渦巻く狂気
瑞泉寺を脱走した雅也は町へ下りたものの一文無し。
職にありつこうと努力はしたものの、結局ふたたび裏社会に身を投じる羽目になった。
ある夜、娼館に身を寄せていた雅也は遠くに燃え盛る山火事を見た。そこに瑞泉寺があると気付いたとき、胸騒ぎに引き寄せられるがままに現地へと走っていた。
「ああ…」
雅也は現場に立ち尽くした。
火は既に鎮まっていたものの仏殿や回廊、鐘楼まですっかり焼け落ち、あちこちから濛々と黒煙が噴き上がっていた。
思わず雅也は袖で鼻と口を覆った。
「むごいじゃねえか」
焼け焦げる匂いに混じって強烈に鼻を衝く死臭に息が詰まる。
そして、雅也の目がギラリと光った。
「ただの火事じゃねえぞ」
境内はまるで紅色の雨が降ったかの如き夥しい血に塗れていたのである。
ドロドロとした血液の泥濘に遺骸が点在している。
「何故だ、何故なんだ」
かつて寝食をともにした僧侶たちは、身体をバラバラに断ち切られどれが誰の何処の部分か判別できぬほど。
その切り口には一分のブレもなく、骨まで一閃されたようだ。抵抗した痕跡も殆ど見当たらない。
「お、恐ろしい腕前だ…こんな芸当、誰の仕業なんだ」
怒りに身体を震わせながらも首を捻る雅也。
「金目のモノなんて一切無いこんな山寺を…」
脳裏にぼんやりと考えが浮かんできた。
「坊主たちはいずれも武術の達人なはずだが…いや、もしやそれを知っていて狙ったのか?」
かつて暗殺術として方々で汚い仕事を請け負ってきた無双瑞典流だけに、あらぬ所で恨みを買っていても不思議ではない。
あるいは、赤虎塾が藩のお抱えになったことで快く思っていない他流派も数多存在するだろう。
「まさか…」
妙に冷たい風が身体の中を通り抜けた。
「だとすれば真っ先に狙われるのは、流派の家元…つまりオヤジ」
雅也は崩れ落ちた本殿のくすぶる瓦礫の中に手を入れた。燃えて炭になった木箱を探り当て、中に収められていた刀を手に取った。
「熱い…」
ここに預けられた際に取り上げられ、錠つきの木箱に収められていた雅也の愛刀である。
「俺の心も、同じく熱い」
握った手はジュウと焼け、生臭い匂いが立ち込めた。
「どんな敵だろうと、まさかオヤジが後れをとるとは思い難いが…」
彼がオヤジと呼ぶ田島勝雅は最強と称される暗殺術の達人。
だがその無双瑞典流を習得したはずの僧侶たちが抵抗すら出来ぬままに惨殺されたという事実が雅也を走らせた。
「やはり、な…」
夜半にもかかわらず、赤虎塾の門は開いていた。
そこにいるはずの門番はいない。
「ひでえな」
否、あまりに無残な姿で倒れていたために一見してそれが人間だと気付かなかっただけだった。
まるで胸に鉛のような重石が圧し掛かるような感触。
「見たくない…見たくない、が」
すっかり静まり返った屋敷、道場。どんな光景がそこに在るのか。
雅也は逃げ出したくなる衝動を抑えこみ、中へ足を踏み入れた。
「あ、ああ…」
予想通り。いや予想以上の惨状。
「女子供も、老婆さえも」
ポタリ、ポタリと縁側から血の雫が垂れ落ちる音だけが虚しく響く。
目を閉じずにはいられない。
ガサッ。
「んっ?」
不意に奥の部屋で音がした。高鳴る鼓動もそのままに雅也が駆けつけると、馴染みの住み込み女中が真っ青な顔で這いつくばっていた。
「あ、あわ。わわ」
見るとすでに胴体から下は無くなっていた。目を上転させ口をパクパクさせながら二、三度痙攣しそのまま動かなくなった。
何かを必死に訴えようとした彼女の指は東を指していた。
「あっち…東に何かあるのか?」
赤虎塾は小田川の支流に寄り添うように建っている。東にはすぐ河原。塾生たちが洗濯や川釣り、修行などに使う場所だ。
「河原に、何が?」
近づくにつれ、何かビーンと張り詰めた異様なものを感じた。頭が割れそうになるほどの不協和音のような感覚。
「声が、声が聞こえる…」
そして激しい叫び声の応酬が轟いていた。
「何が、誰が…?」
河原に辿り着いた雅也は、目に飛び込んできた光景に驚愕し血の気が失せそうになった。
「お、オヤジ…」
髪を振り乱し、黒い妖気の噴き出す剣を振り回しているのは紛れもない田島勝雅だった。
逃げ惑う塾生たちを追い回し、執拗に切り刻んでは笑みを浮かべていた。
「せ、先生いっ。何故、なぜに乱心を…」
懇願する弟子達に容赦なく振り下ろされる剣。
「うひひ」
次々に首が跳ぶ。
最後に残ったのは師範代の蓮岡のみ。この世で唯一、田島に拮抗し得る腕の持ち主。
「俺が、この狂った男を止める」
「イヒヒヒ…」
田島は笑ったまま。口角からダラダラと涎を垂らし、目は充血して真っ赤に光っている。
時折顎を震わせ歯をカチカチ鳴らしながら上ずった声を出す。
「この世は、終わりだ…」
「もはや貴方は師では無い。覚悟っ」
正眼に構えた蓮岡、渾身の力を込めて河原を蹴り間合いを詰めた。
田島は戦う気などまるで無いが如く、ダラリと全身の力を抜いてヘラヘラと笑ったまま。
「ウヒ」
