暗殺人、蟷螂の翔
「風が乾いてる」
紺青の高い空、掃いたような薄雲が上空を西から東へ流れてゆく。
「一段と冷えるな」
雅と兆次、文治、三人の暗殺人は姫路の城下町に入った。
「絶景かな。空の青と、お城の白」
「たいした駄洒落だな、兆次」
「狙ったわけじゃねえよ。あ、その角を左。そうそう」
寺社が並ぶ通りを左に曲がれば、船場川が見える。
「大抵この河原にいるはずだ、ヤツは」
兆次が目を凝らす。
「今日は冷えるから、おそらく日なたの…ああ、いたいた」
サッと指差す先に人影が。
「ほら、あの橋の下だよ。秋は荒食いの季節だ。それにここの鯉はデカい」
まとった丹前はまるで女物のような派手な色合い。じっと川面をみつめながら釣り糸を垂らしている細面の男。
乱れ髪が色白な顔の前でフワフワと風に揺れている。
■ ■ ■ ■
―蟷螂の翔、二十四歳―
上方の遊郭、彼をひっそり産み落とした遊女は間もなく労咳で息を引き取った。
もとより父親が誰か知る由も無く、子宝に恵まれなかった廓の楼主・惣吉が養子同然に彼を育てた。
母の源氏名「菖蒲太夫」から「ショウ」と呼ばれた彼は、幼い時分から中郎として廓を手伝っていた。
年頃になって掛け廻し(集金係)を受け持つようになったショウは、十四になる惣吉の娘、お絹といい仲になっていた。
「俺が一人前になったらお前を…」
しかしある夜、ツケの清算を巡って揉めた侠客に匕首で襲われた際、思わずその場にあった鎌を持ち反撃のうえ殺害してしまった。
「マズイっ。殺っちまったよ…」
ショウが三日三晩その身を隠している間に、侠客の兄貴分の清造が廓に乗り込んできていた。
弟分のお返しとばかりに惣吉を刺殺のうえ、お絹を拐した。
状況を知り、慌てて清造一家の屋敷に駆け込んだショウが目にしたのは、何十人もの荒くれ者たちによって慰み者にされているお絹だった。
「許さねえ…」
怒りに燃えたショウは、その場の全員が完全に息絶えるまで、血の海の中で鎌の刃を振り下ろし続けた。
ふと我に返ったとき、お絹の姿はそこになかった。
■ ■ ■ ■
「すげえな…たった一人で全員殺ったのか」
「ああ、その界隈じゃ有名だ」
「ところで、お絹って娘は…?」
「身投げしたそうだ」
ひゅう、と詰めたい風が吹き抜けた。
「その後ショウは京の元締の下で暗殺人となったのさ。『翔』って字をもらって、な」
「あいつが、ねえ」
一見、優男の翔を見て首を傾げる雅。
「いいや」
兆次はニヤリとした。
「見た目で判断しちゃいけねえよ。手練だらけの京の裏稼業にあって、五体満足のまま独り立ちを許された唯一の男だぜ、翔は」
「ほう…」
「あん?」
翔は、近づいてくる雅たちを忌々しそうに睨んだ。
「野暮だな…」
ふう、とため息をついて釣り糸を手繰る。
「もうちょっと静かに歩けねえのか? 寄って来た魚が逃げちまった」
兆次が近寄る。
「悪いな、翔。だが魚釣りよりずっと稼げる仕事がある。乗らねえか?」
「……」
無言のままもう一度、釣り糸が投げ込まれた。
「…うむ」
糸がピクリと動いた。翔がつぶやく。
「どうせ小物、だ…」
引き上げた糸の先は、ピチャピチャ身体をくねらせる二寸ほどの鮒。
苦笑いしながら三人を見る翔。
「どうせ小物。お前さんの言う『仕事』ってのも、どうせ小物だろ?」
兆次は首を振る。
「いや大物だ。これまで一番の」
「ふうん…」
顔を背けた翔が言う。
「どっちにしろ、俺はその糞野郎と一緒に仕事する気は無え」
顔色を変えたのは文治。
「糞とは何だ、糞とは」
鼻を鳴らす翔。
「ほう。お前、自分が糞だとちゃんと判ってるじゃねえか」
「なにをっ」
立ち上がった二人が襟を掴みあう。
兆次が割って入った。
「待て待て、何だお前ら。何があった?」
翔の興奮具合は顔色を見れば判る。
「この糞野郎はなッ」
色白な頬が薄桃色に染まってゆく。
「クソ文治、俺の女を寝取りやがったんだッ。最低のゲスな犬野郎め」
「チッ、いつまでも女々しい」
殴ってみろとばかりに文治が顔を突き出す。
「何が『俺の女』だ。あれはただの湯女、誰とでも寝る商売女じゃねえか」
「その言い方も気に食わん」
一年前の出来事。
翔と文治が組んだ遠州・掛川での暗殺仕事。
下調べのため翔は現地・法泉寺近くの宿に寝泊りしていた。
一ヶ月ほど滞在するうち、翔は店に出入りする快活な娘、お美弥にすっかり惚れてしまった。
果てに、仕事で手にした金を元手に所帯を持って商売を始めようと約束まで交わしていた。
