療を受けている凜さんの入院先は知っていますか。こちらも事件を後回しにはしたくないので、可能であればその入院先にお伺いしたいと思うのですが」

 誠一は片手で頬を支え考え込む。片桐は入院先の病院名をメモしようとペンを構えて、じっと誠一の口元を凝視する。

「入院先はわからないです。でも、凜は私と同じ担当医から随分前から入院を勧められていたようなんで、明日にでも病院にいって、凜についていろいろと聞いてみますよ。電話番号はこの警察署宛でいいんですか」

 凜の入院先は誠一でもわからなかった。片桐は残念と心の中でぼやいて、サイン帳の上にペンを置く。

 牛木は一瞬困った様子を見せたが、「ええ、ご協力お願いします」といい、席を立つことにした。


 翌日、午後四時三十五分に青森警察署の電話は鳴った。電話を掛けてきたのは誠一だ。

誠一が鹿野医師と話をしてきてくれたおかげで、電話を通じてわかったことは沢山あった。 

医師の守秘義務というものが定められている限り、簡単に聞取りをするということもできないのだ。グレーな部分だが、身内である誠一の手柄だ。

誠一は優秀だった。刑事さんが絡むことになるかもしれないが情報は提供していいものか、も聞いてくれた。誠一の口からどのように事件の説明がされたのかはわからないが鹿野医師は了承を得てくれたようだ。

電話は録音されている。根詰めて片桐がサイン帳にメモする必要もない。

 凜は『自閉症スペクトラム障害』と、後天性の『摂食障害』『被害妄想』『幻覚幻聴』『PTSD』『アルコール依存症』と多くの病を持つ精神障碍者ということ。

担当医である鹿野医師は、以前から、アルコール依存治療のため入院を促していたということ。それを受け入れた凜は入院準備期間として、近々、自家用車で実家に戻ることを決心していた。凜の入院先は海生精神病院という。

やはり、流行りの感染症のため外出は出来ないとのことだったが、警察からの頼みであれば、面会は許してくれるであろうということも知ることができた。 

 誠一が電話を切るのを待ってから、牛木は直ぐに海生精神病院を調べ上げ、病院に電話した。

「こちら、青森警察署の牛木と申します。突然なのですが、今、入院されている二宮凜さん一家の事件について聞取りをしたいのですが、よろしいでしょうか」

 鹿野医師のいっていたように外出は逃亡の恐れと、感染症対策としてできなかったものの、面会は一階にある鍵付き個室であれば大丈夫と報告を受けた。

「翌日の十一月二十七日の昼過ぎに聞取りのため面会にお邪魔させていただきます。是非とも、事件捜査のためご協力お願い致します」

 そう告げて、電話を切る牛木。

少し、空気を吸いに行こう。牛木はそう思い、玄関を出た。警察署の外にある自販機で缶コーヒーを買う片桐の姿が見えた。

「先輩も、飲みます?」

 自販機から缶コーヒーを取り出した後、牛木の顔を見た片桐は財布のチャックを開けようとする。

「いらん、後輩に奢ってもらうなんて俺のプライドが許さん」

「はあ、そうですか」

 片桐は財布をしまい、一人で缶コーヒーを飲み始めた。

「それより、片桐。凜さんとの面会及び聞取りが出来るようだ。明日、病院へ向かうからな」

「はい。でも精神障碍者の証言なんて、あてになるのでしょうかねぇ。なんにせよ被害妄想と、幻覚に幻聴があるんでしょう。僕は難しいと思いますけどね」

「妄想持ちでもこれは捜査の一部で刑事の仕事だ。証言は鵜吞みにしなくとも聞くことは大事だ」

 そういって、牛木は自分の財布から百二十円を取り出して、ホットの缶コーヒーを買った。もう十一月だ。雪は降らないにしろ肌寒くて仕方がない。手を缶コーヒーで温めてから、一口飲むとホッとする。そうして、二人は署の中へと戻り、支度を始めることにした。


 十一月二十七日の午前十二時三十分。牛木らは青森警察署を出発し、一時間程かけて海生精神病院へ向かった。

 細い砂利道を通った先に病院はある。外灯もないし、まるで獣道だ。牛木は思った。ここを夜に通るにはかなり肝が据わっていないと通れないだろう。刑事である牛木は死体や、人の怖さには慣れている。だがしかし、形のない幽霊や暗闇等はあまり得意ではなかった。

砂利道を抜けると田舎の校舎のような白い建物が塀に囲まれているのが見えてきた。ここが例の病院だろう。建物の外観は廃墟のように荒んでいたのに、中に入ると待合室には患者が溢れるほどいた。

 患者をかいくぐって、牛木は受付へ行き、早々と説明をした。

 受付事務員は牛木らが警察だとわかると、直ぐに担当の看護師に内線を繋いでくれた。

「今から看護師が二宮さんを呼んで、一階へ降りてきますので少しだけお待ちください」

 五分も待たないで、二階のエレベーターから凜は看護師と一緒に降りてきた。

「お待たせ致しました。私、担当看護師の千葉といいます」

 軽く会釈をする千葉。その隣には、枯れ枝のような細い体をした少女が立っている。本当に、二宮凜か?

「こんにちは。えっと……隣にいるのは凜さんで間違いないですか」

「ええ、二宮凜さんです。ね、凜ちゃん」

 千葉は凜の顔を見てニッコリと笑顔を見せる。子供をあやすような素振りだ。凜はコクリと小さく頷く。

「面会室へどうぞ」

 千葉はこちらへ、と手招きをしながら奥の部屋へと案内していく。老婆の奇声や鳴き声が飛び交ってくる。周りは慣れているのか何も反応しない。牛木らは、周りを観察しながら千葉の後をついていく。

 面会室に入るまで千葉は凜の近くにずっといたが、牛木が、

「あの、すみません。聞取りに入ると個人情報なども出てきますので、部屋の外で少し待っていただけないでしょうか」というと、千葉はすんなりと理解してくれた。

「ああ、そうですよね。失礼しました」

「後、鍵かけてもいいですか」

「それについては何の否定も致しませんので、是非、掛けてください。その方が安心しますので」

「すみません、ありがとうございます」

 十一月二十七日、午後一時四十分。凜の面会及び聞取りが始まった。

 部屋は四畳程度で椅子がテーブルを挟んで計四脚置かれていた。テーブルの真ん中には飛沫防止のアクリル板が設置されている。アクリル板を見るとかなり汚れていたが特に気にすることはなかった。

