赤虎塾
仲間と共に足守藩国家老および配下の妖組の抹殺に成功した暗殺人・雅。
弘化元年・師走。
仕事を終えてすでに二ヶ月が過ぎた。寒さを増した備中の風に粉雪が混じる。
新年の準備に賑わう街道の茶屋。
熱燗を手にした雅は、鉛色の空をじっと眺めていた。
■ ■ ■ ■
父のことは思い出せない。
母の記憶も無い。
物心ついた時から住処は道場だった。
備中・矢掛宿の北、大通寺を越え山に分け入った峡谷にある「赤虎塾」。
出自を知る者もいなかった。
ある者は倒幕を目論む志士の子だと云う。公儀お庭番の手で惨殺された一家の生き残りだ、と。
またある者は、密航船の中で産み落とされ捨てられた異人の仔だと云う。
さる高名なお方の御落胤だと噂する者もいた。
ともあれ雅は、田島勝雅という男に育てられた。
「雅也」と名付けられた男児は心優しく、ひ弱だった。
「いいか、雅也。これから大事なのは学問だ。剣が世を動かす時代は終わった」
田島は鬼刀斎の異名をとる剣の達人。若くして連れ合いを病で失ってから独り身を貫いき「赤虎塾」を開き後進の指導に当たっていた。
だが、雅也に剣の道を教えようとはしなかった。
学問の道で生きることを望んでいた。
「よし、帰って来るまでに今日の分の読み書きを終えておくんだぞ」
「はいっ」
しかし学問が好きな子供など滅多にいない。
机に向かうものの、すぐに飽きた雅也はいつものように部屋を抜け出した。
裏の畑に出かけては、餌を求め人里に下りてくる狸や鼬を可愛がる。
「ほら、今日は饅頭だ」
くすねた食べ物を動物たちに与え、しばらく一緒に時を過ごした。
「僕が食い物を持ってきてやるからさ、畑を荒らしたりするなよ。捕まって鍋にされちゃうんだから。わかったかい、へいじろう」
一匹一匹に名前までつけて、まるで友達のように振舞っていた。
雅が七つになったころ、道場生たちは噂し始めた。
「雅也ってさ、先生の子じゃないらしいぜ」
「異人の血が混じっった忌み子だって訊いたよ」
「学問なんかしやがって。なんか気に入らねえよな」
やがて陰口にとどまらず本人を前に聞こえるように。
「知ってるか? あいつ、母ちゃんが動物と交わって出来た子なんだぜ」
「どうりでケモノ臭せえと思ったんだ」
雅也は聞こえないふり。何食わぬ顔でその場を立ち去り裏の畑に逃げ込んだ。
嗚咽する雅也の友達は、餌を求めやってくる動物たちだけだった。
子供とは非情なもの。どんどん「いじめ」はエスカレートする。
「チッ、何だか匂うと思ったら…お前か」
「ホントだ。迷惑なんだよ」
「ケモノの血は隠せねえってやつだ。ああ臭せえ、屁よりも臭せえぞこいつ」
腕白坊主が三人、雅也を通せんぼ。
藩の番頭の子息、有力な材木問屋の次男坊、もう一人は藩の菩提寺の後継ぎ。
「いひひ、お前の母ちゃんタヌキだろ」
「へへへ、毎日タヌキの乳飲んでるんだろ、だから臭えんだ」
「ひょっとしたら尻尾が生えてるんじゃねえか?」
だがその日は、言葉だけにとどまらなかった。
「確かめてやる」
「脱がせろ、脱がせろっ」
「いひひ、見てやるから大人しくしてろ」
三人は雅也に覆いかぶさった。
「やめろ、やめろ…」
悪童たちには「加減」というものが無かった。抵抗しても手足を押さえられ帯を解かれてゆく。
「やめろってばっ」
「は? そんな横柄な頼み方ってあるか」
「やめて…やめてください。ぐう、ぐうう」
涙に濡れた頬を赤く染め、歯を食いしばっていた雅也。
「えっ?」
しかし、その全身がにわかに震え始めた時、いじめっ子たちの手が止まった。
「な、なんだこいつ…」
「まさか本当に…」
「狸が憑いてるのかっ?」
明らかにいつもと様相が違う。
「うう…ぐううう…」
喉の奥から聞こえる低い唸り声は、確かに獣のようだった。
髪の毛は揺れながら逆立ち、目が冷たく光りだした。
肩口から、うっすら黒い煙のようなものが噴き出しはじめた。
「ま、待て…」
腕白坊主たちは慌てた。
「ねえ、マサくん…」
「悪かった。ごめん、謝る、謝るから…」
謝罪の言葉は届いていないようだった。
「ぐう、うううああっ」
悪童たちに飛びかかった雅也は、一人ずつ制裁を加えた。
逃げ出そうとするところを引きずり戻し、顔の形が変わるほど殴った。脚の骨が折れた子もいた。
「……」
ひたすら無言。殴り、蹴り続けた。
通りかかった大人たちが羽交い絞めに取り押さえ、雅也の顔面を平手打ちにするまで暴走は続いた。
「腹を切ってお詫びを…」
田島は深々と頭を垂れた。もちろん雅也の愚行を償うため。
「薄汚れた腹を切るくらいでは収まりがつかぬわ」
庭瀬藩番頭・遠藤是次の眉がひくひくと動く。
「俺の子の顔をめちゃめちゃにしやがって」
髷をむんずと掴んで顔を引き上げた。
「お前と雅也、二つ身体を重ね試し斬りの具にしたいほど…だが」
自らを落ち着かせるように二度、ため息をついた。
「お主が只の田舎剣士に非あること、知っておるぞ」
困惑する田島。
「え。いや、滅相もございませぬ、私はただの」
「素性はしっかり調べたぞ」
