暗殺帳之参、利根河畔にて
「あんたの仕事ぶり、知ってますよ…たいした腕だ」
弘化元年の江戸・小伝馬町牢屋敷の火事。その現場に暗殺人・雅がいたことを、黒頭巾は知っていた。
猛火の中、天狗団を切って蘭学者・高野長英を救出したことを…。
「そうそう。その一年前にゃ下総にいましたな、雅さん」
■ ■ ■ ■
天保十五年、文月六日。
―下総・笹川―
闇に閉ざされていた萌葱色の大地が東の地平線から白んできた。
海鳥がくるりと空に輪を描いた。
「ハシボソ、か。見つけたんだな…獲物を」
ゆったりと流れる利根川の河口はすぐそこ。
湿気と塩分をたっぷり含んだ海風が強く頬を撫でる。
「俺も、だ」
川面の波が変わった。
「来た」
夏草に身を紛らわすように三艘の高瀬舟。
「一艘につき二十名…大人数だな」
小舟に乗り込んだ雅は静かに棹を差した。
松明が夜明けの川面を照らす。
「おい、こら何だてめえ」
高瀬舟の前を横切ろうとする雅に向かって三度笠のギラついた男たちが声を上げた。襷掛け、腰には長い白鞘。
いかにも、といった出で立ちの侠客たち。
「邪魔だ、コラ」
「まさかてめえ、繁蔵の手下か?」
「ああ」
目を合わせぬまま雅は答えた。
「繁蔵さんに雇われた」
「はあ?」
侠客たちは辺りを見回した。他に誰もいない。
「こいつ、トチ狂ってやがる。独りで何が出来る?」
大声で笑い出した。
「がはは、酔狂もいい加減にせいや兄ちゃん。邪魔だ、どけ」
「面白れえ野郎だが、朝っぱらから川遊びしてると風邪ひくぞ」
「そうだな…」
雅は小舟に積み込んであった樽を持ち上げた。
「朝は冷える」
舳先を突き合わせた一艘に投げ入れた。
「何しやがるっ」
割れた樽から黒く粘る液体がぶちまけられた。
「灯し油ッ!」
「いかにも」
雅が松明をかざすと、驚く侠客たちの顔が照らし出された。
「風邪を引いちゃたまらんだろ?」
松明は灯し油まみれの高瀬舟に投げ入れられた。
「さあ、十分温まれ」
あっという間に舟は炎に包まれた。
「ぎゃあああっ」
朝の澄んだ空気を、折り重なる悲鳴が切り裂いた。
「クズとは言え、お前らも人間…苦しませるのは本意に非ず」
雅はもうひとつの樽―炸薬がたっぷり詰め込まれた―を投げ込んだ。
「成仏してくれ」
「ひっ…」
船も侠客たちも、跡形もなく吹き飛んだ。
「さて二艘目…」
表情を変えぬまま、雅は二艘目の高瀬舟に飛び乗った。
「お前らに恨みは無いが…すまん。これが俺の仕事なんだ」
キラリ、キラリ。何度か朝日が銀色の刃に弾かれて光った。
「あうっ…」
「ぐ…」
沈黙した舟。噴き出る血飛沫の音だけが聞こえていた。
「さて、もう一艘は…」
惨事を目の前に、逃げ出そうとする高瀬舟。
「早く、早くっ。化け物だあいつ」
雅は急いで舟を漕ぎ寄せた。
「請けた仕事、仕損じるわけにゃいかん」
掲げた剣が青白く光る。
「ふんっ」
袈裟に振り下ろされた切っ先は、恐怖におののく侠客たちを乗せた高瀬舟の船尾をすっぱりと切り落とした。
「あわ、あわわっ」
勢いよく利根川の水を呑み込んで舟はひっくり返った。投げ出された侠客たちは船体にしがみつこうと手足をバタバタ血相を変えている。
「助けて、助けてえ」
もがきながら群がる三度笠の群れは、まるでクラゲのよう。
「そんな悲しい目をするなよ」
船縁にすがろうとする腕を、雅は一本一本切り落としていった。
「あばっ、ぶ、ぶぐ…」
触手を失ったクラゲたちは川底へ沈んでいった。
「ふう…」
岸に上がった雅は吐き出すように一つ、ため息をついた。
「人を殺めるのが生業。お互い様だ、許せ」
真っ赤に染まった川面を、物言わぬ侠客たちを乗せた高瀬舟がくるくると漂っていた。
「さて…」
見渡す限りに広がる水田に映った朝陽の照りに、少しばかり目をしかめた。
「もうひと仕事」
