最強の敵
「思ったより、遅かったですね。雅さん…」
無数の妖怪たちを倒し、あらゆる罠を乗り越えて辿り着いた標的、氏平善本。居室の奥に悠然と座している。
「仲間…いい響きですねえ。信じあい、助け合う、ですか…」
天井から吊るされた洋灯が橙色に照らし出す引き攣ったような笑み。
「うくく…皆さん、私も仲間に入れてくださいよ。いや、皆さんが私の仲間になればいい」
それぞれを突き刺すような視線。
「一生遊んで暮らせるだけのカネを、保証しましょう」
唾を飲む雅。
呼吸を整え、仲間の顔を見渡す。
「ん、んん?」
「うふふ」
「いひひひ…」
「あは、あはは」
皆に釣られて雅も笑った。
「ははは、面白い。俺たちを買う、か…そりゃあ、何とも美味しい話じゃねえか」
ふと、真顔に戻った。
「断るぜ。依頼主を裏切るってのは無いんだよ、暗殺人にゃ」
一気に重くなった空気を隔てた向こうで、氏平の笑顔もスッと消えた。
「ならば…」
射抜くような目。心の内側に入り込んで張り付くような、目。
「死になさい」
ガラリと両側の襖が開いた。にわかに妖気が雪崩れ込んでくる。
「跡形も無いほどに、細切れにしてやりなさい」
数え切れないほどの天狗、河童…妖の群れが襲ってきた。
「ヤバイぜ」
「だが予想はしてた」
「いや俺は予想してなかった」
「ああ、もっと料金弾んでもらわねえと割に合わんな」
洋灯の火が消えた。
暗闇に入り乱れる妖怪、そして暗殺人たち。
「案外、楽しいじゃねえの」
飛ぶ鎖鎌、操るは翔。
「蟷螂の、って通り名、気に入ってるんだよ」
右から左、上から下。空間を及ぶように飛んでは猛る妖怪の首を刈る。
「油断禁物って言うぜ」
キーンと耳元を揺らせて匕首が飛ぶ。投じたのは花蜘蛛の文治。
翔の背後に忍び寄っていた天狗の首筋をとらえた。
「ほう」
振り返った翔の目の前で、どす黒い体液が飛び散る。
「いいとこあるじゃねえか文治」
「今頃気付いたか」
「知ってたさ」
翔の目が光った。ぐっと腰を下ろして飛ばした鎌が、文治の髷スレスレの上を通り抜けた。
「ぬっ」
思わず息を呑んだ文治の背後で、剣を振り上げた天狗が叫びを上げていた。
「クグアウァッ」
鎌の刃が深々とその眉間に差し込まれている。
軽く口元を緩める翔。
「これで貸し借りなし」
向こうで栄寛が吼えている。
「ぐあああっ」
真っ赤に充血した目。大きく開いた口から涎を垂らしながら。
「ぬおおおっ」
片手には天狗、もう一方に河童、それぞれ首根っこをむんずと掴み、一気にへし折った。
「ぐひひっ」
薄っすら浮かべた笑顔を照らす淡い月光。
ピシッ、ピシッと空気が鋭く振動した。
「ウスノロめ」
身を屈めた兆次。逆手に持つのは、妖の血糊がたっぷり付着した忍者刀。
「お前らに恨みがあるわけじゃない」
さらに押し寄せる敵に向かって突進。その勢いで跳び上がって頭上で天井を蹴り、刀を左右に踊らせながら着地した。
「だがな、ここはお前らの居場所じゃねえ」
切り裂かれた屍たちに、まるで慈悲のような視線を浴びせる。
「いない、いないぞ…」
苛立つ雅のこめかみがピクリ、ピクリと痙攣している。
「どこに逃げた」
肝心の氏平の姿が見えない。
「こっちにゃいねえ」
「こっちもだ」
「逃げやがったか」
「そんな筈はない」
部屋の奥は壁、その他の三方では激しい戦いが続いている。いくら暗闇の中とはいえ逃げる氏平を見過ごすとは考えにくい。
「消えた、か…」
まだまだ続く妖怪と仲間たちとの戦いの中、神経を研ぎ澄ませた雅の頬に、わずかな風を感じた。