「鍵、掛けたか?」椅子に座って牛木は片桐に向けて確認を取る。

「ええ、しっかりと」片桐は鍵の部分を指さして答える。そしてサイン帳とペンを取り出して着席する。

「よし、それじゃあ聞取りを始めるとしよう。凜さん、良いですか」

 凜は牛木の目を見たまま、コクリと小さく頷き、微妙に震えている。牛木の目からは少し、おどおどしているようにも見えた。精神障碍者のか弱い少女を目の前にして、少し、怖がらせてしまったかなと反省をする。そのため、緊張を解いて落ち着いて話をしてもらおうと思った牛木は言葉を和らげることにした。 

「凜さんは、実家に戻ってからどうしておばあちゃんのベッドで寝ていたのかな」

 まるで子供に話をしているように柔和な声だ。

「そ、それはね、おばあちゃんが好きだから」

「おばあちゃんっこってことかな」

「そう、小さい頃はね、まだママもいたの。だけど、私が小学五年生の時にママは知らない男と浮気をして家を出て行っちゃったの」

 片桐は羅列した文字をサイン帳に乗せていく。文字がキレイだとかはあまり気にしない。

「お母さんはどんな人だった?」

 牛木は柔和な声を崩さない。ゆっくりと丁寧に聞き取りやすく、と重視した話し方だ。

「ママはね何でも直ぐに癇癪を上げる人だった。それで、パパとも沢山喧嘩していたよ。ママはきっと自分の理想とする子供を育てたかったんだろうね。私にはなれなかったけど。本当に勝手な人で、今になってママは、子供を育てるべき人ではなかったと私は感じている」

 それを聞いて、牛木はPTSDについて母親と何か接点があるのではないかと思った。

「PTSDもその影響かな」

 あえて牛木は訊いてみた。

「きっとそうだと思っている。それにママと同じAB型の妹もかなりママと似ていて、小さい頃は、よく妹と喧嘩することが多かったな。妹は直ぐ腕や足を噛んできて、それに掃除機や包丁で脅してくることもあったの。だから妹の存在も怖いの。入院前に実家に居た時は妹が私を恨んで、殺そうとする幻聴や幻覚がずっとうるさくて怖かったの。今、一番怖いのはママより妹」

 奏の性格が見えてきた。

「お父さんは怖くなかったの?」

「お父さんは私と同じB型で、雰囲気も似ていて、とても優しかったし、おばあちゃんにとってもパパは初息子で、私も初孫だったからとても可愛がってもらっていた。同じ血液型の性格は似ているんだろうと、何処か安心感があった」

 片桐はペンを走らせるのを止めて、小声で牛木に耳打ちした。

「血液型は性格に紐づくこともあるっていいますけど、それって本当に性格に紐づくと思います?」

 それに対して、小声で返す牛木。

「今は余計なこといわないで黙っていろ。私語は慎んどけ」

「すみません」と、頷きながらサイン帳に目線を戻す片桐。

「事件の日、何か覚えていることはあるかな。ちょっとしたことでもいいんだ。教えてくれないかな」

「覚えていること……信じてもらえないかもしれないけど……二階から妹の声が十五分ぐらいずっと聞こえていたの。その後、急に静かになって、外で何か落ちる音がした。音はね、二回聞こえたの」

牛木はその言葉を聞いて、

「一旦休憩を取るとしよう。私は部下と少し話をしてきていいかい。その間は少し、看護師さんのもとで待っていてくれないかな」と言いながら深く息を吐いた。

 話に疲れたのか、今度はどこか虚空を眺めるような目で頷いた凜。

 片桐が鍵を開けてドアを開けると、凜は大人しく千葉のもとへと歩いていった。


 車の中に戻った二人は、暫く煙草を加えて考え込んだ。

 片桐は納得のいかない表情で、息を吐いて話し出した。

「やっぱり、アレ、絶対に幻聴ですって、先輩……それか」

「なんだ?」

「凜さんの証言は嘘……とか、疑いすぎかな」

「いや、刑事は疑うことも仕事の一つだ。全て鵜呑みにして疑わない刑事は仕事を放棄しているといっても過言ではないからな」

「そうですよね。やっぱり先輩も思っていました?」

 片桐は自分の憶測があっていたかもしれないと興奮気味に答える。

「さっき、血液型は性格に紐づくとぼやいただろう。それも、内心、被害妄想の症状かもしれないと思ったよ。血液型は約四種類しかない。だが、性格は柔和な人、楽観的な人、自由奔放な人、身勝手な人、臆病な人、自己中心的な人……そう四種類という血液の型では納まりきらない程、数えきれない様々な性格が、この世には存在しているはずだからな」

「やっぱり紐づくことはないと思いますよね」

 少し考えて牛木は軽く首を振った。

「いいや、凜さんは特別な思考を持っているのだと思う。恐らく視野を狭くして生きてきたのだろうと思う。だから、家族の中で性格の構成を立てたのだろう。それに加えて、凜さんは友達が少なかったのだろうと予測するよ」

「はあ、先輩ってやっぱり鋭いところ突きますね」

「幾つもの捜査を経験しているからな。片桐もいつかは感じ取れる時が来る」

 牛木はそういって、車に備え付けられている灰皿に煙草の火を押しつぶして捨てた。

 先輩よりも長く煙を吸うわけにはいかないと片桐は思い、タイミングを合わせようと急いで灰皿に煙草を捨てた。

「それじゃあ、行きます?凜さんには過去に居た友達等についても訊ねてみませんか」

「そうするとしよう。はい、聞取り再開ー」

 休憩時間は終わりだ。ドアを開け外に出る牛木。外はもう初雪が観測されそうだ。

 青森は雪が降る前が一番寒いと牛木は思っている。皆、雪が降る前までは油断して薄着をするし、長靴も履かない。雪が降ってからは、皆厚着をするし長靴も履くし、マフラーと手袋もつける。家では暖房を消すことは殆どないに等しい。それに、外に積もるただただ白い雪山は、光を反射して微かな太陽のぬくもりも感じられるから。と牛木は身震いしながら想像して、ジャンパーのポケットに手を突っ込み、再び病院の中へと入っていった。

「お待たせ致しました。凜さん、また話の続きをしてもいいかな」

 再び緊張し始めたのか凜は「う、うん」とたどたどしい頷きを見せる。


「凜さんは、学生時代の友達との関係はどうだったのかな」

「小学校のクラスの人数は十四人。その中で女の子は私を含めて三人だけ。一人はA型、もう一人はO型、そして私はB型でしょ。A型の子はね、勉強はできなかったけど、優しかった。O型の子はなんだか意地悪で、叩かれて泣くこともあったな。でも、三人はいつも一緒に居たよ。勿論いつもO型の子が悪戯してくるわけでもないし、寧ろ三人で話している時がとても楽しかったのを覚えている」