南から急ぎ足に近づいてくる勇ましげな男たち、おおよそ三十名。彼らもまた侠客であろうことは、揃いの三度笠と縞羽織が示していた。
待ち構えるように立ち尽くす雅、おくれ毛が風に揺れている。
向こうも気付いたようだ。
「コラ、邪魔だ兄ちゃん」
見下すように。
「怪我したくねえんなら、どいてな」
袖をたくし上げ、刺青をチラチラと見せびらかす。
「いいか、俺たちゃこれから出入りなんだぜ」
雅は伏し目がちに舌打ちした。
「安いチンピラめ」
「あん? 何言ってんだこのガキ」
男たちは顔を見合わせて噴き出した。
「あはは、聞いたか?」
「威勢のいい坊ちゃんだねえ」
「カッコつけたいんなら、帰ってから母ちゃんの前でやりな」
雅はペッと唾を吐き捨て、嘲笑に背を向けた。
「いい歳こいて強がるなんざ…恥ずかしくって見てらんねえ」
侠客たちは不機嫌そうに近寄ってきた。
「調子になるんじゃねえ」
「痛い目に遭いてえか」
「俺たちが誰か判ってんのか、あ?」
雅は頷いた。
「ああ。判ってる」
ぐっと腰を屈めると同時に、抜刀。
「えっ」
振り向きざまに侠客の胴体を真っ二つ。一人目。
「ぐがあっ」
そのまま刀身を右へ流して二人目、さらに三人目。
動きを止めない雅。暁に躍る長い影。
「お前らは」
流れるように剣先が舞い、呆気に取られる侠客たちの内臓を次々にえぐり斬った。
「飯岡助五郎って凶状持ちの子分。だろ?」
真っ赤なシャワーの向こう、侠客たちは青い顔で逃げ出し始めていた。
「一皮剥けば腰抜けの集まりか」
裾を泥に塗れさせて逃げ惑う三度笠。
すぐに追いついた雅は次から次へ、問答無用。
「闇雲な殺生は好まんが…仕事だ。すまん」
雅の刀が陽光をギラリと映す度、赤い飛沫の尾を引いた首が跳ね落ちる。
「他愛も無い」
静寂が戻った大利根河原は赤一面。
朝を告げる鳥のさえずりは、なぜだか笑っているようにも聞こえた。
「可笑しいか? ああ、可笑しいだろうな」
横たわる首無し侠客から真新しい手拭いを奪った雅。
「だが俺はこうして生きるより他に無い」
顔に付着した返り血と刀身の血脂を拭い取り、襟元を正して北へ向かって歩き出した。
「さあ、後金を受け取りに行くとするか」
風が強くなってきた。
真夏の匂い、そこはかとない寂寥感。
「誰か、来る」
二本差、いかにも浪人といった風体の男が北から。
ボサボサに伸びた月代、白の着流し、肩で風を切って真っ直ぐ近づいてくる。
目が合った。
「……」
互いに目線を外さない。険しい顔の皺一本一本が見えるほどの距離に立つ。
「ん?」
浪人は唸った。河原に折り重なる屍を見渡して。
「こいつら、飯岡の子分の骸か?」
そうだと頷く雅をジロリと睨み、瓶子から口へ酒を流し込んだ。
「なんだ、全員オダブツか…俺の獲物」
雅は尋ねた。
「獲物? あんたも笹川に雇われた刺客か?」
「雇われちゃいねえ。俺は笹川一家の客分だ。出入りにゃ助太刀するのが忠義ってもんだ」
「…渡世の事はよく知らんが」
頭を掻く雅。
「とにかく飯岡一家は全滅だ。ちょと遅かったな、あんた。出番はもう無え」
「チッ」
苦虫を噛み潰したような顔で浪人は雅を睨んだ。
「殺ったのはてめえか」
答えは目を伏せながら。
「ああ、仕事だからな」
雅はそのまま背を向けた。
「大利根河原の大立ち回り…これにて終幕、だ」
「待て若造」
浪人は雅の肩を掴み、ぐっと顔を近づけた。
安酒の匂いが鼻を衝く。
「俺にも立場ってもんがある。このまま帰ったんじゃ男が立たねえ」
「……」
面倒くさそうに雅は手を振り払った。
「あんた、命拾いしたんだぜ。飯岡の子分は総勢百人以上、痩せ浪人独りじゃ返り討ちが関の山」
吐き捨てながら再び背を向けた。
「この一件、あんたの手柄にすりゃいいじゃねえか。俺はカネさえ貰えば文句は無え。ああ、口外しねえと誓うよ」
