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あれから数日、さざれは紫苑と話せないままだった。
紫苑さんを、傷付けてしまった。
何か、彼女を深く切り裂く様な事を言ってしまったのだ。
あの会話の中で。
そもそもは、自分が『彼女を深く知ろうとした』からだ。
深く知ろうとしたなら、隠された傷を暴き、触れてしまう事だってあり得る。
まして、自分は彼女の『悩み』を知ろうとしていたのだ。
不用意にそんな事をすれば、こうなる可能性だってある。少し考えれば分かる事。
何が悪かったのかは分からなくても、それだけは確かだった。
とにかく謝らなければ。
そう思っても、その機会は一向に訪れない。
対『大規模時間改変事案』ミッション開始の日が迫り、さざれ自身の業務が忙しくなって来たのもあるが、それだけではない。
あの日から、さざれは明らかに紫苑に避けられていた。
今日も通路で、恐らくトレーニングエリアへ移動する最中のエージェント隊員のグループの中に、紫苑の姿を見つけた。
さざれが挨拶すると、他のエージェント達はにこやかに挨拶を返して来るが、紫苑だけはまるでそこに誰もいないかの様に通り過ぎようとしている。
「あの……紫苑さんっ」
思い切って声をかけるが、完全に無視して彼女はすれ違った。
集団の後ろにいた男性隊員が、不安げな顔をして紫苑を目で追う。
「サポーターに挨拶も出来ねえのか、あの馬鹿……すみません、気にしないで下さいね。あれはいつもああなんす」
女性隊員が紫苑を罵った後、気遣う様にさざれへ声をかけて来る。
彼らはさざれと同い年くらいで、エージェント隊員の中では最若手に見えた。
一人通路に残されたさざれは、しばしエージェント達の後ろ姿を見送る。
その間、紫苑は一度も振り返らなかった。
彼女は本当に、私の知っている紫苑さんなのだろうか。
そんな疑問が脳裏を掠め、さざれは本から顔を上げる。
あの日、彼女が見せた眼差し。
激しく、暗い感情が込められていた。
だけど、怒りや悪意などとも、軽蔑や嗜虐とも違う、もっと異質な世界のもの。
まるで自分がゲームのキャラになって、画面の向こうのプレイヤーから見られている様でもあった。
『本当はいない』存在に感情移入している様な、行き場のない情念。
彼女が私の知っている紫苑さんでなければ――本当は一体、『誰』だというのか。
さざれはプチシューを一口頬張って、開いたままの本に目を落とす。
「特別勤務――ですか?」
「無理にとは言わないけど、このブロックでお願い出来るのは、早瀬さんしか残ってないんですよ」
今朝、出勤してすぐに班長から振られた話。
ミッションを間近に控え、最下層エリア、ターミナルゲートでの泊まり込みの勤務だと言う。
いくらか機密度が高いとは言え、やる事は基本的にここと変わらない書類整理だった。
ミッションが開始され、第一次先遣隊の全隊員の出発が完了するまで、ターミナルゲートからは出られない。
逆に言えば、一般職員が最下層エリアに足を踏み入れられる、数少ない機会でもあった。
さざれに話が来たのも頷ける事だった。彼女以外の誰も、この勤務内容に良い顔はしない。
「ほら、正面からの画像しか見られなかった転送機だって、実際にエージェントが乗って作動する所も見られるんですよ。早瀬さんならそういうの見たいんじゃないかなって」
班長のその言葉も的を得たものだったが、さざれが二つ返事で引き受けたのは、それだけの理由ではなかった。
特別勤務にあたって送られて来た各種資料ファイルには、既に目を通している。
その中には、『総務部内であっても、班長や直属の上司であっても、口外出来ない内容』も多く含まれていた。
それとは別に、班長から手渡された紙のマニュアルブックも読み終えたさざれは、本棚に長く眠っていた時間航行理論の本を引っ張り出して読み漁っていたのだ。
『時間と時間´』『過去干渉による可能域存在の振幅』などと題されたそれらの書籍は、時間航行とそのルール作りの基礎となり、同時に時間改変犯罪の基礎ともなってしまった、黎明期の時間航行論文であった。
この仕事に携わる者なら一度は読んだ事がある――とも言われている書籍だが、内容を一通り覚えている者は限られてもいた。
さざれも、その内容の大半は今まで忘れていた。
何を言ってるんだろう私は。
あの眼差しも、あの拒絶も、私の知りたかった紫苑さんだ。
私のずっと見て来た、あの人の顔の奥にあったものがそれだったのだから。
何が出来るでなくとも、それを受け止めて、聞いてあげられる人になりたかったんじゃなかったのか。
そして今の私には、あの人に言わなくちゃならない事がもっとある。
断続的なアラーム音と共に、目の前の宙空に『着信 実家』の文字が赤く浮かぶ。
指で文字をなぞると、それは緑に変色し、母親の声が耳に飛び込んで来た。
「もしもし。さざれ、元気しよんね」
「しよるよ。何ね、ひさしぶりじゃあ。母さんこそ元気しよるん?」
「――――あんな、あんた今年もやったんか?」
「何ね」
「……黙祷」
まるで目の前にいるみたいな母の声は、心配げなものだった。
「広島でも色々言われとったじゃろ。東京じゃ、そういうの分かる人、もっと少ないん違うか」