 凜は昨日の出来事のように話をしていく。古い記憶にしてはとても鮮明だ。

「中学の頃はどうだったのかな」

「中学になってからはO型のこと離れてしまったけど、A型の子とはずっと三年間同じクラスで小学の頃よりも仲が良くなった。それに中学校では新しい友達もできた。その子はB型で絵の上手な子だった。oその頃に、私、摂食障害と性同一性障害の診断を受けたっけ」

 凜の口から『性同一性障害』という新たなワードが出てきた。

「性同一性?それは初めて聞いたなぁ。今は診断されていないようだけど、もう治ったのかな?」

「うん。学業を卒業してから治ったと思うの。でも中学校の頃好きだった吹奏楽部の先輩とはまた会いたいなと思っているよ。当たり前だけど、もう恋愛感情とかないけど憧れって感じかな」

「好きだった先輩について、中学の友達に相談とかしなかった?」

「したよ。ずっとしていた。受け入れてはくれたけど、二人は服飾科のある女子高に行っちゃった。私は情報科の教学高校へ進路を決めて、離れ離れになっちゃった」

 牛木と凜の会話はまだ続く。凜の口調は終始早口で、サイン帳に情報をメモしている片桐の掌はつりそうだ。

「何故、情報科を選んだんだい。何か特別な理由でもあったのかい?」

「私は、パソコンのWordで文字や文章をタイピングするのが好きだった。そして、中学三年の頃、将来は小説家になろうと夢を抱いて、情報知識を吸収しようと情報科を選ぶことにしたの」

「小説は今でも書いているのかい?」

「うん。今でも幾つか新人賞に応募している作品はあるよ」

「それは凄いね。大学へ行こうとは思わなかったのかい?」

「最初は大学の文学部に進みたいと思ったけど。文章を書く以外の能力はなかったし、それに奨学金を借りるにしても申請がおりないと思ったから、私は東京のIT企業でPGをすることにしたの」

 凜の口からは次々と言葉が出てくる。

現在進行形で物語でも作っているのだろうか。いや、それはない。だって、それにしちゃあ、出来すぎだ。と牛木は思った。

「何故、PGになろうと?」

「私、何故だかわからないけど他の子よりも多く資格を取ることが出来てね、先生や親に就職の道を勧められたんだ。そこで提案されたのがPGだったの」

「そうか。進められていたからPGの道へ進むことにしたんだね」

「そう、趣味で小説家を目指していけばいいやと軽く思っていたから、無難に先生や親から進められていたPGを目指すようになったの。でも、私はそれ以降、孤立するようにな

「どうしてだい?高校での生活はどうだったんだい?」

「入学式の日はいろんな人と会話をした。でも、二年と上がっていくと同時に、高校の女の子は皆。恋愛に行き急ぎ始めるようになって、私は、その何かが馴染めなかったの。それに表では友達の噂を立てて、裏では聞き役だった女の子の陰口を言っているのを知った。それを知ってから私は信用できなくなって、孤立するようになったの。後、学校のトイレで食べ物を吐いているのを聞かれてから、過食嘔吐への偏見を持たれるようになって、トイレの上から水をかけられたり、ベランダでお弁当を食べている時、ドアの鍵を閉められたり、上靴や机がなかったりしたこともあった」

「要するにイジメだね。それで、人間不信になり孤立することが多かった、と?」

「まあ、そんな感じ。それからは女の子を信じられなくなってしまったし」

 一気に情報を吸収しすぎた片桐の頭の回路はショート寸前だ。

 それを察した牛木は、片桐を落ち着かせるため二十秒程話す間を開けた。

 小さく片手で手形を切る片桐。聞取り中だから二十秒で許せ、と牛木は心の中で誤る。そして、メモを取る側にならなくて良かったと思ってしまった。

「そうか。あ、そうだ。もう一つ聞くよ。事件の日は眠れていたのかな」

「その日はお酒を我慢しようとして一本しか飲まなかったから全然眠れなかった。薬の効果も薄くて、それに、一粒部屋で落としてなくしちゃって、飲めなかった薬があった」

「それは、なんという薬かな?」

「私の薬は一錠ずつじゃなくて薬を一日分ずつ、一包化してもらっているから、その時落とした薬の名前はわからなかった」

 両手で腕組みをする牛木。

「その錠剤、部屋を探したら出てくるかな」

「ベッドの下とか探したら出てくるかもしれないけど、私が飲み忘れたのはそれが初めてで最後だったから、特に気にはしなかったよ」

「そうなんだね」

牛木の頭はだいぶ整理されてきていた。

そして、牛木と片桐は顔を見合わせて同時に頷きを見せる。

「話してくれてありがとう。今日は疲れたでしょう。凜さん、部屋に戻ってゆっくり休んで良いよ。あ、でもまた聞きに来るかもしれないからその時はよろしくね」

 疲れて、張り詰めた空気から買い移封されると安心したのか凜は気持ちよく「はい」と頷いた。

 凜は最後、小さく手を振った。牛木は人柄にもなく手を振り返してしまった。

 車に戻った二人。疲れが一気にのしかかってきた。

「ひゃぁー疲れましたよ、先輩。もう右手が手じゃなくなってます。痺れて感覚麻痺です」

 まだジョークが言える片桐だ。まだ完全なる精神まで疲れ切ったようではないが、手は大層疲れたことだろう。

「先輩の予測通り、凜さんは本当に友達が少なかったようですね。それに、先輩のいっていたように、血液型と性格は凜さんの中でリンクしていた。友達が少なく、それに伴い、視野が狭くなっていた。確かに僕も聞いていてそう感じました」

 言いながら、シートベルトをつける片桐。

「その固定概念から、AB型の母親を怖れて、同じ血液型の妹、奏さんをリンクさせて、怖れるようになってしまったということだろうな」

 エンジンをかけて、アクセルを軽く踏みながら牛木は話す。

「それと、気になった点が一つ、高校の記憶はあっても、小学や中学の記憶を丸々覚えているって記憶が良すぎませんか?」

「それが、凜さんの特徴だろうと俺は見込んでいる。小説を書き始めてからは色んな情報を仕入れるため更に聴覚や視覚が過敏になったのかもしれない。つまり、凜さんのいっていることはあながち間違っていないのかも……ということだ」

「そこまで予測しちゃいます?それが当たっていたら……」

 牛木はうん、と頷きを見せて答える。

「凜さんの妄想はかなり重要な証言となる」

 車につけられた時計を見ると午後六時を過ぎていた。十一月ともなればすっかり日も暮れてしまう。日中通った外灯のない獣道を、牛木は通りたくないと心の中で嫌がったが、通らずには帰れない。片桐が隣にいるだけ十分安心できる。

