魔剣の島
自らを「幻怪の生き残り」と称する幻之介の弟子となった雅也に課せられた修行は、想像を絶する過酷なものであった。
「老いゆくわしに代わって、やがてお前が現世の妖怪たちを退治する日が来る」
妖に取り憑かれ人々を惨殺したかつての師、田島鬼刀斎を倒すため、死と隣り合わせの修行の数々。それは確実に雅也を戦士として成長させていった。
窓さえ無い閉ざされた部屋。隙間から漏れ入る微かな真夏の陽が薄い影を作っていた。
遠くから聞こえる川のせせらぎに甲高いカワセミの声が混じる。
「……」
静謐とはこういうことか。
目隠しの雅也は背筋を伸ばしてじっと座している。
一定のリズム、乱れぬ呼吸.。鼓動すら音を消しているようだ。
もう半刻が経つ。
「……」
やがて天井の雨染みに垂れ下がる水滴がスウッと伸び、小さな玉となってこぼれた。
糸を引くように真っ直ぐ下へ。
「!」
雅也が動いた。
木刀に手が触れた瞬間、眼前に落ちてきた水滴に寸分違わず切っ先を合わせ弾き飛ばしてた。
間を置かず、背後から迫る空気の歪みに耳を欹てた雅也。
「!?」
わずかに屈みながら身を翻した。
突き出した木刀の柄に鈍い衝撃。クルっと舞い上がったのは暗闇から放たれた短刀だった。
「ぬんッ」
片手を伸ばした雅也は短刀を掴み、飛んできた方向に向かって投げ返した。
「ほう」
パシンっ、という音。
目隠しを外すと、薄っすら漏れ入る陽の中に幻之介が立っていた。
その指先に短刀の刃を挟みながら。
「随分デキるようになったな、若造」
「ふうっ」
雅也は額に滲んだ汗を拭き取りながらため息。
「じいさんの不意討ちにゃだいぶ馴れたぜ…毎日厳しい修行してるんだからな、多少デキるようになってなきゃやってらんねえ」
幻之介は頷き、にっこりと笑った。
「ふむふむ。そろそろ新しい道具が必要なようじゃな」
「チッ…また俺を痛めつける道具か」
「はは、それもいいな…だが違う。木刀の修行はもう十分。ホンモノの剣を…」
「剣っ! やっと真剣が持てるのかッ」
一瞬輝いた雅也の目だったが、すぐに萎んだ。
「あ…でも俺の刀は田島に折られて」
「だろうな」
ニヤニヤ笑う幻之介。
「どんな剣も妖怪の力が相手では歯が立たん。ゆえにお前は、妖を斬る剣を持たねばならん」
目を丸めた雅也。
「妖を斬る…? そんな剣が」
「ああ、そんな剣を作れる男が一人だけいる。そいつの処に出向き、お前にふさわしい刀を手に入れるがよい」
■ ■ ■ ■
備前・日生。
幻之介に言われたように、ここの小さな漁港を発って小舟で瀬戸内を揺れること約一刻。
「あれ、か…」
小山のように海から突き出す幾つもの島の一つを雅也は指差した。
「間違いねえ、鴻島だ」
入り組んだ沿岸に人影がうろついている。流刑地でもあるこの島の南側には公儀の詰所が見えている。
「とっ捕まったら面倒なことになりそうだな…」
地元の漁師を装った雅也はゆっくりと島を回り込んで西側の岸に辿り着いた。
「うむ、こっち側にゃまるっきり人の気配が無え」
波の打ち寄せる音、ヒュウと頬を打つ海風。浜辺ではコアジサシが小魚を啄ばんでいた。
「妙にのんびりしてやがる」
切り立った岸壁を上り、幻之介から手渡されていた地図を開いた時だった。
「なにっ」
大きな音に振り返ると、乗ってきた小舟が高波に呑み込まれるのが見えた。
「まさか」
岩場に二度、三度ぶつかってバリバリと割れた小舟は引き潮に吸い込まれて沖へ。
「参ったな…帰れねえじゃねえか」
しばし呆然と立ち尽くしていたが、徐に歩き始めた。
「ま、起きちまったことはしょうがねえ。帰りは例の鍛冶屋に舟を借りるしかねえな」
島の林に分け入り、何箇所もの分岐を地図に従って進むと狭い道を通ってわずかに開けた海岸に出た。
「ああ、あれか」
海に面して小さな洞窟がある。
