胸騒ぎ
天賦の才に恵まれつつ無法者へと身を落とした剣士・雅也は山寺に預けられた。
日々の過酷な修行が彼を鍛え上げ、遂に手練の僧侶たちを打ち倒し脱走に成功するに至った。
「もう夏か…半年以上へんぴな山に籠ってたってわけだ」
日差しが心地よいのは瀬戸内の爽やかな風のせいだけではない。
「やっと自由の身だ、ショバはいい…町並みがやけに眩しい」
ひっそりした生活が続いたせいだろう、窮屈な人混みさえ嬉しく思える。
「山じゃ精進料理ばかりだったしな…」
雅也は早速酒蔵に脚を向けたものの、苦い顔で立ち止まった。
「しまった」
懐が空っぽなことに気付いた。
「ちくしょう…寺の賽銭くすねてくるんだったな」
持ち物といったら手拭いと火打石、手作りの木刀とそれを削るときに使った五寸ほどの小刀くらいのもの。
「ちっ、これじゃ質屋に行ったところで一文にもなりゃしねえ」
ぐう、と鳴るのは腹の虫。
脱走したところでオケラじゃせっかくのシャバの賑わいも寧ろ目の毒、気の毒。
しかめっつらで呟く。
「しょうがねえ。こうなったらオヤジに頼んで…」
オヤジとは紛れもない田島勝雅。
孤児だった雅也を拾って男手一つ育て上げた彼は備中きっての暗殺剣道場「赤虎塾」の塾長にして鬼刀斎の異名を持つ剣豪。
「いやいや、さすがに無理ってもんだ」
考えれば当然のこと。
そもそも雅也の蛮行に手を焼き寺に預けたのが田島なのだから。僧侶たちを打ちのめし脱走して帰ってきたところで歓迎されるわけが無い。
「けっ。メシの種なんざ探せばいくらでも…」
まず試みたのは仕官。
「このウデを生かさん手は無えってことだ」
着物はボロだが襟をしゃんと正し、小刀で髭をあたった雅也。通りがかりの髪結い床の障子の隙間、鏡に映った自分に微笑みかけてみる。
「ほう、なかなかイケてるじゃねえか俺」
怪訝そうな髪結いの主人を横目に胸を張って往来をゆく。
「仕官…ああ、サムライ身分だぜ。低く見積もって月に二十石は堅え」
意気揚々と乗り込んだ武家屋敷。
ところが。
「残念だが…お引取り願おう。今のご時世、剣よりカネかコネだ。お前さんみたいな野良犬は受け付けちゃいねえ。悪いな」
門前払い。
食い下がる雅也。
「いやいや待てってば。ご時世言うなら世情は不安の一途だ、またぞろ戦がおっ始まるかも…って噂も訊くぜ。ウデの確かな男が要るだろうが」
「けっ。戦国時代じゃあるまいに、今やウデよりカネだっつの。算盤勘定の方が大事なんでえ」
「あん? 敵が来たら算盤で戦うってのかい」
「バカだな。役人は戦要員じゃねえ。そういう時のために専門の連中を外注してあるんだよ。」
「外注…?」
「ああ、お前みたいにフラフラしたヤツなんかじゃねえ。しっかりした凄腕がいるんだ、この世にゃ」
「赤虎塾か…オヤジめ。どうりで羽振りがいいと思ったら」
小声でボヤく雅也の顔を怪訝そうに覗き込む役人。
「ん、何か言ったかい? 兄さん」
「あ、いや…出直すよ」
ふう、と大きなため息。
幾つか当たってみたが、どの武家屋敷も対応は同じ。
「ま、もともと武家の暮らしなんて俺の性に合わんのだ。寧ろ、断ってくれて有難うってなもんだ」
強がりもそこそこに、今度は町人街へ繰り出した。
「そうさ。俺にうってつけの仕事があるじゃねえか」
向かったのは剣術指南の町道場。
門をくぐり、大声を上げた。
「さあ、このウデ買わねえか?」
中では大勢の若者たちが修行に汗を流していた。
ふと、中年剣士と目が合った。
「ん?」
たっぷり髭をたくわえ腕組みしてこちらを伺っている。道場の師範代に違いない。
ニヤリと笑った雅也は、いっそう声を張り上げた。
「偉ぶってるだけのセンセイより俺の方が十倍は強えぞ。どうだ、俺をここの師範に…」
視線が一気に集まる。
「ふふふ…誰もが俺さまに一目置く、ってか」
練習生たちはしかめた顔を寄せ合ってひそひそ話し始めた。
「ん?」
会話が漏れ聞こえてくる。
「あいつ…前に町で暴れまわってたヤツだぜ」
「極道もんが…また悪さしに来たか」
髭の師範代がやってきて告げた。
「申し訳ないが…わが道場では剣の技のみ教えるに非ず、人の道こそ大事なれば、貴殿の如き無法者はご遠慮願いたい」
「な、なにいっ?」