「先輩、凜さんと誠一さんの飲んでいた薬の内容を調べてみるのはどうですか」

「それはアリだな。丸山に居る鹿野医師のもとへ訪ねてみるか。今日中に連絡を取っておくから、明日にでも話を聞いてみよう」

 運転しながら牛木は答える。こうして、片桐と事件について考えながら運転していると暗闇の怖さも何とか紛れるような気がした。


 牛木と片桐は捜査で手一杯となっていて、二人は睡魔に襲われていた。終始、微睡を見せていた牛木は無理やり体を起こし上げ、片桐に合図を送る。

 それでも起きなかったので、片桐の目を無理やり両手で開けて「起きろー、行くぞ」と大きな声で伝える牛木。驚いて起き上がった片桐は、瞬発的に姿勢を整えてビシッと立ち上がり「はい!」と謎の声を発した。捜査の真っただ中なのに、牛木はふと笑いそうになってしまった。

 十一月二十八日、午後一時。

 特別に、鹿野医師と話をすることが出来ることになったので、牛木らは早速、丸山精神病院へと向かった。

「お忙しいところすみません。お邪魔します」

 牛木は挨拶をしながらゆっくりとドアを引く。

「まあ、いらっしゃい」

 この人が鹿野医師か。優しい穏やかそうな医師だ。

「私、刑事の牛木と申します。隣にいるのは片桐という部下です」

「こんにちは、今回はどういった要件でしょうか?」

 皺まみれの優しい顔が訪ねる。

「今回は、二宮誠一さんと二宮凜さんに処方していた薬をお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか」

「うーん、医師の守秘義務がありますが……」鹿野医師は渋っている。

「今回は事件ですし正当な理由がありますし」そこをどうにかと念を押す牛木。

「そうですね、今回は人の死が絡んでますし、処方している薬はお伝えします」

「助かります」牛木が言うと、片桐は早速サイン帳を取り出した。

「ええ、まず誠一さんが飲んでいる薬はエバミール錠1㎎、トラゾドン塩酸塩錠50㎎、酸化マグネシウム錠330㎎、を誠一さんには処方しています」

 錠剤の名前を聞いただけじゃ何もわからない。

「それらの効果はいかに?」

「エバミールは不安や緊張を和らげ、睡眠を促し、よく眠れるようになる睡眠薬です。ただ、副作用として体がだるい、頭が重くて眠れない、不快感に脱力感が現れることがあります。トラゾドンはうつ状態を改善する薬ですが、体が重い、頭痛、頭が重いことが副作用としてあります。酸化マグネシウムは簡単にいうと下剤ですね、尿路結石を予防する薬でもあります。下痢などの副作用が出ることもあります」

 無言でメモを取る片桐は、内心、誠一と会った時に、ついでにお薬手帳も見せてもらえばよかったのにと思った。

「それでは、凜さんの処方箋はどんなものでしたか?」

「ちょっと待ってくださいね、今調べますので」

 鹿野医師はパソコンをカタカタと操作し始める。マウスを持つ右手の動きが機敏だ。

 ようやく鹿野医師はパソコンで何かを見つけたようだ。表情が変わったのがわかる。恐らく凜のカルテだろう。

 再び、片桐はメモの準備をした。

「えっと、凜さんの処方箋はかなり多かったです。まず初めにヒルナミン75㎎、興奮を抑えたり、うつ状態を安定させ気分を和らげる薬なのですが、副作用として尿の糖が増えるなどあります。二つ目のアリピプラゾールという薬は気分を安定させ、うつ状態を改善させる薬ですが、副作用としてじっとしていられない、不眠、筋肉のこわばり、体がだるくなることがあります。三つ目にフルニトラゼパムは入眠を促し、よく眠れるようになる薬ですが、副作用として、めまい、体をうまく動かせない、不快感に脱力感が起きることがあります。四つ目にエスゾピクロン、これも入眠を促す薬ですが、凜さんの場合、悪夢や幻聴幻覚を弱めるために使っています。五つ目のピコスルファートナトリウムは便通をよくする薬です。どうでしょう。凜さんの症状を考えたうえで、私はかなり多くの処方箋をつけていました」

 片桐は固くペンを握っていた拳を緩めていく。

「大体、聞くことは出来ました」

「それはよかったです。かといって、入院をしている凜さんの前では刑事さんもあまり張り詰めた空気を出さないでほしいのです。凜さんの精神状態はかなり弱っていますので」

「ええ、できる限り、優しく聞取りをしていますので安心してください」

「それはありがとうございます。それでは今日はこれで失礼致します」

 牛木は直ぐに部屋を出たが、片桐は立ち上がって部屋から出る直前に、鹿野医師の顔をちらりと見て、会釈して出ていった。

「ふー、捜査はまだまだ続きますね……僕は心ではなく右手が疲れました」

「二宮家にもう一度訪問してみよう、何かわかることがあるかもしれない」

「わかりました」と返事をする片桐。


 十一月二十九日、午後三時。

 インターホンの音は少し鈍っているようだ。

 二宮家のインターホンを鳴らして十秒程待った。すると、ドタドタと重い足取りが玄関から向かってくるのが聞こえてきた。ドアを開けたのは誠一だ。

「おや、刑事さんじゃないですか」

「少しお伺いしたいことがございまして、少しだけお時間よろしいでしょうか」

「ええ、いいですよ。どうぞ中へ入ってください」

 牛木らは立ったまま話をした。

「今日、奥さんはいらっしゃらないのですか」

「はい、今日は山にいってカブを掘りに出かけていきました。ほら、雪が積もる前に掘ってしまわないと、カブ掘れなくなっちゃうでしょ」

「そうなんですね。私共は農業については詳しくないので、それは知らなかったです」

 定年退職したら農業でも始めるのもアリだと思っていたから、その手の話に牛木は少し興味があった。

「後、ダイコンも雪が積もると掘れなくなっちゃうんですよね。あ、でも刑事さんの聞きたいことはカブやダイコンの話ではないでしょう。本題は何ですか」

「すみません。脱線してしまいそうになりました。さて、誠一さんは毎日決められた量の薬を飲んでいますか」

「飲んでる……と、いいたいところですが、飲んでいない薬もありますねぇ……」

「それでは、少しだけ、余っている薬を見せていただけないでしょうか」

「わかりました」と頷いてから、ソファーの真横にあった茶色い棚の一番下を開けて、ガサゴソと薬を取り出す誠一。

「これになりますが」処方箋の袋がたくさん入った籠が出てきた。

「片桐、探せ」牛木は片桐に籠を渡す。

籠を手に取り、処方箋袋の中を覗いて、沢山残っている薬を探す片桐。

「先輩、これではないでしょうか」

「どれどれ」

 その袋の中には同じ薬が五十錠程あった。牛木は小さく書かれた薬名をじっと見つめてそのまま読み上げた。

「誠一さんが飲んでいない薬は……エバミールという薬ですね?」

「そんな名前だったかなぁ。でも飲んでいないのはそれです」

「何故飲まなかったのですか?」

「飲んだら気持ち悪くなっちゃうからです。でも本当に気分がすぐれない時はたまに飲むときもありますねぇ……あ、でもちょっと思い出してきました。事件の日の夜、凜が眠れないといいながら起きてきたんです。それで私はその飲んでいない薬を渡したような気がします」