「ん?」
視界の端、部屋の奥に懸けられた花鳥画が微かに揺れた。
「これだ」
駆け寄って捲り上げると隠し扉。
仲間たちは叫んだ。
「行けッ、雅」
「ここは任せろ」
「頼んだぜ」
「賞金のためだ、俺たちにタダ働きさせんじゃねえぞ」
静かに頷き、雅は隠し扉に身を入れた。
「周到な野郎だ、氏平ってのは」
暗くて狭い一本道。ひたすら長い通路をひた歩く。
「だが…」
漏れ入る光が見えた。出口だ。
「決着だ」
扉を蹴破った雅。抜いた刀の切っ先を前に、低く構えながら。
「逃がさんぞ」
パッ、と煌びやかな明かり。そこは金箔を貼り付けた豪奢な洋部屋。
「ほう、やっと来たか」
中央の椅子に腰掛けた氏平は依然、うすら笑い。濃い紅色の洋酒の盃を傾けながらゆっくり振り向いた。
「おや、お友達はどうした。一人で来たのかい?」
盃を飲み干す氏平。
雅は構えもそのまま、にじり寄る。
「ああ、そうだ」
「どうだい、考え直したかい?」
ニヤニヤしながら身を乗り出す氏平。
「仁義か誇りか知らんが…命懸けであくせく働いて、身を削って小銭稼いでその日を生きるなんざ、馬鹿馬鹿しいとは思わんかね」
冷たい目が、ますます凍りつくようだ。
「世の中には、ふた種類の人間がいる。能ある主人と家畜、な。お前さんは俺の側にいるはず、違うか?」
「……」
返答しないまま睨むように見据える雅に、氏平は盃をかざしてみせる。
「チャンバラごっこは卒業して、美味い酒飲んで洒落た羽織着て、いい女抱いてラクに暮らそうじゃねえか。俺の右腕にしてやるから、どうだい?」
「…ラクに暮らす、か」
立ち止まった雅に、氏平が葡萄酒を注いだ盃を差し出した。
「さあ」
「……いや」
雅は視線を落とした。
「楽をしたい歳じゃねえし、汚えカネで買った女にしか相手にされねえ醜男でもねえ。キレイなおべべ着たところで…」
ゆっくりと視線を持ち上げた。
「すぐ汚れちまうだろうな。俺は何より『殺し』がしてえんだからな」
氏平の顔から笑みが消えた。
「カネより、女より、殺し…」
頷く雅。
「一種の病かもな…それも、斬り甲斐の無え素人を殺っても興奮しねえ。命のやり取りほどゾクゾクさせるやつは他に無えんだ」
「…お前って男は」
小さく首を横に振りながら、氏平は再び笑みを浮かべた。
「丁度いい、そんなお前なら涎を垂らして喜ぶだろうよ」
パチンと指を鳴らした。
「さあ出番だ。やれッ、頓鈍坊よ」
洋灯の影から姿を現したのは、七尺に達する巨体の天狗。剃り上げた頭、太い眉、その下に鋭く赤い眼。大きな鼻の下には金色の髭がフサフサ揺れる。
思わず雅は身じろいだ。
「頓鈍坊とは。噂にゃ訊いてる。四十八天狗の一人にも数えられた…」
「お喋りは要らん」
頓鈍坊が迫った。両手に握られた釵が唸りを上げる。
「うっ」
速い。飛び上がってやり過ごして尚、鋭い風圧が肌を切るようだ。
「逃げてばっかりじゃねえか」
脂ぎった鼻先をヒクヒクさせながら追ってくる。むんずと腸を掴まれたような圧迫感。さらに大きく見えてきた。
「こいつ…隙が無え」
雅の全身から汗が噴き出していた。
「う、動けない」
右から、いや左…無理だ、下手に動けば殺られる。
高みの見物、氏平が葡萄酒片手にあざ笑う。
「坊や、望みどおりの強敵だろ? 褌濡らしてんじゃねえのか、あ?」
歯軋りする雅が、チラリと氏平を横目に睨んだ。
そのとき。
「はっ」
大きな羽根でふわりと浮き上がった頓鈍坊が飛び込んできた。両手に持たれた釵がキーンと耳に衝く音を発しながら迫る。