「…にしても、陰気なトコだな」
一日を通して殆ど陽が当たらず苔生した岩盤の上を、真夏だというのにひんやりした空気が渦巻いている。
「うわ、あわわ」
密生したフジツボの上を歩き回るフナムシを、急降下してきた海鳥が咥えて飛び立っていった。
「ホントに鍛冶屋はここに住んでるのか? もしそうならそいつはイカれた野郎に違いねえ」
洞窟のさらに奥を覗くと、何かがキラリと光って見えた。
「む、行灯か…いや、あれは」
二つ、三つ、いやもっと多い。
「目だ」
雅也を見つめる、いや睨む目がどんどん近づいてきた。洞窟の壁にこだまする野太い唸り声を伴って。
「犬ッ、犬だ」
黒い群れが雅也に殺到した。腰を下ろして身構え木刀に手を伸ばした。
「来いよ野良犬め。頭カチ割ってやる」
距離をはかりながら対峙して睨み合う両者。波が岩を打つ一定のリズムだけが洞窟内に響いている。
蠢いていたフナムシの群れは、尋常でない緊張感を察知したのか、気付けば岩場の影に隠れていた。
「ガウウ…」
威勢のいい威嚇の声。
「ウ、グウウ」
一匹、二匹と目を逸らして後ずさり。ピンと張っていた尾は緩んで尻に巻きつくようだ。
「クウウン…」
やがて彼らはか細い声を残して洞窟の中へ逃げ込んでいった。
「ちっ。最近じゃワン公も根性無しが増えたってか。嘆かわしいもんだね」
気を取り直して雅也は洞窟をさらに奥へ。
「こりゃまさに隠れ家だな」
身体を捩って狭い穴を抜けると、広間のような洞穴に出た。天井部分にぽっかり穴が開き、夏の眩しい陽光が差し込んでいる。
「着いた、か」
泉の前に座り込む人影が見えた。
「あの男が…」
その後ろ姿からは湯気が沸き立っている。
「熱気、すごい熱気だ」
炭で黒ずんだ鋼のような筋肉をまとったその男は、手にした灼熱の金属塊をじっと眺めている。
そして振り返らぬままに低い声。
「男、何しに来た?」
乾いた掠れ声が洞窟に響いた。
「あ、あの…刀が。刀が欲しくて」
滲み出る存在感に押されてか、声を震わせた雅也。
ゆっくりと振り返った男がジロリと睨みつけた。
「あ? 町の刀剣商にでも行け。坊主」
「いえ、どうしてもあなたの打った刀が欲し…」
男はサッと背を向け、ぶっきらぼうに答えた。
「ガキの使う刀はここにゃ無え。だいいち、俺の刀は安くても一振り五十両だ。カネは持ってるのか?」
「い、いえ。お、お金は持ってないです…ただ、ここに来るように言われて」
「誰だ。誰がそんなことを」
どんどん強くなる男の語気。
気後れしそうになりながらも、雅也は呟いた。
「幻之介、という…」
「ほう」
背を向けたままの男は、真っ赤に熱せられた金属の棒を泉の水にジュッと浸した。
水蒸気がモクモクと立ち込め、あっという間に洞穴内は真っ白に。
海風が白煙を吹き流したとき、男は雅也の前に立っていた。
「あの男が、お前をよこしたのか」
精悍な顔、無精髭には少し白いものが混じっているが上半身は筋肉の鎧に覆われたよう。赤黒く日焼けした肌のあちこちには火傷の跡が見える。
雅也は頷いた。
「はい。あなたが…」
「俺が敷衍だ。鴻島の刀鍛冶。はぐれ鍛冶屋の敷衍だ」
雅也は改めて深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります。俺は雅也…『マサ』と呼ばれてます。あなたも幻之介師匠をご存知で?」
「知ってる、なんてもんじゃねえ」
敷衍は語った。
隆盛を極めた刀鍛冶の備前長船一派の一人だった彼は、そのあまりに独創的かつ急進的な考え方で主流派と対立し破門を言い渡されたと云う。
それでも挫けることなく「最高の刀」を追い求めた彼は諸国を漫遊し、大陸に渡航するに至った。
遠い異国で究極の秘伝を得た彼だったが、その漏洩を恐れた暗殺団に命を狙われたところを救出したのが幻之介だったと云うのだ。