「エバミールですか?昨日、鹿野医師のもとへ行き、薬と副作用について色々と伺ってきました。確かに。睡眠を促す薬だと聞きましたが、副作用として……」

 牛木はド忘れしてしまった。それを補助する片桐。

「先輩、副作用は頭が重くて眠れない、不快感に脱力感が現れることがある。ですよ」

「そうだったなぁ。誠一さんは副作用について知っていましたか」

「それは知らなかったです。へぇ、睡眠薬でも眠れないことがあるんですね。だから私には合わなかったのかなぁ」

「それに加えて、凜さんの証言として飲み忘れた薬が一錠部屋の中にあるといっていましたが、その件について、少し凜さんの部屋へ入ってもよろしいですか」  

「構いませんよ。凜の部屋はこの向かいの座敷になります」 

 牛木らは凜の部屋へ入り、白手袋をはめて物色を始めていく。

 十五分もしないで薬は見つかった。やはり、凜のいっていた通り、ベッドの下に直径三ミリ程の小さな薬が転がっていた。

「誠一さん、ちょっといいですか」牛木は屈んだまま誠一に声をかけた。

「なんでしょう」襖にもたれかかる誠一。

「探していたものが見つかりました。この薬です。署までもっていって、何の薬か調べてみてもよろしいでしょうか」

「ええ、どうぞ持って行ってください」


 翌日の朝から牛木らはとても忙しくしていた。

 薬を調べたところ、部屋に落ちていた薬はエスゾピクロンで、凛には悪夢や幻聴、幻覚を和らげるために使っていると鹿野医師が言っていたのを思い出した。

「凜さんはアルコールをいつもより少ない量を飲んでいて眠りが浅くなり、この薬を飲まなかったため、悪夢にうなされて、それに伴って幻聴が聞こえてしまった。それに加え、誠一さんの薬ももらって更に副作用が生じてしまい、、眠れなくなり、不快感が現れていた。と?」

 片桐にしては大した憶測だ。ここ数日で片桐はかなり成長したはずだ。

「それに付け加えてもう一つ、凜さんは小説を書くのが好きで、耳がいつも以上に敏感になってしまった。よって、二階に居た妹の声も聞こえた……という線も残しておくとしよう」

「また、海生へ行きます?」

「ああ、また連絡を入れて、都合を合わせておくとする」

 それから、連絡を入れたのは直ぐだったが、凜はこの日、体調を悪くしていたようで、明後日の十二月二日に海生精神病院へ向かうこととなった。

 

「度々すみません。今回も二宮凜さんと話をさせてもらいに来ました」

 千葉看護師と凜は直ぐにエレベーターから一階に降りてきた。

「今回も部屋の外で待っていますので、どうぞ、お話してください」

 千葉はそう言うと、凜は一人で鍵付き面会室へと静かに入っていった。「それでは」と、後ろに続いて牛木と片桐も中へ入る。

「もう、体調は落ち着いたのかな」牛木は落ち着いた口調で訊ねる。

「うん、今は大丈夫」凜の表情も落ち着いているようだ。

「今日も質問をするけどいいかな?」

「うん、いいよ」

 牛木は簡単な説明をしてから話を切り出していく。

「幻聴は頻繁に聞こえるの?」

「最近は多いかな。ここ最近はアパートで子供の声がずっと聞こえていて、大家さんに相談したけど、隣は一人暮らしだといっていたの。だからこれも、きっと幻聴……だよね」

 片桐は簡単にメモを取っていく。

「幻聴にしても、それはたしかに聞こえたんだね?」牛木は訊ねる。

 凜はうん、と頷きを見せる。

「その時、何か見えたもの、幻覚等はあるかな?」

「小さな影が窓から見えていてね、子供が動いているようにも見えていたけど……きっと、幻覚だよね。それとも幽霊とかかな?」

 一瞬固まった片桐だがそれもメモを取っていく。

「どうだろうね。私達が実際にいって確認してみるのはいいかい?」牛木は凜に訊ねてみる。

「いいよ、アパートの鍵はおばあちゃんが預かっているから、後はおばあちゃんと話してみて」

「助かるよ。あ、それと、その現象は何時頃起きたのかな?」

「夜寝る前。大体十時ごろかな」

「教えてくれてありがとう」

 少し間があった。

「凜さん、もう一度聞くけど、事件の日は、何か聞こえたり、見たりしたものはなかったかな」

 牛木がいうと、凜は少し黙り込んだ。その後、二十秒の沈黙を切り裂いて凜は話し出した。

「前もいったけど、その日は妹の声がずっと聞こえていたの。それに、目をつむっている時、脳裏で見ていたものがあるんだ。それはフラッシュバックのように速くて途切れ途切れだったけど、音も聞こえたし、映像でも見えていた」

「ほう、それはどういった内容かな」牛木は凜に視線を向けたまま、丸腰になる。

「まず、初めに、妹が勉強をしている姿が見えた。次にパパの姿が映って、妹に何かいっていた」

「それは、どんな言葉か覚えている?」

「んー……真似すると、浪人生の費用も大変なんだ、少しでも働いたらどうなんだ……とか、なんとか」

 凜はイマイチ曖昧そう。記憶をたどるのに苦戦しているようだ。

「その後は何か聞こえた?」

「……妹が癇癪を上げ始め……て」

 凜の言葉が止まった。

「どうしたんだい?」

 凜の表情がゆがんでいく。すると、

「あああ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 凜は急に「ごめんなさい」と何度も連呼し始めた。

