その男、暗殺人(アサシン)
甘い花―例えるなら梔子―と、脂ぎった男の汗を一晩、鉄鍋の中でじっくり詰めたらこんな匂いになるだろうか。
夏の夜、歓楽街。
鼻をつまんでは顔をしかめる若い二本差の男は、月の光が煌く旭川の流れの向こうにそびえる漆黒の天守閣をぼんやり眺めていた。
「闇に溶ける、か…」
とびきりの笑顔を振りまく遊女、鼻の穴を膨らませて饒舌な男。往き過ぎる人々は誰も、他人などにはこれっぽっちの興味も無い。
岡山城の本丸から南、さほど遠くない川中島にある藩公認の遊郭街。ここで刹那の快楽に身を委ねる者たちに身分の区別は無い。
スウッ。
真夏に似つかわしくない冷たい夜風に、男はピクリと眉を動かした。
「来る…か」
川辺に立ち尽くしたまま、そっと刀の柄に手を伸ばす。
凍りつくような寒さが項に貼り付いた。
「いる」
振り返った時にはその女はすぐ背後にいた。
美しさの中に得体の知れぬ冷たさが漂っている。
「待ったかい?」
「多少、な」
男は黙って河原へと歩き出した。
背中の冷気が知らせる。女が後をついてきていることを。
「あんた、若いのに物好きだねえ。こんな河原で…」
「……」
何も答えないまま、男は河原の古びた小屋の中へ。
隙間から漏れ入る青白い月光が、伏目がちな女の顔をまだらに照らしていた。
「さあ、早く」
そっと囁き、女は帯を解いた。
「悪いが…」
男は背を向けたまま。
「俺は、人間の女しか抱かねえ」
「へえ」
女の声色は一段低く、太いものへと変わった。
「いい男なのに、勿体無い…」
男の背に、ズシンと重い妖気がのしかかる。
「死に急ぐなんて」
振り返りざま、男は刀を抜いた。斬り上げるように一閃、月光がビラリと反射した。
「ひひひ」
着物を翻しながら、女はいつ早く飛び退いていた。
「食ってやるよ、坊ちゃん」
否、もはや「女」ではなかった。
肩から生えた六本の節ばった腕には剛毛、先端には黒光りするカギ爪。
手の先から糸を引きながら無数の蜘蛛が飛び出し襲い掛かってきた。
「絡新婦、め」
身を屈め、ギリギリで蜘蛛をかわす。
首筋にピリピリとした痛み、そして痺れ。
「毒を吐く妖の蜘蛛を操る…噂は本当だったな」
男は剣を返して立ち上がった。
「それだけじゃなかろう。火を噴くとも訊いたぞ」
「ほう」
宙を舞い炎を吐き迫る妖の蜘蛛たちを糸で操る絡新婦。
「よくご存知で」
男はニヤリと微笑んだ。
「哀れな」
ぐるりと身体を一周、まるでスローモーション。描かれた切っ先の軌跡が炎をかいくぐる。
「蜘蛛が唯一の友達とは」
体節を真っ二つに切り裂かれた妖蜘蛛たちは吐き掛けの炎もそのままにボトリ、ボトリと床に落ちた。
「もういなくなっちまったが、な」
夏の乾いた風が炎を吹き流す。
小屋は火に包まれた。
「やるじゃない…誰に頼まれたんだい?」
「依頼人を明かす殺し屋なんかいねえよ」
「だろうね。だがあたしの正体を知った者は」
絡新婦は目を剥きながら大きな口を開けた。
「殺す」
喉の奥から、網状の蜘蛛の糸が吐き散らされた。
「ぬっ」
すんでのところで避けた男、その背後にあった柱は蜘蛛の糸でがんじがらめ。ほどなくシュウシュウと黒煙を上げて融解していった。
(あれに絡まったら一巻の終わりだ)
次々に吐き出される蜘蛛の糸。
男は左右にステップを踏みながら糸をかいくぐって距離を詰め、懐に潜り込んだ。
「口は…災いの元」
草履を片方脱いで絡新婦の口に突っ込んだ。
「あぐ…むぐ…う」
動きが止まったその一瞬。
真横に一閃された剣先が、差し込む月を映してキラリと光った。
美しかった女の首は、ゴロリと床に転がった。
斬首の瞬間に時が固まったかのようにピクリとも動かぬ絡新婦の首。その口は草履を咥えたまま。
「こいつは返してもらうぜ」
粘る蜘蛛の糸を丁寧に払い落として再び足に履き、男は燃え盛る小屋を後にした。
振り向かずに去る男の背で、小屋はガラガラと音を立て焼け崩れた。
「な、なんだ。火事だ、火事だっ」
遊郭街の連中が騒ぎだした。
「心中か? 不始末かい?」
老若男女、野次馬となって河原に駆けつける。
「今夜は風が強い、火消しを呼べ。延焼したら大変だ。ほら早くっ」
怒号飛び交う中、人の波に逆らうように男は花街を去っていった。
「兄さん…」
流れる景色、人混みの中に声が通り過ぎる。
「兄さん、兄さんってば」
花街の喧騒、その渦の中で誰かが呼んでいる。
「……」
誰かが、見ている。
「ハッ…後ろ。か」
男は歩みを止めた。
そっと刀に手を伸ばしながらゆっくりと振り向いた。
「誰だ?」
背後に立っていたのは、黒頭巾を被った背の低い男。
「おさむらいさん」
くぐもった声が頭巾の中から聞こえてきた。
「大した腕前だ」
「腕前。なんのことだ…」
ぐいと柄を握る。鯉口を切る小さな金属音は、賑わいの中に埋もれた。
気付いてか、気付かずしてか、黒頭巾はそのまま無防備に立ち尽くしている。
「その腕を見込んで、ひとつ仕事を…」
「仕事? 何を言ってるんだ、お前は」
ゆっくり振り向くと、頭巾の奥では見透かしたような笑みがのぞいていた。
「殺しの仕事を、頼みたい」
「殺しだなんて…」
柔和な、しかし不敵な隙間からじっと見ていた。
「隠さなくっていいんです。知ってますよ、あんた暗殺人だ」
ひゅうと冷たい風が通り抜けていった。
「ねえ、雅さん」
弘化元年、文月も終わろうという暑い夏。
雅、数えの二十三。
つづく