廓の女
暗殺の標的、氏平善本は全てを見透かしているのか?
冷たい目で「刺客が来たならその十倍の報酬で雇ってやる」と言い切った。
雅が黒頭巾から受けた氏平殺しの報酬は百五十両。
その十倍と言ったら…想像しただけで鼻の穴が膨らむ。
(暗殺人がカネで寝返るなど仁義にもとる…)
別の声も脳内に響く。
(もとより暗殺稼業は外道だ。払いのいいヤツに従ってこそ…)
心は揺れる。
(信頼が全てのこの稼業、一度裏切ったらそれを失う…いや待てよ、千両もあればこんな稼業を続ける必要なんてない…)
「うっ」
油断していた。カネに目が眩んだせいか、雅を取り囲むような邪気に気付かずにいた。
「囲まれたか?」
姿は見えない。
しかし確実に妖の気配があちこちに。陣屋を出たときから尾けられていたか。
「息が詰まりそうだ」
襲ってくる気配は無いが、明らかに監視している。
「これじゃあ身動きが取れない…なるほど、うかつに標的に近づこうものなら返り討ちに遭うというわけか」
南へ足を向けた。
「ひとまずこの連中を振り払わにゃ…町に行って身を紛れさせよう」
重苦しい妖気がベタつく湿気を伴って雅を追ってくる。
「この気配は…河童か」
水路や湿地帯の多いこの辺りは河童に都合がいい。
「厄介だな」
人の多い方、賑わいの声がする方へ向かった。
大きな柳の木が立つ角を右へ曲がると、市が立つ繁華街。
あれこれ品定めをする振りをしながら小さな路地へ入ったり出たり、人混みに融け込む。
「とにかく」
小走りに、小さな店構えのうどん屋の暖簾をくぐった。奥へ進み厠を借りると嘯き小窓から裏路地へ。
「振り切らねば」
茶屋に入ってしばらく身を隠し、そっと裏口から出てはまた小さな路地へ出るとそこは遊郭街。
「兄さんっ、どうです。昼間ならお安くしまっせ」
派手な身なりの客引きたちに囲まれ、喧騒の中に身を埋めた。
三味線、長唄、客寄せの太鼓と調子外れの呼び込み歌。
そこかしこで吠えては縄張りを主張する犬、同じように縄張り争いに吠えている渡世の男たち。
「やっと振り切ったか」
雅は廓に飛び込んだ。
「いらっしゃい兄さん。どんな娘がお好みかい? お品書きはこちらに…」
「何でもいい、とにかく暫く休ませてくれ。ほら、これで」
手持ちの小判をジャラっと手渡した。
「へ、へいっ。上客さま、お二階にご案内っ」
山吹色の輝きに目を輝かせた店番は自ら先導し、派手な色の廊下を通って奥の部屋へ。
「すぐ綺麗どころを準備しますのお待ちください。ここは一番上等な部屋、窓を開ければすぐ川の流れが…」
「ダメだ。部屋を換えろ。この部屋は好かん」
(川は河童の住処じゃねえか)
「あ、はい。では町の通りに面したお部屋で…こっちだとお代の方が若干お安くなっております、ただいまお釣りを…」
「要らん。とっておけ」
「ははっ」
こぼれそうな笑顔を押し殺すように、店番は階下へ。
「少しは休めそうだ」
身体を布団に横たえると、天井の柾目板が目に入った。
「随分上等だな、真っ直ぐな木の目。どこまでも真っ直ぐ」
ふうとため息が漏れる。
「曲がったところは弱い、か。道を曲げればそこが弱みになる…」
ウトウトしていたところ、ガラリと戸が開いた。
「兄さん、いい男だねえ」
朱の襦袢、肩も露わな若い女。
十六、七だろう、切れ長の目に通った鼻筋、その下には器用に紅を差した唇が潤んで微笑んでいる。
「一杯やるかい、それとも湯に?」
部屋の奥、薄桃色の襖をサッと開けると檜造りの湯桶が見えた。
「それとも、早速…」
甘い香を振り撒きながら女は身体を擦り付けてきた。
「おいおい…ちょっと待ってくれ。疲れてるんだ、休ませてくれ」
