瑞泉寺
「天保九年、俺が十七の夏だった」
備中・矢掛に人知れず存在した暗殺剣道場「赤虎塾」。
鬼刀斎と異名をとる塾長・田島勝雅に育てられたのが孤児・雅也だった。
天賦の才を発揮し滅法腕を上げたが、同時に無法者と成り果てた。
「その腐った性根を叩き直す」
雅也は瑞泉寺と云う山寺に預けられた。
「こんなクソ山ん中で一体、何を楽しみに生きていけって云うんだ」
鬱蒼とした雑木林に囲まれた古びた山寺での規則正しい生活。食事は一汁一菜。庭掃き、掃除、洗濯そして写経の日々。
血気盛んな十七歳の男児には退屈極まりない。
「ああ、酒に女、ケンカに博打…ショバに戻りてえ」
脱走を企てるのは、むしろ当然のことだった。
「付き合ってらんねえ」
夜更けの境内、忍び足。
「チョロいもんだ」
山門に向かってまっしぐら。
「ん…ん?」
誰かいる。
月夜に浮かび上がる二つの禿げ上がった頭。
「クソ坊主…」
立ちはだかっていたのは瑞泉寺の僧侶ふたり。
「夜半に修行か? 雅也」
「明日も早い。部屋に戻って休まれるがいい」
容易く訊き入れるなら、もとより寺に預けられたりはしない。
「寝ぼけてんのか坊主。俺はここを出るんだよ」
雅也歩みを止めない。
「どけよ。痛い目に遭いたくねえだろ?」
手には木の棒が握られていた。
「俺の刀はあんたらに取り上げられちまったが…こいつで十分だろ」
僧侶たちはニヤリ。
「逃げ出そうなどという考えはよろしくありませんな」
真っ直ぐ向かって来た。
「さあ、警告はしましたよ」
棒きれを振り上げた雅也。鼻を鳴らした。
「フッ、読経と掃除だけが取り得の坊主のくせに、いきがってんじゃねえよ」
その構え、まさに暗殺剣。
「怪我しても泣くなよ…」
「うっ、ううっ…」
泣いたのは雅也の方だった。
「強え…やべえよお前ら」
あっという間に組み伏せられ、地面に顔を擦りつける羽目に。
見上げると、僧侶たちは息も切らさず淡い月光に笑顔を照らさせていた。
「申し上げておりませんでしたな。私共もかつて赤虎塾で修行した身。今は一線を退いておりますが…」
「腕が立つはずだ…クソ野郎っ」
唾を吐き掛ける雅也。僧侶たちは顔を見合わせて微笑んだ。
「その態度や言葉遣いも直すよう、お父さまから言いつけられております」
「お父さま、だあ?」
歯軋りしながら睨み上げた雅也。
「あんなのはニセモノだっ。ホントの親父ならこんな仕打ちをするわけが無えだろっ」
「その物言い…」
僧侶たちの押さえつける手にぐいと力が込められた。
「聞き捨てならんッ。鬼刀斎さまは、お前の事を本当の息子と思い愛するがゆえ、我々に託したのだ」
仏の顔は一転、鬼の形相に。
「そんな言葉を二度と口にするでない。そして二度と、抜け出そうなどと考えるな」
「わ…わかった。わかったよ」
とは云うものの、簡単に大人しくなる雅也ではなかった。
呆れるほどの自由を謳歌してきた彼にとって山寺での節制した生活はあまりにも退屈。
「さあ、今日こそは・・・」
幾度も、幾度も脱走を目論む。
だがその都度、地に這わされる。
「ちくしょうッ…」
僧侶たちの華麗で力強い一斉の無駄の無い動きにひたすら翻弄され土を食む。
「な、なんなんだよ、お前ら」
「私たち? ええ、ここの僧です」
「んな事は判ってらあっ。お前らの、その強さは何なんだって訊いてるんだよッ」
血まみれ泥まみれの雅也を諭すように僧侶たち。
