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「知ってますか? 原子爆弾って本当は、その前の日本とアメリカの戦争で、広島に一番最初に落とされる筈だったって」
紫苑は肩をぴくっと震わせて、足を止めた。
さざれは彼女の反応を見ながら一緒に足を止めて、言葉を続ける。
「何度も飛行機が墜落したりして、結局一度も落とさないまま戦争が終ったんですけど。私の家のご先祖様、その頃まだ学生だったみたいですが、亡くなるまで言ってたそうです。本当はわしらがああなってた。わしらの代わりにあの人達の所に落ちた。だから、あの人達の事はわしらの家族の様に忘れたらいかんのじゃ……って。だから、まあ、朝ご飯と並ぶ我が家の二大家訓って感じでもあるんです」
先祖の言葉を再現する所で、やたら自然に訛ってしまっていたのと、朝食の話も紫苑に熱弁していたのを思い出して、最後は照れ臭そうに笑いながらだった。
「ごめんなさい」
紫苑に突然謝られて、さざれはびっくりしつつ聞き返す。
「えっ、ど、どうしたんですか」
「あなたがとても大切にしている事だった。なのに私、何か不躾な疑うような聞き方してしまっていたから……」
謝罪の理由を聞いて、さざれは両手を振りながら慌てる様に言った。
「そ、そんな! 謝る事じゃないですよ! やっぱりそう聞いて来る人って多いんです。だから、いつもの事って言うか……やっぱり、そういう反応が普通なんだと」
「それだけ、傷付けられて来たって事でしょう? そういう痛みは、何度味わおうが慣れるものじゃないわ」
紫苑の言葉にさざれは息を呑む。
ずっと昔は、意地悪な同級生や教師から同じ事で執拗に問い詰められ、バカにされたりもして、怒ったり泣いたりした事もあったが、自分でもすっかりそんな事は忘れていた。
親や仲のいい友達は「程度の低い人間の言う事だ。気にするな」とアドバイスしてくれて、それはそれで間違っていなかったとも思うが、紫苑の様に言われたのは初めてだった。
ああ、やっぱり、この人は――
改めて、この人の事をもっと知りたい、この人に自分の事をもっと知ってほしい。
強くさざれは願った。
さざれは小さく一歩足を踏み出してから、ゆっくりと歩き始める。
紫苑は少し距離を置いて彼女について来ていた。
「私が機構に入りたいって思ったのも、そんな話聞かされていたからかもしれないですね」
「あの時、こうなっていたかもしれないって話?」
「はい。歴史には分かれ道がいくつもあって、でも私達の通った道は一つしかなくて、その積み重ねで今があるみたいな。今はそれを本当に行って、見て来る事が出来る訳じゃないですか」
さざれは振り返って、紫苑の問いに答える。
二人はゲートが設置されている前へと出た。
ゲートの先は有料の展望台で、ゲートの向こうにオブジェの様な曲がりくねった階段が柱に支えられて上へ伸びていた。
有料だが、TiNaTOA職員は無料で入れる。さざれが足を踏み出すと、ゲートは黄色く光って開いた。
後ろを通り過ぎた人が、『TiNaTOA職員の通過』を示すその光を、少しぎょっとした顔で注目する。
TiNaTOA庁舎を中心に作られたタワー群都市で、住人の大半が機構と関係する企業や政府機関の人間ばかりだったが、その中でも機構に直接所属する職員は、少数のエリート的存在だった。
さざれの様な一般職員でさえそうなのだから、次に紫苑が通った時の、『エージェント隊員の通過』を示す紫の光がどう映ったかは窺い知れない。
階段を上って辿り着いた展望スペースは、床一面を覆った水が中央の泉から全方位へ勢いよく流れ、縁で滝となって落ちていた。
勿論、本物の水なんかではなく立体映像である。
その他にも、立体映像で色々なものが空中に漂っていた。
色鮮やかな現実に存在しない鳥や空想上の動物である事もあれば、とても小さい惑星や恒星である事もあった。
水が滝となって落ちる床の縁から、さっきよりも広い視界、タワーを中心に広がる足元の機構都市全域と、東京を含む周辺地域が一望出来た。
「まだまだ、本当に行ける人は限られているけど……それでも、『時の流れに関われる』のに魅かれたんです」
羽の生えた毛玉みたいな何かと掌で遊びながら、さざれは話の続きをする。
立体映像であるが、さざれの動きに反応して毛玉は逃げたり、逆にまとわりついたりと、そこにいるかの様な動きを見せる。
「だけど、その分かれ道を本当に変えようとする者も出て来る」
隣に並んで歩いていた紫苑が呟く様に言った。
さざれは、それが自分への返答ではない、紫苑が初めて話す「自分の話」である事に気付いた。
「……エージェントの人達は、そういう事件にも直接ぶつかっちゃうんですよね。紫苑さんの苦しみもそこにあるんですか?」
さざれはついはしゃぎたくなる気持ちを抑え、紫苑が自分にしてくれた様に、じっくりと彼女の話を聞いてやり誠実に答える番だと心した。
