標的は国家老、氏平
足守藩に潜入した雅は藩邸・近水園を訪れた。
紅葉真っ盛りの庭園の中に建つ吟風閣で目撃したのは人外に監禁される藩主・利愛。
「黒頭巾が言ってた通りだ…」
近水園の南側には立派な造りの陣屋が隣接する。
「まるでお城だな、こりゃ」
堀に囲まれた海鼠壁が美しい。
「それにしても、やけに警護が厳しいな…さっきの藩邸とは大違いだ」
門番、辻番をはじめ、数多くの侍が行き来する中を見つからぬように身を屈め、陣屋をぐるりと一周。
「まるで隙が無え」
案の定、見回り番に呼び止められた。
「おい。そこの、そうお前。何をウロウロしてるんだ? お前みたいな風来坊が来る場所じゃねえぞ、ここは」
「あ、ああ…何やら道に迷ったようで」
頭を掻く雅。
(咄嗟に言っちまったが、さすがに見え透いたウソだったか)
だが、見回り番は疑うでもなく笑顔で近づいてきた。
「しょうがねえなあ、地の者じゃねえのか。ここにゃ賭場も廓も無えぞ、あはは」
雅の袖を引いて門まで案内する。
「岡場所なら川辺、南の方だ」
「ああ、そりゃどうも」
「若いのに遊んでばかりじゃ将来泣きを見るぞお前。ちゃんとした堅気の仕事に…」
親切にお説教まで。
「は、はい…」
ちょうどその時、南門が開いた。
「おいっ、邪魔だ」
体格の良い侍たちがやって来た。
「お前たち何をやってる。ん? 余所者なぞつまみ出せっ」
「あ、すみません…」
威嚇する侍たちを前に、肩をすくめてその場を去ろうとする雅。
「待て待て」
後ろに控えていた恰幅の良い男が侍たちを諌めた。
「そう大声で怒鳴りつけるでない」
桑の実色の長い羽織は見るからに上等な仕立て。その裾をハラリと揺らせながら柔和な表情で近寄ってきた。
「ウチの者はみんな気の短くてな…すまんな。ところで陣屋に用かい? 若いの」
「あ、ああ…」
…そうだ、中に入り込む好機だ。
「実は」
うかがうような目、小声の雅。
「あの…仕官の口を探してまして。とりあえず陣屋に来れば何とかなるんじゃないか、と」
男はニヤリと笑った。
「ほう。仕官、か。若いだけあって行動力があるな。丁度いい、人手が足りずに困っていたんだ、話を聞こうじゃないか」
ポン、と雅の肩を叩いた。
「心配は要らん。私は藩の国家老を仰せつかっている氏平善本だ」
(こいつが標的…)
雅は驚きを読み取られぬよう、愛想笑いをした。
「あ、ああ…ありがたい」
氏平は見定めるように顔を近づけてきた。一見優しそうだが、瞳の奥底には冷たいものが横たわっているように感じられる。
「名は?」
「雅、当年とって二十三。諸々ありまして今は浪々の身…」
ジロリと睨む氏平。
「諸々あった、か」
「あ、はい…」
「まあ、人生ってのは色々ある」
氏平の口元が緩んだ。
「あはは、そうさ。人に言えないこと、言いたくないことだってある。そこはお互い様ってもんだ」
見透かしたような目は決して笑ってはいなかったが。
「立ち話もなんだ、さあ中へ」
まるで城のような立派な構えの陣屋、その中へ。
「汚いところですまんな」
確かに華美ではない。
しかし柱や襖、障子紙に至るまで素材や造りに一部の隙も無い。
「さあ。掛けて」
隙がないのは建物だけではない。
「……」
まるで一挙手一投足をじっくり観察されているような、そんな気がする。
「足を崩していただいても構いませんぞ。遠慮は無用」
障子の向こうや天井、畳の下からもじっと見られているような、張り詰めた何か。
「雅さん。ときに貴殿は此処へ来る前はどちらに?」
「あ、あ…東国に」
部下に茶を出すように指示しながら微笑む氏平。
「なるほど男前なわけだ。東男に京女とはよくいったものだ。で、東国といっても色々だが…」
慌てて答える雅。
「えっと、浜松…ええ。浜松にしばらく」
もちろん咄嗟の出鱈目。
氏平はじっと雅の目を見る。
「ほう…」
少し間を置いて、にこやかに頷いた。
「浜松、か。ああ、いいところだ。水野忠邦さまのお膝下だな。彼とは親しくさせてもらってる」
「水野…」
「ん? 忠邦どのと何かご縁でも?」
「いえ…」
水野忠邦は、数か月前、高野長英の一件の黒幕。
(あいつも妖を操っていたな…)
様々な思いが頭の中を駆け巡る雅の顔をニヤニヤしながら眺める氏平。
「浜松はいい、からっ風は多少キツイが温暖で。なにより食い物が美味い」
愛想笑いの雅。
「ああ、ええ。そうですね…」
「浜松にいたなら判るよな」
氏平はぐいと身を乗り出してきた。
「蜜柑もいいが、浜納豆が美味い。肴にゃあれが一番。なあ、雅も好きだろ。浜納豆」
「あ、ああ。あれ、ね」
浜納豆…知るわけもない。
真の素性を言うわけにもいかず、ふと思いついた「浜松」の地名を挙げただけだったのだから。
「ハマナットウ、ね…」
ここは話を合わせるより他にない。
「あれは美味い。地酒の『高砂』とよく合う」