「お前と違って私共は鬼刀斎さまの教えを忠実に守っております。ゆえに積んできた徳が、人間としての格が…」
「ちっ、お行儀のいい答えばっかりしやがって」
僧侶たちは顔を見合わせて微笑んだ。
「そうそう。私共が赤虎塾の出身だということは話しましたね…ええ。皆、無双瑞天流の免許皆伝の腕前なんですよ」
ため息をつく雅也。
「っくしょう…」
山寺での修行生活。確かに誰もが逃げ出したくなるほどに過酷だった。
日の出と共に叩き起こされ境内の掃除。
間を置かずに水汲みのため急な石段を五往復。大きな桶に水が並々と注がれた天秤棒を担いで片道千段以上はある。
「毎日これかよ…足が棒になっちまう」
朝食は茶碗一杯の麦飯と梅干。済ませると、ひたすら写経。
「ただ書き写せば良いというものではないぞ」
もちろん僧侶たちの監視付き。姿勢が悪いと言っては木刀が飛び、字が醜いと言っては書き直し。
昼までに薪割りも済ませる。
山の如く積みあがった木々を目の前に、思わずため息。
「おいおい、こんなにたくさんは要らねえだろ…」
「心配無用。余った分は町で売りますから、すべて割りなさい」
舌打ちしながらも斧を振り上げる。
「お、重てえ…妙に重たいじゃねえかこの斧」
「それも修行です」
終わる頃には腕が震えている。
「肩が、上がらねえ…」
一汁一菜の昼食、その後は座禅。
「いっ、痛ええっ」
雅也の叫びがお堂の中にこだまする。一炷(しゅ=約四十五分)の間に警策が打ち下ろされるのは一度や二度では済まない。
「ちょっとちょっと、毎日のことだがあんた、俺を叩き過ぎじゃねえか?」
「お前の邪念が多すぎるゆえ…」
「……」
わずかな休憩時間を挟んで夕刻から武芸の修練。
「戦いは得意なんだ」
意気揚々と木刀を手にする雅也。しかし暗殺術免許皆伝の僧侶たちの技に敵うはずもなく。
「苦しい、苦しいよう…」
「この程度で根を上げるとは…未熟も甚だしい」
「う、うぐ。ぐぶううっ」
嘔吐しようが意識を失いかけようが、容赦なく叩きのめされる。
夕飯を終え入浴。その後は読み書き、算術。
苦悶の表情で頭を抱え込む雅也。
「これが一番の苦痛だ…」
「泣き言は聞き飽きた」
すぐに木刀が飛んでくる。
「痛ええっ。頼むからさ、もう叩くのは止めてくれよ…」
「言って解らぬ者、身体で覚えるより他に道は無い」
「けどよ、こんな学問なんか生きてく上で全く意味が無えじゃねえか」
噛み締めるように僧侶は言う。
「学問は単に紙上の遊戯に非ず。人の道、まつりごと、為替、さらに武芸にも通じる道。知は全てに共通の力となる」
「解った様な、解らんような…」
口を開けながらそのまま眠ってしまいそうな雅也の頭に、また木刀が振り下ろされる。
「ううい痛っ、あ、ああ。解った解った。やる、やるよ」
身体中を痣だらけにして夜半、やっと就眠。
だが雅也の夜は終わらない。
「ああ、今夜こそ…」
そっと起き上がり、忍び足。
「いい加減、俺も学んだってことだ」
長い廊下、どの板張りが軋んで音を出すかは承知済み。
「へへ、脱走するにも頭を使わなきゃ、な」
しとしと降り続く雨、吹きすさぶ風が境内の草木をざわめかせる。
「これぞ好機」
一気に山門まで駆け抜けた。
「運に頼るだけじゃねえぞ、俺さまは」
懐から取り出したのは灯し油。大きな山門の蝶番にたっぷり流し込むように塗り付けた。
「へっ、これならミシリとも言わねえぜ」