雅也が思わず眉間に皺を寄せ、腰の木刀に手が伸びそうなのを見るや、帳簿とにらめっこしていた男がサッと駆け寄った。
「これでひとつ…黙ってお帰りくださいまし」
袖の下にズシっと重いものを捻じ込まれた。
「ほう…」
しばし立ち尽くし、重さを確かめるように何度かチャリンと袖を振った雅也は無言でその場を去った。
「そういうことかい…武士のメンツも金で買う時代、か」
続いて一町ほど離れたところに建つ、別の道場へ。
「ここは老舗だ。師範になりゃいい稼ぎに違いねえ」
ところが。
「悪いがお引取り下され。剣の道は人の道と掲げて長年やってきた看板に、今になって傷がつくようなマネは出来ません」
「傷、って…」
「いやその。我が道場は品格第一…あ、これまた失礼を。そうそう、これでひとつ場をお収めください」
またしても袖の中へジャラリと鳴るひんやりとした重いものが捻じ込まれた。
「へえ…」
三軒目は比較的新参な道場。
「古臭い考えからはかけ離れてるだろうから、ここなら…」
雅也は意気揚々と乗り込んだ。
「ええと、俺は…」
対応は同じだった。
「すまんが兄さん…回書がまわって来てるんだよ、似顔付きのな。この悪童に注意せよ、ってな」
重ねた悪行を人々が忘れ去るには、もうすこし月日が要るようだ。
「チッ…まるで賞金首じゃねえか」
そしてここでも、すかさず丁稚風の男が近づいてきた。
「これで、これで何卒ご勘弁をッ」
ジャラり。もう袖の付け根が破れそうなくらいな重み。
「そうかい。そういうことかい」
頷きながら退散した雅也は、大きく背伸びをしながらため息ひとつ。
「いっぺん悪さした人間は、二度と誰にも相手にされねえ、立ち直れねえってことかいッ」
首を左右に、カクカクと鳴らした。
「なら、決まってら。俺の生きる場所はただ一つ」
ウデが、力が、剣がモノ言う裏社会。
「オレが備中無宿、雅也だ。文句があるなら勝負せい」
ここじゃ雅也が仕事にあぶれることは無さそうだ。
高利貸しの借金取立て、抜け荷の見張り、美人局、女衒の用心棒…力が全て。血生臭いが、わかり易い。
「今日はこれで許してやるが…次はこんなじゃ済まねえぞ。命で償ってもらうぜ」
木刀一本、修羅場に遭っても抜き身が寄ってたかろうが、難なく叩きのめすだけの力を雅也は身につけていた。
「フッ、蛆虫どもめが」
そして再び、力で相手を服従させる快感に酔い痴れるようになっていった。
「そうか、助けて欲しけりゃお前、何でもするって言ったな…」
ちょっと脅せば大金が手に入る。
朱に交わりすっかり紅く染まった雅也は、手にした小判の山を湯水のように使って酒、女、博打に明け暮れる毎日を過ごすようになった。
その夜も岡場所にしけ込んでいた。
「ねえ、お侍さん…」
膝枕の雅也を揺する、スラリと手足の長い女の無造作な垂れ髪が首筋をくすぐる。
「んん…何だよ、もう少し寝かせてくれ」
「ちょっと…ねえってば」
「チッ、元気な女だな、ついさっき済ませたばかり…」
「ずいぶん派手に燃えてるよ」
「まだ燃えてんのかお前さんの身体は…?」
「バカ、違うよ。そっちじゃない。あれ、あれだよ。見てごらんな」
むくりと起き上がった雅也。半鐘も遠鳴りが聞こえる。
「不始末か? よりによってこんな寝苦しい夜に」
暑い夏だった。
「どれどれ火は何処だ?」
廓の窓から身を乗り出すと、蒸した風は強く吹き付ける中、北の山に赤い点々が幾つも揺らめいていた。
「山火事か。しかし、あんな山の中、何にも無えところ…」
言いかけて雅也の顔から血の気が引いた。
「あ、あそこはッ」
慌てて着物を羽織ると勢いよく部屋を飛び出ていった。
「じゃあな」
「あ、ちょっと。お侍さんっ、お代はまだなんだけど…もうっ。いい男だし、まあいいか」
雅也は走った。ひたすら脇目もふらず北の山を目指した。
「間違いない、火はあの寺からだッ」
胸騒ぎ。
「坊さんたち、一体どうしちまったんだ。寺で火事なんて」
重苦しいものが五臓六腑の中でうごめき回る。
「とにかく、早く確かめなきゃ」
瑞泉寺へ向かってひた走った。
一刻ほど走った。
雅也は半年前まで暮らした山寺、否、それがあった場所に辿り着いた。
「こ、これって…」
何が起こったのか確かめようとここへ来たことを後悔し
た。
「ひどいじゃないか…」
つづく