「大丈夫ですか?凜さん、落ち着いてください、ね」

 牛木は慌てて宥めようとするが、アクリル板が隔てていて直ぐには出来なかった。代わりに片桐が凜の肩をさすった。

「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい」凜は大声で泣きわめき始めた。

 部屋から凜の泣き声が聞こえてきたことを察した千葉は、ドアをトントンと叩いて「大丈夫ですか」とドア越しに声掛けをした。

「先輩、どうにか」

 千葉は凜の肩を優しくさすりながら、牛木に向けて焦った表情を見せる。

「あ、ああ、直ぐ開ける」

 そういって、牛木はドアの鍵を急いで開けて千葉を呼んだ。

「凜さん、どうしたんですか、落ち着いてください」千葉は凜の様子を見るなり、急いで凜のもとへ駆け寄り、凜を抱きかかえる。

「凜さん大丈夫ですか、あの、なにかしてしまったかな、大丈夫ですか?」

 それを見る牛木は焦りだす。

「ああああ、ママ、ママ、ごめんなさい、ごめんなさいママごめんなさい」

 凜は過呼吸になってしまった。息をするのがあまりにも辛そうだ。千葉はその凜の言葉を聞いて何か察したようだ。

「嫌なことでも思い出しそうになったんだね。大丈夫だよ、安心してね、よしよし」

 優しく宥める千葉の姿が大きく見える。千葉を見ていると、なんとかなりそう。と牛木らは思った。

「一旦、落ち着かせてあげたいので、今日はこの辺にしてあげてくれませんか?」

 千葉は屈みながら牛木の顔を見て話す。

「え、でも、まだ大事なところが……」

「先輩、あまりにも凜さんが可哀そうですよ。今日は休ませてあげましょう」

 片桐の言葉を聞いて、牛木は渋々頷いて了承した。

「わかった……わかりました。凜さん、話はまた今度聞かせてもらうね。今日はゆっくり休んでくださいね」

「凜ちゃん、部屋で休もうか、ね」

 千葉は凜を優しく起き上がらせて部屋を出ていった。

「それでは」牛木は凜と千葉の後ろ姿に聞こえるようにいった。


 辺りはもう既に暗い。街灯が照らす喫茶店で二人はコーヒーを頼んだ。

「何かを思いだしたくなかった」

 喫茶店の中で牛木はホットコーヒーを一口啜って呟く。

「何か、とは?」片桐が問いかける。

「その、何かがわからない」牛木はため息を漏らす。

「そもそも、凜さんの証言、信じれますか?」

「信じるもなにも、まず、嘘つきだと確証はあるのか?」

 うなだれる牛木は目線だけを片桐に向ける。

「それはないですが……」

 片桐は都合が悪そうにコーヒーを啜った。

「あの調子だと、また話を聞きにいっても泣かれてしまうだろうなぁ」

 牛木は両腕をテーブルに置く。

「それじゃあ、どうやって、捜査を続けるんですか?」

「それが、一つだけ、道があるんだ」牛木は首の関節を鳴らしながらゆっくりと呟いた。

「その一つ、とは?」

「凜さんの証言が嘘、又は被害妄想か、事実かを調べることが出来る。凜さんはアパートで子供の声が聞こえて、窓から子供の姿が見えたといっていた。俺たちはそのアパートへ行く。それが、実際聞こえたり、見えたりしたら凜さんの証言は正しいこととなる。反対に何もなかった場合、凜さんの証言は、被害妄想にすぎなかったと決定することが出来るだろう」

「だから、あの時凜さんにアパートへいっていいか確認していたんですね」

「ああ、念のため、そこは抑えておいた」

「刑事の見極めた質問ってところですか?凄いですね、先輩」

 片桐は感心して軽く拍手をする。

「そんなことないよ」

 牛木は一旦席を外して、外に出て、電話を鳴らした。相手は伸江だ。

 アパートの鍵を貸してほしいとの相談だ。

 伸江は三コールで電話に出てくれてすんなりと話が進んだ。

 明日の昼に、警察署に鍵を持っていくと伸江がいい、電話は終わった。

 電話をジャンパーのポケットに仕舞い、代わりに、反対のポケットから煙草とライターを取りだす。悴んだ空気の中吸う煙草。煙を目で追っていると、雪が降ってきた。それは遅めの初雪だった。


 二人は午後九時に鍵を持って、例のアパートへ向かった。氷結道路を走る時はスリップ等の事故に気を付けなければならなくて運転が怖くなる。そして、雪が降る見通しの悪い中車を走らせていく。

車を降りた二人はしっかりと防寒着を着用している。アパートは、こじんまりしているがなかなかに綺麗な外観だ。しかし、駐車場が狭かった。隣には大きく目立ったジュエリーショップが建てられていた。とても年季の入っているような店だ。ジュエリーショップはガラス張りで、中の宝石や鏡が所狭しに置かれているのがわかる。ただ、宝石を扱う店なだけあって、窓ガラスは相当頑丈そうだ。

「ここら辺の人達はこの宝石店を目印にして生活してそうですね」

 確かにそうだと牛木は思った。それ程、目立っていた。

 ジュエリーショップ周辺を舞う雪は心なしか反射して光っているように見える。

 そんなことに魅了されていてはならない。外は寒い。ジャンパーを羽織って長靴と手袋をしているだけマシだが、マスクは蒸れるし、耳の皮膚が切り裂かれそうな程寒くて痛かった。

「さあ、中に入って捜査するぞ」牛木はアパートの中へ入ろうと早歩きになる。

「霊でも居たらどうします?」牛木がアパートのドアに手を掛ける直前に、半笑いで片桐は訊いた。

「たまったもんじゃない。霊なんて信じてたまるか」

 牛木の手がひるむ。いつもの捜査とはなんだか違うような気がしてならなかった。このアパートを前にしてから謎の違和感がして、どことなく、本当に子供の霊が居る気がした。それは死霊かもしれないし生霊かもしれない。

部屋のドアを引く時に牛木が放った言葉は「慎重に」だった。

「何を、誰も居やしませんよ。さっさと凜さんの妄想癖を明らかにさせて帰りましょう」

 片桐は長靴を脱ぎ捨てて、牛木を抜いて先に部屋の中へ入っていった。

 牛木は部屋の中に足を踏み入れる前に、自分で自分に活を入れた。

 隙間風が入ってくるが、外よりは寒くはないが冷気は残っている。しかし、他人の住いだ。勝手に暖房をつけるわけにもいかない。それよりも、牛木はその冷気が不気味でならなかった。

 部屋は七畳のワンルーム。玄関から入って直ぐ奥に壁一面の窓がある。カーテンはつけられていなく、隣のジュエリーショップが堂々と映っている。

「凜さん、カーテンつけない派なんですね」

凜は敢えて、カーテンをつけなかったのだろう。牛木は憶測を立てる。

「きっと、この宝石店の中を眺めていたかったんだろう」

「はあ……」片桐は特に興味なさそうだ。

敷布団は右の壁にぴったりと沿って敷かれている。寝返りを打てば直ぐに壁にぶつかる。この距離だと隣の声が聞こえてもおかしくはない。そして、左に洗面所へ続く道があった。