「速いッ」
飛び退いても間に合わない。
「ええいっ」
刀を右からぐるり。釵を叩いて弾き上げる。しかし、左から襲ってくる刃先には間に合わなかった。
「ぐあっ」
ビン、と鈍い音。腰が砕けそうな重い衝撃。
続いてパン、と甲高い破裂音。
「あっ」
偶然か。
突き出された釵の先端は脇差を直撃、これを砕いたものの、お陰で雅は串刺しを免れた。
「それにしても…」
自慢の脇差はバラバラの鉄くずに。
「何て威力だ」
「怖い、のか?」
頓鈍坊が真っ赤な眼で覗き込む。
思わず身体が硬直する。まるで魂を抜かれそうだ。呼吸が明らかに浅く、早くなっている。
「ハア、ハア…」
ジリジリ歩をつめる巨大な敵を前に、雅の脚が震え出した。
「く、来るっ」
封じ込めていた恐怖というものが、体内でのたうちまわり始めた。
とてつもなく大きな妖気がビリビリ肌を刺す。
「怖いんだろ? 坊や…土下座して命乞いでもしてみろよ」
牙を剥き出し笑う頓鈍坊の声も、すでに遠鳴りのようにしか聞こえない。
自分というものが、どんどん小さくなってゆく。
凍りつきそうな背筋の寒さ。近づく死を意識したとき、雅は思わず目を閉じた。瞼が痛いほどにギュッと閉じた。
「あ、あ…」
何かが閃光した。
「ここは…?」
断片的に見えては消える荒野。累々たる屍。川の如き血の流れ。
ぐるぐると眩暈のように、淡い景色が揺れながら現れては消える。
「う、うあ。うああ」
にわかに、熱いものが腹の奥底から湧き立ってくるのがわかった。
ビクンビクンと身をうねらせる大蛇が全身を駆け巡る。
「ふふふ、うう、ふふふ…」
雅は笑い出していた。自分でもその理由は解らない。
「あははは」
身が震えた。今までとは違う、掻きたてる様な震えに全身が粟立つ。
鼓動は大きくなり、胸を突き破りそう。
そして、湧きあがった熱は全身に行き渡った。手足が心地よく痺れている。
「これだ、これを味わいたかったんだ」
見開いた雅の目は青く光っていた。
あんなに大きく見えた敵が、今は妙にちっぽけに見える。
「お、お前ッ。一体何者…?」
頓鈍坊は困惑し、今にも後退りをはじめそう。
「雅、だ。暗殺人の雅」
構えた刀は正眼。その切っ先はピタリと天狗の脳天に狙いを定めている。
「来いよ」
空気の一粒一粒、その流れまで見える。音が、気配がつくる波まで見える。
「来ないなら…行く」
スッと前に出た。
「ク、クアアアッ」
顔中に汗を滲ませた頓鈍坊がいきりたって襲い掛かってきた。
「ん?」
雅は正眼に構えたまま。
「ウスノロめ…」
薄紫色の視界の中、空気の波を撓ませながら敵が迫ってくる。
しかしその動きは、泥の中にはまったように遅く見えた。
「見る、とは。知る、とは。こういうことか」
勝手に身体が、手が脚が動く。ピタリと閉じたような静寂な空間の中で、敵がどう動くか、一歩先が見える。
「斬らせてもらう」
切っ先は、脳天正中から一分のブレも無いまま床まで真っ直ぐ。血飛沫を筆跡に描いた一文字が、頓鈍坊のを真っ二つに切り裂いた。
「ゥ……」
返り血を拭う雅の全身からは、どす黒い煙のようなオーラが激しく立ち上っていた。
「まっ、まさか…頓鈍坊が」
呆気にとられる氏平。雅がキッと睨んだ。
「あわ、何者、何者なんだッ」
目を丸くして恐怖に慄いたように、氏平は部屋の片隅に置かれた金庫に走った。
「ほ、ほら。全部やる、全部だぞっ」
扉を空け、積まれた小判をぶちまけた。
「これも、これもやる」
煌びやかな宝石、金細工の宝飾品、次々に出しては投げてよこす。
