暗殺帳之弐・小伝馬町にて
岡山・中島の歓楽街で絡新婦を始末した雅を雑踏の中で呼び止めた黒頭巾がいた。
「殺しを一つ、頼まれて欲しい」
「あ? 殺し、だなんて。何のことだか…」
頭巾の隙間から目が覗く。
「隠さなくていいじゃないですか雅さん。知ってますよ、ありゃ確か水無月の晦日…」
■ ■ ■ ■
弘化元年、江戸・小伝馬町牢屋敷。
梅雨明けの水無月を乾いた空気が吹き抜ける夜、五ツ過ぎ。
ただでさえ暑い夏だというのに、炎と熱風によって牢内はさながら地獄絵図。
「火事だっ」
「焼ける、焼けちまうっ」
「鍵を、鍵を開けてくれえっ。焼け死んじまう」
御様場付近から出た火は一気に広がった。
止むなく解放された囚人たちは右往左往。
「さあ逃げろ」
「出口はどっちだ」
「走れっ。火に追いつかれちまうぞっ」
しかし、猛火の牢内を悠然と闊歩する一団がいた。
「どこだ。どこにいる…」
八手の団扇で業火を払いながら、鋭い目の下の嘴が呟く。
「ヤツは百姓牢にいるはずだ。必ず探し出して…」
頭には頭襟、背中に生えた羽が揺れている。
天狗が五匹。
「いたぞ」
「あいつだ、間違いない」
天狗たちは駆け出した。
「殺れっ」
目線の先には坊主頭の囚人が一人。
「暑い。ひいっ、熱いッ」」
炎にに囲まれ立ち往生している。
「どっちだ、どっちに逃げれば…」
「逃げ道など、無い」
やがて天狗たちに取り囲まれた。
「何だっ。誰だ、お前たち…」
抵抗する間も無いまま、羽交い絞めにされた。
「や、やめろ…」
一匹の天狗が燃え盛る松明を掲げて迫る。
「うひ。うひひ…」
笑みを浮かべながらも、その目は凍り付くように冷たい。
「焼き殺してやる」
「ま、待てっ。何故だ…俺を殺せばこの国は」
もがいたところで、天狗の力に抗うこと出来るはずもなかった。
「ぎッ」
顔面に松明が押し付けられた。
「ぎゃあああっ」
ジュウ、と肉が焼ける音、脂の焦げたような匂い。
「助けて…」
爛れ変形した顔のシワから涙が溢れ出る。
「助けて下さい…」
膝をガクガクさせて震える無様な男を取り囲む天狗たちは、笑っていた。
「いひひ、見ろよ。すっかり顔がひん曲がっちまった」
「面白え。うはは、もっと焼いて顔をぐちゃぐちゃにしてやれ」
「……」
「ん?」
フッ、と炎の中を風が通り抜けた。
「な、なんだ?」
天狗たちは長い耳をヒクヒクさせてあたりを窺う。
炎が奏でる轟々たる音以外には何も聞こえない。
「気のせい…?」
「いや」
ピン、と張り詰めたような何か―これを殺気と呼ぶのだろうか―を、天狗たちは確かに感じ取っていた。
「近い、近いぞ…」
「あれはっ」
揺れる陽炎の中、近づいてくる一人の二本差。
「何者だ?」
問う天狗に、男が答えた。
「暗殺人」
歩を止めてゆっくりと刀を抜いたのは、雅だった。
「生意気な」
一匹の天狗が飛び出した。
「ニンゲンがいきがってんじゃねえよ」
背の羽をバタつかせながら飛び立ち、仕込み刀をかざす。空中で身体をくの字に捻りながら刃先を振り下ろした。
「死ねっ…あっ」
雅はいち早く真下に潜り込んでいた。
突き上げた刀は、すでに天狗の胸を貫いていた。
「ぶぐわあっ」
鮮血を撒き散らしながら墜ちた天狗は二、三度痙攣したのち動かなくなり、やがて燃え移った火の中に沈んだ。
「ほう、やるじゃねえか」
今度は同時に二匹の天狗が左右に分かれて迫ってくる。
雅は床を蹴って跳び上がった。
「ええいっ」
「フッ」
後を追うように飛び上がった天狗たち。華麗な羽ばたきで自在に動き回る。
「空中で俺たちに勝てるとでも?」
雅の剣は天狗たちに掠りもしない。
「バカめ」
スッと着地した雅。ニヤリと笑った。
「バカはお前らだ」
「えっ」
燃える天井がガラガラと崩れ始めた。
「な、何だと」
雅は空振りしたように見せかけて、梁を断ち切っていたのだった。
「ぶぎゃあ…あぐっ」
「ぐひい…ぶげっ」
崩れ落ちた天井の下敷きになって動けぬまま、天狗たちは焼かれていった。
「残り、あと二匹」