「さて、子供の声は聞こえるのでしょうか」

「賭けてみるしかない」そういった牛木だが正直帰りたいと思っていた。しかし、捜査の一環と割り切って、アパートにとどまることにした。

 床はとても冷えていた。

  

 一時間は過ぎただろう。腕時計を見ると針は午後十時を指そうとしている。

「先輩、こんな馬鹿げたことやめて、もう帰りませんか?凜さんの証言は妄想だったんですよ」

片桐が立ち上がろうとする。

「待て」その時だ。

「痛いっ……痛いよっ……」

 微かなる子供の声が聞こえてきたのだ。声は壁の奥から聞こえてくる。

「え、まさか本当に聞こえるなんて……先輩、幽霊ですか?」

 片桐は急いで立ち上がり、周辺を見渡す。だが、誰も居ない。

「きっと、隣人の声だろう……それにしても、不可解だ。凜さんの証言では隣は一人暮らしだといっていた。しかし、何故だ。子供の声が聞こえた」

 二人は右側の壁に耳を当てて隣の音を聞いていく。

「おうちに帰りたい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 隣は何か騒がしくしているようだ。子供が泣いている。

「これはおかしい」

事件の臭いがしてきた。

 ふと、牛木は窓に目をやる。

 宝石がキラキラとしていて綺麗なのは見えたが、子供の姿等は見えなかった。代わりに影みたいなものがうようよ動いているのが見えた。

 牛木は窓の外を何十秒も観察した。ジュエリーショップの中の窓際には大きな鏡が置かれている。鏡は月明かりに照らされて反射している。月明かりに照らされた鏡をよく見ると……

「わかったぞ」牛木はひらめいてしまった。

「声の正体ですか?」

「ああ、急がねばならない」そういって、牛木は走って長靴を履きにいく。

「待ってください」片桐も慌てて長靴を履く。

「慎重に、それだけを忘れるな」

牛木はそういい、ドアを開けて外へ出た。

 片桐も察したようだ。これは事件だ。

牛木は右側の部屋のインターホンを鳴らす。ピンポン。

「はい、なんでしょう」二十秒待つと男の声が聞こえてきた。

男はドアをほんの少し開けた。その隙間から僅かに男の顔が見えた。

 五十くらいの中年男性だ。茶色のセーターを着ているのがわかる。 

「夜分遅くにすみません。少し、話があるのですが」

「なんですか」男は機嫌が悪そうだ。

 牛木は子供の声が聞こえる、と男に伝えた。

 男は少し動揺した素振りを見せたが、

「ああ、姪っ子を預かっているんですよ」と、苦笑いで答えた。

 そんな訳ない。と牛木は思った。

 その時、部屋の奥から「うえええん」という泣き声が聞こえてきた。さっき部屋で聞いた声と全く同じだ。

まだ、未熟で幼い声。

「話遅れましたが、私、青森警察署の牛木と申します」

 そういって、牛木は警察手帳を片手で見せた。

 男は一瞬でドアを閉めようとする。だが、その隙を片桐は見逃さない。ドアの隙間に左手を入れて、ドアが閉まるのを阻止した。それでも男は必死にドアを閉めようとしたが、無駄な抵抗だった。

「片桐、男をおさえておくんだ。俺は中に入る、少し待っていろ」

 牛木は長靴を履いたまま、部屋の中へ入る。

 奥には七歳くらいの幼女が手足を拘束された状態で横たわっていた。幼女の足や腕、顔には大きな痣がいくつもあった。

「誰、誰……怖いことしないで……ごめんなさい」

 幼女は牛木を見て怯えている。

 相当酷いことをされてきたのだろう。牛木は幼女を落ち着かせようと静かに屈む。

 牛木は急いで手足の縄を解いた。

「大丈夫、安心して。私達は警察だから、一緒に安全な場所へ移動しようね」

 刑事の証明として、警察手帳を見せてから、幼女に手を差し伸べた。

 安心したようで幼女は牛木にギュッと抱き着いて、そのもとでまた別の涙を流していた。


「誘拐だなんて、よくわかりましたね」

 廊下を歩く片桐は前を歩く牛木に向けていった。

 牛木も、まさか誘拐事件に遭遇するとは思っていなかった。

「凜さんは隣の部屋にいた子供の声を聞いていた。また、凜さんは窓から子供の姿をしっかりと見ていた」

「でも、隣のアパートの様子ですよ。窓はどっちも同じ向きだし、どうやって窓から見たというんですか」

 片桐が不思議に思うのも当然だ。アパートの窓は全部西向きに備え付けられてある。

 そこで、牛木はこう推理した。

「普通であれば、隣の部屋の様子を凜さんの部屋から見ることは不可能だ。しかし、それが実際に見えていた。方法は反射だ。ほら、向かいに建てられていた宝石店があるだろう。その店の窓際には沢山の光物が飾られてあったはずだ。その宝石店がキーとなる。そして、凜さんの隣の部屋では誘拐犯が子供に暴行し、その度にカーテンが揺れ動いていた。凜さんはその一部始終を、宝石店の光物の反射現象によって見ていた」