(酒なら知ってるぞ。あの辺の宿場で一回飲んだことがある)
「ん?」
氏平は首を傾げた。
「高砂は富士宮の酒だ。浜松といったら『花の舞』だが」
冷や汗を隠すように頭を掻く雅。
「あ、ああ。勘違いだ。こりゃ失礼」
じっと見つめる氏平の目線をかわす。
「浜松の前にちょっと富士宮に住んでたもんで…いやあ、参った。そうそう花の舞。これによく合うんだ浜納豆。あの糸を引く感じが…」
ニヤニヤしながら、しばし無言の氏平。
「浜納豆は、粘らんのだが…」
「あ。ああ…」
静まり返った陣屋。
ザワザワと秋風にそよぐ葉の音がやけに大きく感じる。
氏平だけでない、両隣に付き添っている侍からも厳しい視線が感じられる。
「ふう」
ため息をついた氏平。
そして再び、仏のような笑顔に戻った。
「ま、浜納豆にも色々あるのだろうな。俺は黒芽と麹で造る浜納豆しか知らん…いやはや、わしの方が無知を晒したかな」
「あ、いや、いえ」
(なんとか誤魔化せるかも知れない)
「まあ、名物なんてヤツはありきたりのモノしか旅の方にゃ売りませんからねえ」
「確かに、そりゃ言えてる。貴殿のように浜松に住んでなきゃ判らんことも多いでしょうな、ははは」
雅は胸を撫で下ろした。
「そうだ、雅さん」
氏平が微笑んだ。
「ここにもあるんだ、いい地酒。用意させるから暫し待ってくれ…ところで仕官の話だが」
少し、神妙な面持ち。
「石高を上げようと手を尽くしているんだが、民は納得しようとしない。知ってると思うが転封以来の困窮に加えてここ数年は不作。民は不満から反抗的な態度が目立つようになった…」
小声で言う。
「この俺を亡き者にしよう、などと良からぬ事を考える輩もいるらしいのだ」
雅は顔を強張らせた。
「ま、まさか。そんな大それた…」
「本当だ。実際に刺客に襲われたこともある。ゆえに…お前さんが腕が立つ男なら、用心棒として仕官を叶えてやってもいい」
(刺客って…黒頭巾が送り込んで返り討ちに遭ったっていってた話か…)
氏平から感じられる強い警戒心は、彼の臆病さの表れか。
あるいは黒頭巾の事を知っているのか。
妖に守られていると云うのは果たして本当なのか。
「なあ、雅」
氏平の目はじっと冷たい。
「お前さんが、俺を殺りにきた刺客…」
目を合わせぬまま、雅は右手をスッと下げた。いつでも刀の柄に指が届く。
その時ガラリととが開いた。
「ぬっ」
雅は息を呑んだ。
「さあ」
どやどやと入ってきたのは女中たち。
「お待たせしました。ええ、ゆっくりと楽しんでくださいませえ」
煌びやかな袖を振り回しながら、抱えた盆には熱燗が二本。
「待ちくたびれたぞ」
何も無かったような笑顔の氏平。
「冗談はさておき、さあ飲もうじゃないか。備中『鬼ノ城』は銘酒。はは、それにしてもオニなんて物騒な名前だな」
立ち上がって盆を受け取った。
「ああ」
氏平の手が滑り、熱燗の徳利がポーンと飛び上がった。
「あっ」
ちょうど雅の顔にぶつかりそうに。
「んっ」
反射的に抜かれた刀は、目の前に迫った徳利を真っ二つに切り裂いた。
玉の雫となった酒が飛び散る。
静まり返った中、ニヤリと笑う氏平。
「凄腕だな、雅。それに、いい刀だ。ちょいと見せてくれ」
「は、はあ…」
行きがかり上止むを得ない。青い光を放つ刀を手渡した。
氏平が唸ってみせる。
「これは逸品。妖をも斬れそうな…」
なんだろう、このゾクっとするような感覚。
平静を装ってはいた雅だったが、腰の据わらないような居心地の悪さを感じていた。
「ん、暑いのか? 雅」
気付くとびっしょり汗をかいていた。額の傷からスッと垂れ落ち鼻筋を通って口元へ、玉の汗の塩辛さが唇に浸みる。
「いえ、先の熱燗の雫です」
「ほう、そうか。だが暑いのも確かだ、窓を開けよう」
氏平が目配せで障子戸が開け放たれた。
「せっかくの景色も楽しまねば」
柾目も端正な縁側の向こう、萌えるような紅葉が煌めく中庭が目に飛び込んできた。
スーッと風が吹き込んで雅の周りに渦を巻いた。
「うっ…」
秋風の冷たさだけではない。得体の知れないものがまとわりつくような冷気。
「いい庭だろう。日々の辛さもこれを見れば吹き飛ぶってもんだ」
風流を気取る氏平。
紅葉の向こうに蔵が並び立っている。
「あれは…」
訊ねる雅を振り返り、凍り付くような目で見る氏平。
「貧乏な田舎大名ゆえ、密かに蓄財せにゃならんのだ。幕府に知れたら搾取を受けるからな」
氏平が経済を牛耳っているのは本当のようだ。
「これからは力とは剣のことじゃない、財だよ。もし刺客が来たとしたら、その十倍の報酬で買い取ってやろう」
「……」
(見透かされているのか?)
胸にピッタリと冷たいものを当てられたような気分。
「そうだ、仕官の話だが…」
冷たい目で笑う氏平。
「俺に仕えるのか否か。明日までにハラを決めろ。ははは」
つづく