ゆっくりと門が左右に開いてゆく。
「やっと俺さまも、自由の身…」
飛び出そうとした瞬間、山門の外に立ち尽くす僧侶と目が合った。
「あ…」
「おや雅也くん。まだ朝にゃ早いが…水汲みでもしたいのかな?」
「あ、いやその…どうも寝付けなくって」
「で?」
「散歩でも…」
僧侶が後ろを向いた瞬間。
「うりゃあっ」
隠し持っていた木刀をかざして一気に飛び込んだ。
「……」
結果はいつもと同じ。
素手の僧侶にあっという間に組み伏せられて泡をふく。
「…ぐう。何が、何が違うんだ」
にっこりと僧侶。
「心、ですよ…」
「ちっ、また説教か」
「ふふふ、説教は僧の仕事ですから」
「説教ついでに教えてくれよ、何であんたらは俺の二手、いや三手先まで読めるんだ?」
「わたしが読んでいるのではない、お前が晒しているのです」
「おれ自身が?」
「ええ。お前にはまだ見えるものしか見えていない。気の流れ、その向きと速さは常に流転し関係しあっている」
「は? じゃどうすればその、気ってやつが見えるんだい」
「身体と心、知は各々独立したものに非ず、すべて気の流れの中に揺れ動いている。ときに一体となり、ときに離れ、またある時には反発しあい周囲を巻き込み、増幅しながら…あれ」
雅也はすでに頭を下げて鼾をかいていた。
「説教が始まるとすぐ眠くなる…確かに人の道理。しかし毎日痛めつけられながら、よくも懲りずに…根性だけは大したもんだ」
気付けば半年が過ぎていた。
相変わらずの退屈な、厳しい毎日。
その甲斐あって身体のキレも筋力も以前に比べて見違えたと感じられるようになった。読み書き算術の類も上達した。
「ふむ。最初はただのイジメかと思ったが…キツい日課が効いてきたな、こりゃ」
以前とは違って、夜間は自室で過ごすようになっていた。
「この俺も心を入れ替え、正しい人の道を…なんて、思ったかい?」
闇夜にギラリと目が光る。
「甘えよ」
床下から手製の木刀を取り出しピタリと構える。脱走のための修行のはじまりだ。
目を閉じて聴覚と嗅覚を研ぎ澄ませる。
「俺は目に頼りすぎていた」
開け放たれた窓から、小さな蝋燭の灯を目指して入ってくる大小の虫たちが相手。
「見える…見える」
雨の日は、天井から垂れ落ちる雨漏りの雫を相手に木刀を振る。
「少し判ってきた…」
感覚を研ぎ澄ませると、空間と時間が歪む。
ほんの刹那が途方も無い長時間に、米粒ほどの距離が一間にも広く。
さらに五感だけで説明できない何かを感じるようになっていた。
意識体の存在そのものが生じさせる圧のようなものを。
「これか、この流れ」
雅也は頭から分厚い布の袋をかぶり全ての感覚を遮断した。
「見える…」
仕留められた小さな虫たちの骸が蝋燭の周りに積みあがった。
ある夜。
ゆらりと黒雲が月を半分ほど覆い隠していた。
「さて…」
木刀一本を手にした雅也は、静かに部屋を抜け出した。
山門の前まで来ると、まるで待っていたかのように三人の僧侶が立っていた。
「……」
互いに向き合い、武器を構えた。
「……」
終始、無言だった。
空気が凍りつくような沈黙の中、木刀の切っ先は肉眼で追いきれぬほどの無数の残像を描き火花を散らせた。
ぐったり横たわる三人の僧侶。
「……」
雅也は山門をくぐって外に出た。
一度だけ振り返って深々と頭を下げ一礼し、無言のまま山を下りていった。
つづく