「幻さんは俺の命の恩人」
そう語りながらも敷衍は雅也の申し出に首を縦には振らなかった。
「だが、俺の剣はガキに売るもんじゃねえ。悪いが帰ってくれ」
雅也も食い下がった。
「いえ、帰りません。いや帰れません…舟が壊れてしまったんです」
敷衍は舌打ちした。
「ちっ、舟の扱いも知らずにまあよくも…だが仕方あるまい。そろそろ潮目も変わる頃合だからどのみち今日は動けん」
呆れたような目が雅也を見下ろしていた。
「明日送っていってやる。今日はここに泊まらせてやる」
「はい…」
やがて敷衍は、砥いだ小刀に縄を括り付けた道具を持ち洞窟の抜け穴から海岸へ。
「さあ、晩飯を獲る」
正確に飛ぶ小刀はまるで魚たちの動きを先読みしているようだ。足元の桶はすぐに収穫物でいっぱいに。
雅也もやってみようと小刀に手を伸ばしたところ、敷衍にピシャリと叩かれた。
「ガキに出来る技じゃねえんだ。調子に乗るな、お前は…ほら、これ持って山行け。山菜でも取ってこい」
綺麗に編みこまれた籠を手渡された。
「は、はあい…」
「気の無え返事なんかするんじゃねえ。いいか、毒キノコなんか拾ってきやがったら承知しねえからな」
しぶしぶ山に入る雅也。重い足取り。
「くっそ。あのオッサン、俺をガキ扱いしやがって」
すっかり日も落ちかけた。
洞窟の中では敷衍が煙管の先から盛んに紫煙を吐き出していた。
「遅え」
明らかに苛立っている。
「遅えんだ、あのガキ。チンタラしやがって今どきの若いヤツときたら…」
「あの…」
声がしたのは海の方角。
「あん?」
振り返った敷衍は思わず目を丸めた。
「な、なんだっ」
「遅くなってすみません、ただいま帰りました…」
接岸した立派な御座船の舳先に雅也がすっくと立っている。
「ちょっと寄り道をしてまして」
「い、一体何をしでかしたんだこのガキ」
「山の向こうに公儀の詰所があって、良さげな船があったんで失敬して…そうそう、蔵もあったから中に積み込んであった白米や食材も持ってきましたよ」
敷衍はあんぐりと口を開けた。
「やるじゃねえか、マサ」
「今日はしかし、大したご馳走だ」
二人は洞窟わきの窪地に火を焚き、夕食にありついた。
「しかし美味いコメだ、近年凶作と訊いてたが…あるところにゃあるもんだな」
「おおっ。敷衍さん見て下さいよコレ。鯛ですよ鯛ッ。旬は過ぎてるかも知れねえが…俺にゃそんな違いも判らんほど美味いッス」
「みろマサ。蝦蛄、こっちは渡り蟹。思い出すな…大陸のな、上海ってとこでコレに似たのを食ったんだ」
「しゃ…しゃんはい?」
「ああ。清国の、な。英吉利から来た阿片商人だらけの町だった」
ふと、二人の顔が曇った。
「気付きました?」
「ああ。お前もか」
周囲にただならぬ殺気。
「こいつら、何者だ」
焚き火を取り囲む無数の血走った眼。月明かりが薄っすらと鋭い牙を照らし出している。
腹に響くような威嚇の唸り声は徐々に方位の半径を縮めている。
「野犬だ…さっきも俺を襲おうとしたんです野犬が」
敷衍が首を振る。
「いや、あれは俺の番犬だ。こいつらが寄ってこないようにと飼ってたんだが…今晩はどうしちまったんだろう」
「あ…」
「いいかマサ。こいつらはヤバイ、野生のサルだ。島のサルはやたら凶暴でしかもデカイ。中にゃ五尺になるヤツもいる」
確かに、焚き火が照らし出すサルたちの影は見上げるほどに大きくなっていた。
「下手すりゃ俺たちも食われる、ここは三十六計…ん? おいマサ、止めろっ。危ないから…」
すでに木刀を携えた雅也は巨大なサルたちの群れのなかに飛び込んでいた。
「あ、ああ。あいつ…」
敷衍はゴクリと唾を飲み込んだ。
「や、やべえ」
暗闇の中、揺れる焚き火が時折状況を映しだす。