鼻の穴を膨らませて叫ぶ翔。
「いいか、美弥には十両渡してあったんだっ。二人の将来のために、と」
言い返す文治。
「まだ認めようとしねえのか。騙されてたんだよお前さん」
実際、美弥は温泉宿に住み込みの湯女で、掛川に宿をとっていた文治も上客の一人だった。
「その証拠に、あの後すぐ上方から来た三流役者に身請けされたんだ、あの女は」
認めない翔。
「次から次へウソ並べやがって。こんなヤツ信用できるかっての」
「信用してくれ、なんて頼んだ覚えは無えっ」
「じゃあ帰れ、お前とは二度と…」
「んっとに、いい加減にせいよ…」
呆れ顔の兆次。
「終わった話いつまでも引き摺ってんじゃねえよ。だいいち、鮒じゃ腹は膨れねえぜ?」
「む…」
翔の腹の虫がグウと鳴いた。
「ま、まあな…」
兆次はポン、と翔の肩を叩いて言った。
「いいか、飛び切りの仕事を持ってきてやったぞ。この雅ってのは信頼できる相棒だ」
「ほう。仕事…飛び切りの?」
「ああ。お前さんが目の色変えて喜ぶような強え相手だ。訊いたら涎が出る、こんな殺り甲斐のある依頼は滅多に無え」
翔はゆっくりと雅に近づいた。
「俺は、他人を信じねえことにしてる。だいいち、腕が判らんヤツとは組めねえ」
雅は腰のものに手を触れた。
「腕…試すかい?」
「試す? 答えが出たときにゃ既にお前さん、あの世だぜ」
「…どうかな」
睨み合い。
決して目を逸らすことなく、しかし同時に微かな足の運びや指先の仕草にも神経を研ぎ澄ませる。
「俺はそう気長じゃない」
先に動いたのは雅。
草履を脱ぎざま河原の小石を蹴り上げ、同時に刀を抜いて突進した。
「へえ」
読んでいたのか咄嗟の判断か。翔は瞬時に後方に飛び退いた。
雅が斬り上げた刃はシュッと水蒸気の跡を引きながら空を切る。
「ならば」
刀を返そうとした瞬間、ビーンと云う耳障りな音とともに動きが封じられた。
「ぬっ」
鎖が刀身にに絡みついていた。
巻き取るように引き寄せる翔が構えるのは大きな鎌。
雅は腰を下ろして抵抗するが、鎖は河原の大木に引っ掛かってちょうど滑車の要領。
鎌の刃に向かってどんどん引き寄せられてゆく。
「狙った獲物は逃がさねえのさ」
ニヤリと笑う翔。
「俺が『蟷螂の翔』って呼ばれる理由がわかったかい」
さらに腕に力を込め、ぐいと鎖が引き寄せられた時だった。
「なにッ」
雅は手を離した。鎖の張力によって吹っ飛んだ刀は翔の目の前を掠めて大木の幹に突き刺さった。
腰砕けになった翔は仰向けに倒れこみ、慌てて立ち上がろうとしたものの目の前にはすでに雅。
「うッ」
脇差を抜いて覆いかぶさる。刃先はピタリと翔の首筋に。
「ぬ…」
かすかに皮膚に触れたところで雅の動きが止まった。
再びニヤリと笑みをこぼしたのは翔。
「出来るな、貴様」
雅も、口元を緩めた。
「お前もな」
その胸には、翔の両袖から飛び出した鎌の刃先がぐいと食い込んでいた。
「いいだろう、貴様を信じてやる…」
やや厳しい表情で、翔は雅を見た。
「だがな、はした金じゃ俺は動かん」
「幾ら欲しい?」
「百両っ」
「バカ云うな、吹っ掛けるにも程がある。ひとり三十両までしか出せん」
まだ粘る翔。
「じゃあ五十で…」
「いいや無理だ。三十より先はビタ一文…」
翔は腕を組みながら呟いた。
「三十両か…それっぽっちで買い戻せるかな」
「ん? 買い戻すって、何をだ」
「あ、あの、お美弥を…」
「はあ?」
目を丸めた雅。
「未練がましいヤツだ…あ、ああ、わかったよ。この仕事が片付いたら、その美弥って娘を探すのを手伝ってやろうじゃねえか、な」
「本当か?」
「本当だ。な、お前も手伝うよな?」
振り向いた先には、苦々しく頭を掻く文治。
「ああ、わかったよ」
「いいだろう。取引成立」
翔は差し出された雅の手をガッチリ掴んだ。
「ところで、もう一人加える気は無えか? 俺が今組んでる男なんだが…」
翔の提案に、雅は首を傾げた。
「人数合わせなら要らねえよ」
兆次も同調する。
「ああ。よっぽど強いヤツじゃなきゃ、足手まといなだけだ」
薄ら笑いを浮かべながら翔が言う。
「俺と五分でやり合えるのはお前ら以外にゃ、その男しかいねえ」
雅と兆次、文治は顔を見合わせた。
「そうだな…祭りは人数が多いほうが盛り上がるってもんだ」
「で、『その男』ってのは…?」
「まあ、見てのお楽しみさ」
翔の案内で一行は姫路の町並みを後、北上し播但道に入った。
つづく