「東京じゃのうて、TiNaTOA特別区。どっちかと言えば千葉じゃけ。それに……目立つ所でやっとるんと違うし」
「そう言うても、こういうの『他人に迷惑かけなければいい』でいつも済む話じゃないけえ。広島でも黙祷してた人、今年も何人か絡まれとったんよ、『半島の工作員じゃ』『売国奴じゃ』言うて」
「今年もかい……何百年、そういうの続くんね」
「だからね、くれぐれも無理はせん様にしんさい。あんた、こういう時、本当意地っ張りじゃけえ」
「大丈夫じゃ、ここどこじゃと思っとる。TiNaTOAよ? 歴史への心構えがそこらと違う……きちんとな、うちの言いたい事、理解してくれる人だっておったし」
さざれは手元の本へ視線を落とす。
『時間a´の消失は時間aの観測において成立する。時間a´の観測においてその消失は観測され得ない』
何度も目を通したその一文。
さざれは、点滅する通話アイコンへと声をかける。
「あんな。母さん」
「何ね」
「うち、TiNaTOAで働いてよく思う様になったんよ。うちが生まれてから今までも、『歴史』なんじゃって」
『変更点前の歴史aから歴史a´への移動によって、重複存在は消失する』
「うち、広島に生まれて、父さんと母さんの子に生まれて、この仕事を目指したり夢が叶ったり、そういううちの歴史が、本当幸せじゃったと思っとるよ」
「何ね、いきなり……そんな、まるで遺言みとうな。やめんさい」
「でもな、今、言っときたかったんよ」
「あんた、疲れてんのと違うん? 今度の休みにでも、一度戻って来んさい。こっちじゃあIPCタワーパーク(※)のライトアップも始まっとるんよ。最新のキャラクターホロビジョンも入れて、去年よりも御伽の国みとうしよるんとよ」
「うん……ぶち見ときたいのう。今度、帰るよ。元気でな」
『以下は、時間航行とその観測に携わる者には、最低限必要な認識となる』
『自分が時間aか時間a´かは、別の時間よりもたらされる以外に知り得ないものである』
『時間軸の改変及び復旧とは、観測者においての消失ではあっても、主観的な消失ではない』
「おはよーございまーすっ!」
いつにも増して元気な挨拶で総務部フロアに入って来たさざれは、机の上で残り僅かになった書類を、着席すると同時に片付け始めた。
今日は、残った仕事を終えたら、特別勤務の準備を始めなくてはならない。
なので、こんなに急いでいるのだ。
「凄いテンションですよね、これから昼夜なしの仕事なのに……さすが、早瀬さんというべきか」
「へへっ、やはり楽したい気持ちより、生ターミナル見たい気持ちの方が勝ってしまいます、私」
感心した様に見つめる同僚へ、さざれは照れ笑いで答える。
「泊まり込みと言っても、徹夜じゃなくてちゃんと寝室も用意されてますから」
「でも早瀬さんは、朝に元気いい時って、必ず夕方とか居眠りしますよね」
「ぐっ!?」
「――向こうでも、気を付けて下さいね?」
「……はい」
今日も一日、昨日の続きの私で頑張ろう。
過去を振り返り、未来を見つめ、そして、あの人に会いに行こう。
「もう一週間、この有様だ」
真っ暗な部屋。
湿った空気。
剥き出しの壁に響いて聞こえた、遠く囁き合う声。
「正気に戻る気配は、全く見られない……叫びながらのたうち回って、食事も取らず、酷いものだよ」
他人事の様に、床を這いずりながら聞いていた。
「それでも生きているだけ、まだ良い方なんです……たった今、5人目の自殺者が出ました。17号室です」
「死ぬよりはマシと言ってもな……この状態が続くなら、彼女も、それに応じての移送を考えなければ」
紫苑は跳ね起きた。
荒い呼吸、目の奥と身体の節々にこびりつく鈍痛。
全身が汗ばんで気持ちが悪い。
ここに帰って来ると必ず一度は見てしまう、過去の夢。
しかし、今回は3日連続だった。
早瀬さざれとあんな話をしてから、ずっとこうだ。
情報収集目的の会話、確かにそれなりの収穫もあった。
だが、迂闊だったと今では思っている。
さざれの言葉から、彼女の望んでいる会話がどんなものか、容易に予想できた筈。
――ただでさえ、彼女は『あの子』に近いのだから。
そんなことを思うだけでも、胸をかきむしりたくなる。
更に悪い事に、さざれは『より』積極的な性格で、そして、『より』勘が鋭かった。
自分でも分かっている。
本当は、さざれが似ていたからこそ、話相手に選んだのだと。
そして、自分はそういう人間と深く関わってはいけなかったのだと。
昨日、通路でさざれとすれ違ったが完全に無視して通り過ぎた。
それから、彼女には一度も会っていない。
もうすぐ二百年前の過去へと出発し、このまま会う事もないだろうが、それで良かったのだ。
さざれは紫苑の事を知っていたが、紫苑はさざれの事など全く知らなかったのだから。
前回の帰還でも前々回の帰還でも、『彼女とは』朝食の話などした覚えもない。
彼女の知っている『私』は――私じゃない。
起こした身体を再び横たえるが、到底眠れそうになかった。
紫苑は寝直すのを諦め、ベッドからクローゼットへ向かう。
(※)「IPCタワーパーク」 IPC:Industrial Promotion Center
本来の歴史での産業奨励館(原爆ドーム)とその周辺。
「焼けなかった産業奨励館」が高層タワービルにリニューアルし、その周辺が広い公園スペースとなっている。