「だから命は、この命だけは…」
ばら撒かれた金品財宝の数々をじっと見下ろす雅。
「悪いな…さっきも言ったが、カネじゃ無え」
ため息をつきながら刀を再び擡げ、切っ先を氏平に向けた。
「負けん、負けんぞ俺はッ…」
顎を震わせ歯をカタカタさせながら氏平が鼻の穴を膨らませていた。
金庫の奥から取り出した火縄銃を構えている。
「こ、殺す。殺すッ」
銃口を雅に向け、引き攣ったように笑いながら引き金を引いた。
「死ねえ…えぶっ。ぬ……」
破裂音を轟かせ、グレーの硝煙を広げて飛んだ弾丸は、雅が咄嗟に構えた刀の峰に当たって真っ直ぐ跳ね返って飛んだ。
「あ……」
氏平の額には豆粒大の穴。
暴れた弾丸は彼の後頭部を激しくえぐって壁にめり込んだ。
「……」
上転した目、鼻、そして口や耳からもドクドクと真っ赤な血を流れ出させながら倒れた氏平は、もはや動くことはなかった。
急に力が抜けたようになった雅。刀を杖に歩いて標的の亡骸に近寄ると、仕事完遂の証となる髷を切り取った。
「やった、ぞ…」
ガサガサ、と背後に気配。
慌てて振り返った雅、その頬が緩んだ。
「お前たちか」
仲間たちが駆けつけていた。
「あれ、もう殺っちゃったのかい」
「でかい天狗、そして…ああ、あれが氏平か」
「確かに悪そうな顔してやがる」
「けっ、屍の悪口なんざ言うもんじゃねえぜ」
だが安堵も束の間。
文治が叫んだ。
「ヤバいっ。延焼するぞ」
氏平が携えていた火種から絨毯、カーテンに火が燃え移っていた。
「確かこの地下は…」
雅は見取り図を開いた。
「武器庫だ…このまま火薬に燃え移ったら…」
顔を見合わせる一同。
「オダブツ、だ」
「逃げなきゃ」
「どこへ?」
「来た道を戻るっきゃねえだろ」
「来た道、って…」
雅が首を傾げた。
「まだ妖怪たちがうじゃうじゃと…」
兆次が肩をポンと叩いた。
「倒したよ」
「え、え…全部? あれ全部殺ったのか?」
「ああ」
「や、やるじゃん…」
驚きのため息を漏らす雅を、四人が睨む。
「誰に向かって言ってんだい、雅」
「さ、急げっ」
五人は隠し通路を逆戻り。走って走って、お濠に飛び込んだ直後、陣屋は爆発して吹き飛んだ。
「ああ、ヤツがばら撒いた小判や宝石、拾ってくるんだった…」
■ ■ ■ ■
翌朝、五人は吉備路の岐路に立っていた。
「さ、お別れだ。みんな達者でな」
遠くを見つめる雅。
兆次が不思議そうに顔を覗き込む。
「は? お別れ? 勿体ねえじゃねえか。せっかくだ、また組もうじゃないの」
他の三人も相槌を打つ。
「そうさ。俺たち五人揃えば何だって出来る」
「まだまだ稼げるぜ、っての」
雅は首を振った。
「いや…」
それぞれの顔を見ながら、微笑んだ。
「お前らは最高だよ。ゆえに、お前たちとつるんでる間はどうしたって頼っちまう」
青く深い空を見上げた。
「俺はまだまだ自分が未熟だと知らされた。一人でこの剣をもっと磨かにゃならん…」
小さくため息をついた後、仲間たちに背を向けた。
「あばよ」
しばらくその場で互いの顔を見合ったり、道端の草をむしったり石ころを投げたりしていた四人も、やがてそれぞれ別の道を歩み始めた。
■ ■ ■ ■
「ひとは所詮、一人で生まれ一人で死んでゆく」
墓碑を前に手を合わせる雅。
「あなたはかつて、そう仰った」
かつて師と、父と仰いだ一人の男の墓前に跪いていた。
「わたしも、今わたしの道を歩んでいます」
手を合わせ、深く頭を垂れた。
「孤独を友として…」
第一部、終
つづく