しかし、蓮岡の剣が眼前に迫ったその一瞬だった。
「死ねよ」
たおやかに。しかし剣先が見えぬほどに素早く。
「ふぬっ」
田島が斜めに刀を繰り出すと、わずかに遅れてパッと紅い飛沫がまるで花火のように扇状に闇に飛び散った。
「ぎっ」
蓮岡の腕がドサリと落ちた。
「ぎぃやああぁっっ」
河原に七転八倒する弟子を、その顔面を何度も踏みつけながら田島が高笑いをする。
「ウヒッ、ウヒヒッ」
切断された手から刀を拾い上げ、踏みつけた蓮岡の腹に。ドシンという振動とともに剣先は地中深くにまで深々と突き刺さった。
「ひっ、やめろ。やめて…」
ピン止めされた昆虫標本のような蓮岡。田島は笑いながら顔を近づけ、覆いかぶさった。
「ヒヒッ、グヒヒ」
大きな口を開け、噛み付いた。
生きたまま頬を、鼻を、耳を食らう田島。ガリガリと軟骨が砕ける音を掻き消すように蓮岡が泣き叫ぶ。
暗闇の中、血と涎と涙にまみれた顔の肉がすっかり削げ落ちた頃には、もう泣き声も息も止まっていた。
「……」
膝が震え、足がすくんだ。一部始終を見ていた雅也の心臓は今にも飛び出しそうだった。ピクリとも動けないでいる。
そして何度も何度も、首を横に振った。
「夢だ、なにかの間違いだ。ウソだ…」
どうしていいか判らなかった。できることなら、何も見なかったことにしたかった。
しかし雅也の震える足が河原の石を軋ませる音が、田島を振り返らせた。
「…マサ。マサだな」
狂気に満ちた眼光に射抜かれた雅也は直立不動のまま。
「お、オヤジ…」
逃げたい。しかし竦んだ足が動こうとしない。
田島は表情を変えぬまま、再び河原に横たわる弟子たちの肉を食んでいる。
「……」
ぐちゃぐちゃと肉が潰れる音、ゴリゴリと骨が砕ける音だけが強い夜風に流され聞こえて来る。
雅也の脳裏に、幸せだった頃の赤虎塾がよぎった。
今はもう、すでに誰が誰だったのか判別不能なまでの肉塊と果てたかつての仲間たちと過ごした日々が。
「酷え真似しやがって…」
気付くと雅也はジリジリと田島に向かって歩いていた。
スウッと抜いた剣に、淡い月光を映しながら。
「ほう?」
笑い顔で振り向いた田島。
雅也は剣を突き出しながら突進した。
「父の業、子の俺が断ち切るッ」
夜霧に残像を残して切り込んだ雅也の剣先は、相変わらず薄笑いの田島の首を掠めた。
だが傷は浅い。
「親不孝だな、お前」
ほぼ無防備な田島。
雅也は目に涙を溜めながら再び斬りかかる。
「みんなの、仲間たちの恨みッ」
振り下ろした刀は真っ直ぐブレることなく血に飢えた狂人の脳天へ。
一瞬、田島の笑みが止まった。
「情に塗れた剣など」
足元に置かれた己の刀を素早く拾い上げ、雅の一撃に合わせた。
「そんなのは紛い物」
「えっ」
電光を散らし、甲高い音を響かせながら雅也の剣は真っ二つに折れた。
「うああっ」
両手が痛いほど痺れる。
「食ってやる」
迫ってくる田島はとてつもなく大きく見えた。その目はもうかつての師あるいは父親のそれではなかった。
野獣。いやバケモノ。
電流となって背筋を駆け抜ける戦慄に急かされるように、雅也は逃げた。
「ひっ、ひいいっ」
震えの止まらない足が引き攣って転げそうになりながらも、ひたすら走って林に逃げ込んだ。
「来る、来るッ」
振り返る間も惜しい。ピッタリと張り付いたように背後に足音が迫ってくる。
捕まったら、食われる。河原に散在した、あの無残な姿にされてしまう。
「いやだ、いやだッ」
しかし走っても走っても背後の圧迫感はどんどん増すばかり。
もう、荒くれた息遣いが耳元で聞こえてきた。生臭い血の匂いに包まれそうなほどすぐ後ろにヤツがいる。
「あッ…」
雅也の心は、一瞬にして真っ黒い闇に覆われた。
「ダメか」
それを絶望と人は呼ぶ。
もう先に道は無かった。目の前あるのは渓流の断崖絶壁。
うねり暴れる濁流の川が眼下に小さくあざ笑っている。
「ここで俺は、死ぬのか」
ガクガクする膝を押さえた。
「どうせ死ぬのなら、俺は逃げずに…」
ゆっくり振り向くと、田島は息も切らさず笑って立っていた。
「イヒヒ、ヒヒ」
ジリジリと歩を詰めるその様に圧倒された。まるで見上げるように巨大に見える。
怖くなんかない、心の叫びと裏腹に総毛立つ雅也の全身の振るえは外からはっきり判るほど。
(負けない、負けないぞ)
痛いほどの鼓動。
浅い鼻息の奥で、声を出そうにも声にならない。
「う、う、うッ」
田島を包む真っ黒なオーラはますます大きくなってゆく。
「あ、あ…」
立ち向かって戦う、そんな雅也の意思と裏腹に彼の足は後ずさりしていた。
「あッ」
肥大する田島の妖気に押し出されるようにして、雅也は崖を落ちていった。
遠のく意識。
「ああ…」
四肢は電流に撃ち抜かれたように痺れて動こうとしない。ぐったりとしながら、その身体は濁流の渦に呑み込まれていった。
獣のような田島の目がそれを見下ろしていた。
「グルルルル…」
遠吠えのような唸り声が月夜にこだました。
つづく