 牛木はふう、と吐息をつく。

「宝石店の光物が誘拐犯の一部始終を反射させていたということですか?」

 片桐は少し納得してきたようだ。

「ああ、実際に俺も見た。カーテンが揺れ動いているところまではわかった。だが、実際に子供の姿までは見えなかった」

「それじゃあ、どうして行動に移せたんですか」

「イチかバチか、凜さんの証言に賭けてみた、とでもいっておこうか」

 そのまま二人は書類を両手で抱えて、廊下を歩いていた。

 凜の証言のおかげで幼女誘拐の別事件は終止符が打たれた。

 担当刑事らは牛木を大層褒めた。

牛木の手柄もあるが、正直凜が話してくれなかったら事件は解決していなかっただろう。

「ちょっと、牛木、海生精神病院から電話だ。相手は千葉というようだが」

 突き当りの部屋にいた部長が、廊下を歩いている牛木に向けて大声で伝えた。

「あ、はい」牛木は大きく返事をして、持っていた書類を片桐に渡す。

「おおっと」と片桐は少しよろめいて、走っていく牛木の後ろ姿を呆けた顔で見送る。

廊下をダッシュして牛木は部長から受話器を受け取った。


「はい、牛木です」

「ああ、刑事さん。私、ち――」

「千葉さんでしたね、今回はどのようなご用件でこちらにお電話を?」

「はい。二宮凜さんについて少しお話したい、と思いまして」

「そうでしたか、ご協力ありがとうございます。それで、凜さんが何かいったのですか?」

「凜のPTSDの根源は母親で、時を追うごとに、そのトラウマの対象が母親から妹さんに変化していったのは知っていますか」千葉は訊ねた。

「ええ、一応その線も考えていましたが、やはりそうだったのですね」

「凜さん、刑事さんが帰った後、私にいったのです。事件の夜、妹が癇癪を上げていてとても怖かった。と」

 その時、凜の思いだしたくなかった「何か」がわかったような気がした。

「他に、凜さんはいっていましたか?」

「いいえ、私にはそれっきりで、後は刑事さんに直接話したい、といっていましたよ」

「そうですか、それでは何時頃ならいいですか?」

「明日の午前から大丈夫ですよ」

「わかりました。部下と二人で向かいます」


 そうして電話は切れた。

 まさか、凜が直接話したいというとは思っていなかった。牛木は一旦部長に進行状況を報告して、明日の午前十時に凜のもとへ向かうことになった。


「凜さん、今日は話せそう?」

 牛木は凜に確認を取る。

 不安そうな頷きを見せる凜。片桐は「無理しないでね」と優しくフォローを入れる。

「事件の夜、前に、脳裏で見ていたものがあるっていったでしょ。そのことなんだけど……」

「きっと何か、思い出したくなかったことでもあるんだよね。落ち着いていいからね」

 牛木は前みたいに泣かれないよう、かなり慎重に言葉やニュアンスを選んでいる。

「私が脳裏で見ていたものはね、ベランダで、妹とパパが揉め合いになっているところなんだ」

「なんだと」

「妹はパパをベランダから突き落とした」

 牛木はゴクリと唾を飲み込む。なんと言葉を返していいかわからず、続けて、凜が話し出した。

「その前に、パパは妹にこういった。奏は本当ママにそっくりだ。と」

 今、凜は必死に現実と向き合おうとしている。その証として、話すことを止めない。

「それを聞いた妹は更に怒りだし、パパにつかみかかっていった……ベランダの扉を開けて……」

 凜は泣いていた。

「……パパをベランダから落とした……そして、妹も自分の身を投げ捨てた……」

 一分の沈黙が流れた。

 牛木と片桐は混乱状態だ。違う意味で凜の頭の中も混乱している。

「涙を拭いてください。凜さん」

 沈黙を破ったのは片桐の優しい言葉だ。

「凜さんは、その一部始終をどうして、そんなに詳しくわかるのかな」

 牛木は慎重に訊ねてみた。

 凜はティッシュで鼻をかんでから答えた。

「それが、私にもわからないの。これがもし、妄想だとしたら、パパは死んでなんかいないでしょう?ねえ、だから、事件を現実だと受け入れるのが怖かった。受け入れてしまうと私の妄想は妄想ではなくなってしまうから。家族の中に、犯人がいるとわかってしまうから……だから、私はあの時の私の頭の中を思い出したくなかったの」

 再び、泣き出した凜だが構わず話をしていく。片桐からもらったティッシュだけでは足りなそうだ。

「私は、自分の治療をするために入院したの。だから、私自身のためにもありのままを嘘一つなく証言しようと思った……の」

 凜は電池が切れたように、急に静かになった。泣いて話過ぎて、心も体も完全に疲れ果ててしまったようだ。

「凜さんの証言はしっかりと抑えました。安心して休んでください」

 電池切れかけの凜は少しだけ思い出したかのように首を上げていった。

「あ、でも、ただ一つ、妹が自分の身も投げ捨てた理由がわからないの。ただ、それだけ、それだけ……妹にも悩みがあったんだろうなぁって、私だけじゃないんだろうなぁって……」

 その理由を考えるにはあまりにも複雑な感情だった。

「残念ですが、私達は奏さんの目覚めを待つことしかできません。奏さんの取調べが決まったら連絡します。事件のことも奏さんに問い詰めていくつもりですので、凜さんはここで治療に専念してください」

「はい……わかりました」

「今日は、ありがとうございました」

 牛木はただただ、礼をいうことしか出来なかった。


 生きることがこんなに悲しいことだとは思わなかった。

 二月十三日、昏睡状態の奏は目を覚ました。

 他の捜査に手を付けていた牛木だが、その日は、無理矢理時間を作って奏のいる病院へと向かった。

 奏はいった。

「私は、お母さんと似ているといわれることがとても嫌で、そして、実際に似ている自分も嫌でした。お母さんに似ていると家族からいわれる度に、軽蔑されている気分でした。あの時も、お父さんに言われた言葉で私はカッとなってしまい、お母さんのような行動をとってしまったのは事実です……。自分の行動と後先が嫌になって、身を投げ捨てようと決心してしまいました……」

 最後に牛木は凜について聞いた。

「お姉さんはどんな存在?」

「とても羨ましかったし、とても憎かったです。甘えていれば許される。謝っていれば許される。そんな思考が気に入らなかったです。凜は完全に私をお母さんと似せてきた。だから、私も軽蔑してやろうと、障害に関する軽蔑をずっとしていました」

「凜さん、いっていましたよ。私は今のままじゃいけない。奏さんが自分のことを一番わかっていたように、凜さんも同じく自分のことをしっかり、理解していると思います。凜さんに限らず、人それぞれ、芯がないと生きていけないと思うんです。それだけを忘れないでください」

 牛木は思った。

 自分自身の考えと、相手の思っていることは全くもって違うのだろう。勘違いが生じて事件が起きる。

 二宮家には会話が足りなかった。ただ、それだけだ。それだけで、すれ違いが生じて、このような事件が起きてしまった。

 奏はしっかりと罪を償うことにした。

 そして、凜と再会した日にはしっかりと、話し合うと牛木と約束をした。

 その時も凜は怯えているかもしれない。だけど、受け入れてあげる心を身に着けてほしいと牛木はいった。

障害というのは、軽いとか重いとか関係なしに根本はどれも似ていて、状況に限らず、知らぬ間になっているものなのだろう。その割に、治すのにはかなりの時間と支えが必要だ。それだけ重くて治すのに時間が掛かることを知ってほしい。


 さて、そんな暗い話はやめにしよう。

 ある日、友達が突然変なことをいってきた日。

 たまには、信じてみるのもどうでしょう。

 興味深い事実が眠っているかもしれませんよ。

 疑って生きるよりも、

信じる勇気も大事だと思いませんか?

 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