次の一匹が松明を掲げて突進してきた。
「鈍いんだよ」
スッと身を屈めた雅の剣がその腕を切断。
「ぎゃあっ」
返す刀で今度は両腿を付け根から。
「あっ、あばばっ」
脚の支えを失った天狗はその場に倒れ込んだ。その顔の上に切断された腕がボトリと落ち、握ったままの松明の火が全身を包んだ。
「あっあづいっ。あづいいっ」
炎の中に溶け、朽ちていった。
「暗殺人、か…なぜこんな真似を」
最後の一匹が立ちはだかった。
雅は答えた。
「仕事だ」
「互いに仕事ってわけだ…譲れねえな」
天狗は床を蹴り上げ飛び込んできた。
「俺も譲る気は無い」
雅が剣を突き出す。しかし空を切り、背後に回られた。
「ぬっ」
背中に圧迫感。これを妖気と人は呼ぶ。
「来るッ」
冷たいものを首筋に感じ、反射的に前に転がった。雅はあえて炎の中に身を投じ危機を脱した。
「逃げるのか?」
笑みを浮かべる天狗を前に、雅は頚に刻まれた一筋の傷から流れる血を拭いながら立ち上がった。引火した袖から炎が立ち上っている。
「逃げたら…つまらんだろ?」
そう嘯く唇にも微笑みが浮かんでいた。
「ならば」
再び飛び上がった天狗。呼応して雅も跳ぶ。その全身には黒いオーラが漲っていた。
「はあっ」
ぶつかり合う剣と剣。紫色の火花が散り、激しい鍔迫り合い。
互いの腕の筋肉は生き物のように膨隆してうねっている。
「ぬううっ」
渾身の力を込めて腕をぐいと押し込んだ雅。その袖の火が天狗の顔を直撃する。
「うあっ」
思わず顔を背けた天狗。
「もらった」
血反吐を撒き散らして倒れた天狗の胸には、雅が繰り出した脇差が突き刺さっていた。
「刀は、二本あるんだ」
「さあ、ここもじきに崩れる」
柱が燃え尽き、天井が崩落しはじめた。
「逃げるぞ」
呆気にとられたまま立ち尽くしていた坊主の手を取って外へ。
夏の夜空は赤く染まっていた。火の粉が舞う中、鳴り響く半鐘と威勢のいい火消したちの声がこだましている。
「助けていただいて有難い」
恐縮している坊主。
「何とお礼をしたらよいものか…」
雅は首を振った。
「礼はすでに貰っている。そしてお前さん宛にこれを預かっている」
「手紙ですか…?」
坊主は書簡に目を通した。
「隆仙どのからだ。武州・大間木村に住む蘭学者の…」
手紙には真相が綴られていた。
先の江戸城の火事は失脚した元・老中の水野忠邦配下にある闇組織の仕業であり、その目的は現職の老中・土井利位と水野を裏切った鳥居耀蔵に責を負わせ失脚させることだという。
手先として妖怪などの人外を用いる水野忠邦が狙う次の標的は、小伝馬町牢屋敷に収監中の急進派・高野長英だと言うのだ。
天狗組に命じて牢に火を放ち、焼死を装って高野を抹殺しようという目論み…。
「俺を、殺そうと…水野が」
坊主頭の囚人―高野長英―はため息をついた。
「鳥居耀蔵はよく『妖怪』などと仇名されるが…本当の妖怪を水野の方が操っていたとは」
そして深々と頭を下げた。
「あんたが来てくれなかったらこの高野長英、今頃はあの炎の中で…」
雅は首を振った。
「いいや。あんたは高野長英なんかじゃねえ」
懐から真新しい手形を出して手渡した。
「依頼人から言われてる。あんたの名は『沢三伯』、手形の名義もそうなってる。たった今、高野長英は死んだのさ…」
「隆仙どのの指示か」
「そういうこった。だが…」
雅は背を向けて歩き出した。
「こっから先は俺の仕事じゃねえ。うまいことやるんだな」
一度だけ、振り返って微笑んだ。
「顔が変わっちまうほどの火傷、災難だったな…だが、素性を隠して逃げるにゃむしろ丁度いいかも知れねえぜ」
■ ■ ■ ■
「知ってますよ、あれがあんたの仕事だったってこと」
黒頭巾は、雅に顔を近づけた。
「あんたほど腕の立つ暗殺人は、他にいない」
「誰に訊いた…口外法度がこの商売の掟」
「ええ、もちろん…だが蛇の道はヘビ。昔っからそう言うじゃありませんか」
黒頭巾は思い出したように、また口を開いた。
「そうそう。もう一つ…」
つづく