「す、素性…」
「藩の軍政を預かる俺はちゃんと調べたんだ。庭瀬藩初代藩主・戸川 達安殿が宇喜多騒動に関わった折り、配下に暗躍した者たちがいた…」
唾を飲む田島の目を覗き込んだ。
「姿さえ見せぬ隠密の暗殺組。その首領・片山宗剣の末裔がお前だ」
「……」
無言の時を経、やがて田島は頷いた。
「いかにも」
遠藤は耳打ちした。
「平穏の時代は終わる。幕藩体制の綻びは日毎増大し異国船の来航も絶えぬ。密偵曰く長州はじめ各藩に謀反の恐れあり」
「む、謀反っ」
「声が大きいぞ。よいか、庭瀬藩は譜代と言えど二万石足らず。我が身を護る手段を講じねばならぬ」
「私に何の関係が?」
「お前は、宗剣以来の秘伝を封印しているな? その暗殺剣をこの藩に甦らせよ」
顔を歪めて田島は声を上げた。
「暗殺剣など、悲しみしか産みませぬっ。あんなもの、私の代で終わりにすべきです」
「いいや、今こそ究極の暗殺剣が必要だ」
「剣では無く知恵と交渉、文明開化が世界を動かす。そんな時代が必ず来ます」
遠藤は不機嫌そうに、手で首を掻き切る動作をした。
「ならば…仕方ないな。お前の腹だけでは済まぬ、雅也とかいうガキの首も跳ねてやる」
田島は首を縦に振るより他になかった。
「し、承知しました…」
その後、赤虎塾はすっかり様相を変えた。
剣を通じて説かれていた人の道の訓は姿を消した。
その代わり、如何に人を欺き陥れ、命を奪うかを徹底的に叩き込む暗殺剣「無双瑞天流」が復活した。
そして、ひときわ熱心に剣を振るう男児がいた。
「もっと強くなる、強くなるんだ」
雅也である。
怒号が響き渡る。
「ダメだっ。違うバカものっ」
木刀が容赦なく雅也の華奢な身体を打ち据える。
田島は気付いていた。
「やはり…ただ者じゃないぞ、この子は」
類稀なる資質が見えたとき、代々受け継がれた秘術の全てを受け継がせたいという欲求が田島の心を揺り動かした。
指導は必然的に厳しいものになった。
「言っただろ雅也。怒りを抑えろ、と。感情が先立っては剣が後れをとる」
鬼気迫る稽古は、他の塾生たちの顔を青ざめさせるほどだった。
「教えたことが出来てない。罰として石段を二十往復。晩メシは抜きだッ」
尋常ならざる修行が雅也を確実に強くした。
同時に、力で人を支配する味を覚えてしまっていた。
「俺はもう、虐められっ子なんかじゃ無え」
あの日の記憶――暴力で人を跪かせる快感――が焼きついていたに違いない。
まるで己を持て余すように、道場の外で力を誇示することを躊躇わなくなっていった。
「お前じゃ相手にならん」
同年代で負けることなど無かった。
より強い相手を求め、誰彼構わずケンカを仕掛けた。
打ち負かした相手がひれ伏す。その快感へ渇望と暴力の礼賛こそが、辛く苦しい修行に打ち込む原動力となっていた。
「もっと、もっとだ。この痛み、苦しみによって俺は誰よりも強くなる」
雅也が十六歳になった頃には、大人たちさえ肝を冷やす貫禄を身につけていた。
「ほう、ここが有名な」
覆面を被り、町に出かけ道場を見つけては殴りこんだ。
「冴えねえな、このクソ道場…さっさと潰れちまえ」
当然のように、師範代はじめ腕利きたちが襲い掛かる。
「てめえ…覚悟は出来てるんだろうな、生きて返さん」
道場破りは打ちのめされたのち命を奪われても文句の言えない行為。
だが、雅也に敵う者はいなかった。
「ひひ、うひひ」
倒した敵を見下す時に雅也は心の底から湧き出る笑いを抑えきれなかった。
「今すぐ殺してやろうか…」
全身からうっすら黒い煙のようなオーラを漂わせながら、引き攣った笑顔で唾を吐く。
「さあ、俺の草履を舐めろ。そしたら殺さず許してやる」
師範を痛めつけるだけでは収まらず金品を奪い女を拐かし、我が物顔に振舞った。
類は友を呼ぶ。
やがて近寄ってきた無頼の者たちとつるむようになり、博打や酒、女そして暴力に時は費やされた。
「き、来た…あいつが来たッ」
もう誰も刃向かおうとしなかった。
土下座して命乞いする者、金品を差し出す者、身体を開く女たち。
己の力の前に全てがひれ伏す快感。それは十七歳の若き雅也にとって何物にも代えがたい快感だった。
所業はエスカレートの一途を辿り、もはや誰も止められない。
「雅也の性根は腐れ果ててしまったか…」
意を決した田島は雅也を立てなくなるほどに打ち据えた。
そしてその身柄を山寺に預けた。
「まだ救える。今なら間に合う、立ち直ることもできるはず…」
山深くに分け入ったひっそりとした雑木林の中、ポツンと建つ粗末な寺。
田島はぐったりとして不貞腐れた雅也の手を引き、瑞泉寺と書かれた山門をくぐった。
「この寺で精神を入れ替えろ。さもなくばお前の魂は滅亡の道を辿るほか無い」
「はいはい、わかったよオヤジ」
恭しく彼らを出迎えた僧侶たちは穏やかに微笑んでいる。
「お任せください」
挨拶を済ませて去ってゆく田島の背中に唾を吐きながら、雅也は鼻を鳴らした。
「つくづくバカなオヤジだ。すぐ逃げ出すに決まってるだろ、こんなクソ寺」
つづく