思わせぶりに指をしゃぶる女を前に、雅は布団の上で少したじろいだ。
「大した奉仕っぷりだな。足守の岡場所は」
「あんたが大金払ってくれたからね。ああ、あれだけ払ったら花の吉原だって人気の花魁が買えるっての。さあ、さあ」
追いかけるように顔を近づけてくる。
「待て待て。あんたは確かにいい女だが…実は身体を安めに来たんだ。気兼ねなくゆっくりしたくてな。流れ者の俺には布団で横になれる場所が恋しい」
「けれど、何にもせずに帰したら叱られるのはあたしなんだよ。さあ」
「店の連中には黙っててやるからお前も休め。こんな仕事してるといつか身体を壊しちまうぜ、どうせ夜になったらまた見知らぬ客相手に…」
女は急に口を尖らせ、眉を吊り上げた。
「ちょっと、何言ってるんだい。あのね…」
さすがに言い過ぎたか。
頭を掻きながら言葉の上塗りをしようとする雅。
「いや、商売に貴賎があるという意味じゃあない。俺だってその、仕事と言ったら…」
女はキッと雅を睨むようにして言った。
「そう言うことじゃないの。夜になってもあたしはあんたのモノ。あんたはね、あたしを一日ぶん買ったんだよ」
「へ?」
「それだけ小判を払ったんだから楽しまなきゃ損じゃないの、ね。あたしは奈那」
「奈那…可愛い名前じゃないか」
どうせ源氏名だと判っている。
でも、精一杯の笑顔と仕草で女らしく尽くそうとする姿を見ていると、それが本当の名前のように思えてきた。
「時間があるんなら…」
雅は立ち上がって脱衣し始めた。
「湯に浸かるのも久しぶりだ」
「紅葉を観ながら温まるといいよ」
じっと雅を見つめる奈那。
気付いた雅は少し頬を赤らめた。
「おい、そうジロジロ見るな」
「あ、ええ。その…あなたの胸、脇、背中…」
「な、なんだよ…」
奈那は食い入るように雅の全身を見た。
「腰、腿にも。すごい数の傷が」
「好きで付けた傷じゃない」
白濁した湯に傷を隠すように身を沈めた雅。
「見ての通り、俺はまっとうな商売をしてる男じゃない。奈那の方が、俺なんかよりずっと素晴らしい仕事をしてる」
「えっ?」
奈那は煙管の煙草に火を付け、胸の奥まで吸い込みハーッと煙を吐き出しながら呟いた。
「バカ言ってんじゃないよ。九つで売られて来て一度だって此処から出してもらえない…なにが素晴らしいっての」
雅は、首まで浸かった湯のぬくもりに「ふう」と息を漏らしながら奈那の顔をじっと見つめた。
やがて窓の外、賑わう街を眺めながら言った。
「少なくともお前さんは、人を喜ばせて笑顔にしてやる商売。俺はその逆、人を…」
言葉を呑んだ。
湯気が立ち込める中、湯を出た雅。
奈那から手渡された青藤色の浴衣をサッと羽織った。
「お前さん、いい笑顔してる。だが街は景気が悪いと訊いたが」
「そんな詰まらない話はおよしよ」
目配せをして煙管をもらう雅。
「どうせ明日までずっと一緒なんだろ。上っ面の話ばかりじゃネタも尽きるぜ」
「それもそうだね」
私にも吸わせてとばかりに身体を寄せる奈那。
「ひどいもんさ…あたしらもすっかり安売りさ。不作が原因って言われてるけど、違うね。青田買いだの米相場の釣り上げだの、睦言で散々訊かされたよ」
「訊きたくない話にゃ耳を塞ぐのが一番だが、お前さんの商売じゃそうはいかねえだろうからな。愚痴を聞くのも仕事のうち、ってか」
「愚痴だの噂話だの、バカみたい」
はだけた雅の浴衣の中に、しっとりとした肌触りの手を忍び込ませてきた。
「そんなのより…楽しいのが一番」
「いい女だな」
白粉と地肌の境目が判らないほど透き通る肌がゆったりとくねる。覆いかぶさりながら雅が呟いた。