草むらに紛れる雅也、足音も立てずに木陰から木陰へ。夜目が利くはずの野サルたちでさえ見失う速さ。
飛び出した木刀が唸るたびに暗闇を一筋の光が切り裂き、次から次へとサルの巨体が力を失って倒れてゆく。
その光景を目前に唖然とする敷衍。
「一体何者なんだ、あのガキ」
反撃の機会など微塵も与えず、獣以上に獣の目をした雅也は全身からフンワリ灰色の煙を噴き上げていた。
一滴の汗も見せないまま、サルたちを一掃。
何事も無かったように再び鯛にかぶりつく雅也の顔を覗き込んだ敷衍。
「お、お前。一体誰に誰に剣を習ったんだ」
「幻之介師匠です。あ、その前は赤虎塾で…」
敷衍は眉をひそめた。
「赤虎…あの暗殺剣か。鬼も逃げ出す強さの剣と歌われた田島鬼刀斎の。どうりで強いはずだお前さん…だが塾長が乱心したと訊いたが」
「ええ、その通りです。俺は、その鬼刀斎の息子として育てられ…」
雅也は告げた。
田島が乱心の末に弟子をはじめ女子供、果ては市井の人々まで惨殺し始めていること。それが妖怪の憑依によるものであること。
「そんな恐ろしいことが…」
「ええ。故に剣が必要なのです。妖を斬ることが出来る剣が」
「…」
敷衍は険しい顔のまま頷いた。
潮気を含んだ夜風に頬を当てながら、二人はいつしか眠りに就いていた。
「まぶしいなあ…」
岩の隙間から、橙色の朝陽が岩の隙間から雅也の閉じた瞼を照らしている。
朝。
「ああ、すっかり眠っちまった」
ゆっくり上体を起こしながら雅也は目をこする。
「あ、おはようございます…うッ、ううっ。そ、それは」
目の前には敷衍が立っていた。一本のギラリと光る抜き身を掲げながら。
「お前の言っていた剣。妖を斬る剣、すなわち『崇虎刀』がコレだ」
暁の光を浴びてその刀身の周囲は陽炎のように歪んで見えた。吸い込まれるような引力を感じずにいられない。
「す、すげえ…」
敷衍がゆっくり刀を振ると、青白い残像の中に微粒子の火花がバチバチと飛び交う。
すっかり目の冴えた雅也が食い入るように刀を覗き込む。
「こ、これが…」
「そうだ」
敷衍が語る。
「古代天竺で恐れられた究極暗殺組織『崇虎団』の切り札、神をも斬る伝説の剣。古文書を元に、俺がよみがえらせたんだ」
「神をも斬る、だなんて。本当にそんなものが…」
「あった。いや実際ここにある。この秘伝を盗んだために俺は命を狙われ、こうやって隠遁生活を強いられているんだ」
刀を携えた敷衍の身体まで、うっすら光を帯びてきている。
「摩訶不思議な光を放つ『波動石』と呼ばれる鉱石から作られる玉鋼を、秘伝の技で何年もかかって打ち出すのがこの刀」
雅也の手が思わず伸びる。
「この刀…これで田島をッ」
たしなめる敷衍。
「待て、マサ。こいつは魔性の剣、触れた者の精気を吸い取る、故に普通の人間は持つことも不可能だ。触れただけで気を失う者も…」
まるで聞こえないかのように、刀身の輝きに魅入られた雅也は真っ直ぐ伸ばした手で崇虎刀をぐっと握り締めた。
「あっ、あああッ」
雅也の手、そして腕。さらに肩から身体全体に電流のような衝撃が走るとともに小刻みに震えるような感覚。
「すげえ、すげえッ」
あっという間に全身に力が漲ったのを感じた。
目が冴え、耳が研ぎ澄まされる。
近くのものも、遠く離れたものも、左右や背後のものまでもその動きが鮮明に、手に取るように判る。
「はっ、初めてだッ。こんな感覚…波動だ、波動が俺と一体になっているッ」
ゆっくり剣を振る。すると青白い炎のようなものが噴き上がりって光の霞が尾を引いた。
「すげえ、信じられねえ…」
敷衍は唖然として立ち尽くしていた。
「お前か。お前なのか。お前がこの剣を持つにふさわしい男だ、と云うのか…」
そして力強く頷いた。
「ならば、この刀をお前にやろう。元より値など付けられぬ剣だ、お前を見込んでくれてやる」
つづく