カチャリ。
鈍い、イヤな響きが背後に聞こえた。
「あんた…」
ゆっくり振り返る。
鯉口を外切りに刀身を抜いた浪人が、窪んだ眼窩の奥に血走った目をギラギラさせていた。
「勝負せい」
ブレの無い動きでピタリと構えた正眼。
「俺は北辰一刀流、免許皆伝の…」
雅は言葉を遮った。
「カネにならねえ勝負なんかイヤだね。第一あんた、病んでるだろ」
浪人はゴクリと唾を飲み込んだ。荒い息、ヒューヒューと喉の奥で笛が鳴っているかのよう。
「……」
「労咳だろ。さっさと帰って養生しな」
「解ってねえな、若造」
無精ひげが覆う痩せこけた頬を震わせながら、浪人は雅の顔めがけて唾を吐き掛けた。
真っ赤に染まった唾を。
「男の一生は銭金じゃねえ、誇りだ」
血痰と共に、言葉を吐いた。
「若造に仕事を奪われてノコノコを帰ったんじゃあ後世まで笑い種」
むせるように咳き込みながら。
「さあ、抜け」
「無益な…」
雅はしばらく俯き、大きな息を吸ったり吐いたり。
やがてゆっくりと顔を上げた。
「手合わせ頼もう」
草履を脱ぎ捨てながら両者にじり寄る。
「備中は赤虎塾、無双瑞典流。雅」
「千葉道場、北辰一刀流。平田深喜」
先に飛び出したのは雅だった。
「ほう」
スッと足を引いてたおやかに剣を払い下ろす平田。
ならば、と返す刀で突く雅をやんわり避け、真上から斬り下ろした。
「うっ」
雅の顔前二寸、剣の激突に赤い火花が散る。
「速いっ」
速いだけではない。平田の剣は当たりが強い。
痩せこけた姿、柔らかな剣さばきからは想像のつかない重量感。
ぐいぐい押し込まれる。
「うああっ」
頭をすくめ転がって難を逃れた。
「強いな」
立ち上がって下段の構え。対峙する平田は千鳥足。一見隙だらけ。
「いいや、お前が弱いのさ」
「ふんっ」
再び仕掛ける雅。しかし電光石火の切り返しに翻弄される。
平田は笑う。
「若造、『速さ』の意味を取り違えてるようだな」
次々に切っ先が飛んでくる。右から左から自由自在。
「俺は…あんたの手の内にあるのか」
全てが読まれている。雅の額に汗が滲んだ。
捉えどころがあるようで捉えきれない平田の剣から、ひたすら逃げ惑う。
「あっ」
目に汗が滲みた、ぼやけた視界の向こうで平田が目を剥いている。
ブウン、と唸る剣の音。
首を掻き切らんと迫ってくる…速い。
「しまった」
一瞬の空白。
「あっ」
平田は突っ立ったまま、口から大量の血を吐き出し動きを止めていた。
「今だっ」
雅の身体がひとりでに動いた。
時間が止まったかのように、宙を舞う喀血一滴一滴の輪郭さえはっきりと見えていた。
むしろ、身体中の力は抜けている。
全てが静止した世界の中、雅の剣が駆け抜ける。
「これが、速さ」
鈍く、重い感触。
剣先は平田の胸の奥まで切り裂いた。
「ぶあああっ」
真っ赤に染まった白い着物、蒼白な顔の平田。
「はは、あはは」
鼻や耳、目からも地を噴き出しながら酒瓶をまさぐり、臭い酒を口の中に流し込む。
「いい気分だ…」
バッタリと、前のめりに倒れ、平田は息絶えた。
血の滝に埋もれながら、満足な笑みを湛えたままに。
「平田深喜…あんた本物の剣士だな」
肩で息する雅は、しばらくその亡骸を見つめていた。
「大事なことを教わったよ」
鉢巻をした大勢の捕り方と入れ替わりにその場を立ち去った。
■ ■ ■ ■
「あの一件、報酬は一体幾らだったんですかい?」
黒頭巾の奥で目がニヤニヤ笑う。
「……」
「口外法度ですな…しかしあんたは凄腕だ。百人は斬りなすったかな。しかもトウシロじゃねえ、喧嘩上等の侠客たちを…」
「いや」
饒舌な黒頭巾に背を向け、遠くをみながらゆっくり息を吐く。
「…上には上がいた」
しばしの沈黙を置き、手揉みしながら黒頭巾が言った。
「さて、本題に入りましょうか」
つづく