奈那は長い睫毛をパチパチさせ、胸元に顔を埋める雅を下目遣いに見る。
「お世辞を真に受けるほど初心じゃないよ、あたしは」
「いや本心だ」
「こんな厚化粧したら誰だってそれなりの女に仕上がるっての」
ふと、真顔を近づけた雅。鼻と鼻が軽く触れあう。
「見てくれだけじゃない。心が、だ。境遇はどうあれ精一杯生きてる。関わりあう人を笑顔にしようと尽くしてる。形だけじゃなく本心からな」
微笑む口元を、唇で塞ぐ。
窓から吹き込む秋風が、檜の香りを伴った湯気を揺らめかせる中、互いの背中を掴む手に力がこもった。
「ふっ、調子のいいオトコだよ、あんたは…あっ」
奈那の頬が上気したのは、湯気のせいではない。
「あったかいなあ」
大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた雅。裸のまま大の字。
伸ばした腕には、長い髪を下ろした奈那。
「風邪ひくよ、布団も掛けずに…」
「寒いのかい?」
「いや。暖かいよ…こうしてくっついてると」
普段彼女が床を共にする男たちがどう振舞うかは知らない。こうやって肌を寄せ合って温めあうなど案外少ないのかもしれないな、などと思えた。
「だが、油断は良くない」
雅は立ち上がり、部屋の隅っこまで蹴飛ばされて丸まった掛け布団を手にした。
「これも、悪くない」
二人、すっぽり布団をかぶって光を閉ざす。鼻と鼻、唇と唇、触覚で互いの存在を確かめ合う。
「奈那…夢はあるかい?」
「えっ、夢?」
唐突な問いに驚いていることは、うっすら漏れ入る光が瞳にキラリと動いたことで判った。
「廓の女に夢なんか…」
「語るだけなら誰にも迷惑は掛けん。布団の中で顔もよく見えないし何を言ったって恥ずかしくはない」
クスクス、と奈那の笑い声。
「そうね。そりゃ誰かに身請けしてもらって…そうだねえ、小間物屋の女将なんかに収まったらいいな」
「小間物屋?」
「うん、小さい頃から簪やら飾り櫛やらが好きでね。それこそ女の子の夢が詰まってるのさ。ああいうのを売るってのは、夢を売る仕事」
「そいつあ素敵だ」
「で、夕方になったら店を閉めて、旦那にメシ作って子供と戯れて…あったかい布団で寝るんだよ、毎日ね」
唸る雅。
「ううん、そいつはいい。だが、お前さんを身請けするとなると大層なカネがいるんだろうな」
「まあ、ね…そりゃお江戸吉原の太夫のように何百両ってことはないだろうが…あたしの年頃なら相場百両から百五十…」
「百から、百五十」
雅は、今回の仕事が百五十両だったことを思い出していた。
ふう、と息を吐きながら布団から顔だけ出す。
「身請けしたって、まともな仕事に就いてるヤツじゃねえと…かえって不幸せにしちまうだろうな…」
「何?」
奈那も顔を出した。
「仕事がどうしたって?」
「いや、なんでもない」
顔を背ける雅。その首筋に残る傷跡を、奈那が優しく指先で撫でた。
「痛そう、ね…ところで、あんたの仕事って…」
「……」
「そうよね、うん」
明るい口調で話す奈那。
「そういうこと、訊きっこなしね」
雅は仰向けに戻り天井を見た。
「真っ直ぐ、道を変えない…道を曲げれば、そこが弱みになる」
「えっ?」
不思議そうに顔を覗き込む奈那。
雅は目を合わせるのを避けるように立ち上がった。やや忙しそうに着物を着ては帯を締め、刀を差す。
肌も露わのまま奈那は尋ねた。
「行っちゃうの?」
「ちょっと出かけてくるだけだ。約束があって、な」
「戻ってくる?」
「ああ、夜半には」
もうすぐ暮れ六つ。雅の足は賭場へと向かった。
「敵の守りは固い。まず博徒の連中から情報を集めて…今夜中に氏平を」
つづく