自然と口調は勤務中の様な、サポート職員っぽい落ち着いたものに変わる。
「自分の利益や都合だけで変えようとする人もいるでしょうけど、本当にそれが良い事だと信じて変えようとする人もいる。そして、変わった歴史が本当の歴史より良いものだったかもしれない。そんな所で悩んでいるんじゃないですか?」
「そんな事まで、考えているの?」
「だって、サポートですから」
胸を張って口に出してみると、本当に自分が普段から誇りを高く仕事する職員だった様な気がして来るから、不思議なものだ。あくまでも気がするだけだが。
しかし、紫苑の悩みや垣間見せる悲しみに向き合いたいという気持ちも、本物だった。
さざれは、そのタイムパラドックスや歴史の他の可能性について、自分が考えていた事を素直に彼女に伝えようと思った。
「ね、紫苑さん。私がいて、紫苑さんがいる、この今もそんなに悪くないし、紫苑さんやエージェントの人達は、この今を積み重ねる歴史を守ってくれているんだと……私は思う…ん……」
さざれは最後まで言う事が出来なかった。
紫苑は顔を大きく歪め、今にも泣き出しそうな、すがる様な表情をしたのだ。
同時に、さざれは自分の言葉にも何か引っ掛かるものを感じていた。
何か重大な事を思い出しそうな気がする。
だけど、その正体はやはり思い出せない。今は紫苑の様子の方が気がかりだった。
さざれが声をかけようとするより先に、顔を伏せ、再び顔を上げた時にはその表情は消えていた。
「……紫苑さん?」
「エージェントだけじゃないよ。歴史を監視し、守るのは機構全体でやってる仕事。それはあなたも関わっている事。それがしたかったからあなたは機構に入ろうと決めたんでしょ?」
「そっ……そうなんです! だけど…今……」
「気にしないで。少し……嫌な事、思い出しただけだから」
「気にします。私、今はその話をしたいんですから」
二人は展望台の端まで来ていた。
さざれは立ち止まって、少しだけ紫苑に距離を詰めた。
表情を隠す様に顔の横にかざしていた彼女の手を自分の両手で取る。
「サポートだから、じゃありません。紫苑さんが私の話、聞いてくれたみたいに、私は紫苑さんの話を聞きたいんです」
「私の……話?」
「紫苑さんの悩みの話です。紫苑さんがここに帰って来る時、もっと笑顔でいられる様に」
紫苑の話を聞くと言いながら、また結果的に自分の話ばかりしている。
それは自分でも十分に分かっていた。だけど、まず自分の思いをぶつけないと彼女はこれ以上話してくれない。それをより切実に分かっていた。
「ねえ、紫苑さん。悩む人は頭が良くて……そして、優しい人なんだって、私、思うんです。紫苑さんは、エージェントの仕事で関わった色々な人達の事をいっぱい考えて、それで辛く悲しくなっちゃうんだって。それは決しておかしな事なんかじゃなくって、紫苑さんの優しさだから」
しおんの手を両手で握ったまま、さざれは訴える様に語りかけた。
具体的な彼女の悩みは未だ何一つ分からない。
それでも、今まで気付いた分だけでもこれだけの事は言える。
「間違っている……あなたの言っている事は全て、間違っている……私は、優しくなんかないわ……」
紫苑は表情を強張らせた。小声で反論する彼女にさざれは小さく首を横に振った。
明らかに彼女は動揺している、こんな彼女を見るのは初めてだった。
空気も少し変わって、自分を拒絶しようとしている気配も感じられて内心少し気圧されたが、ここで怯んではいけないと自分を叱咤する。
彼女の反応は、彼女の悩みの核心に自分がしっかりと迫っている証だと思ったから。
「優しいですよ。私の話だってきちんと聞いてくれるし、だから、私にも紫苑さんは――」
「――やめてっ!」
どうやったのか気付く事も出来ないまま、両手から紫苑の手が消え、続けて身体が後ろへよろける。
軽く突き飛ばされたのだと知るのに、少し時間がかかった。
「紫苑……さん?」
紫苑の急激な変化と行動に、さざれは呆然とするしかなかった。
彼女の様子は明らかにおかしかった。単にさざれの言葉を否定しているという反応ではない。
さざれにそう言われる事を、全力で拒んでいたという方がより正確だった。
「やめて……そんな馬鹿な事言わないで……! 私を知ろうとなんて……受け止めようとなんてしないで!」
「紫苑さんっ……」
紫苑は両足を踏みしめる様に立ちながら、力強そうな姿勢とは逆に顔を伏せて消えそうな声でぶつぶつと呟いていた。
もう一度、さざれが彼女の名を呼んだが、それが聞こえている様子もない。
「そんなこと、あるわけない……だって……私は……あなたを……」
その先、紫苑は口を二三度ぱくぱくと動かして、何かを言いかける。
何を言おうとしたかまでは、さざれには分からなかった。
顔を伏せたまま、紫苑は踵を返して展望台出口へと向かって歩き始める。
呼び止めようとしたさざれは、一度だけ振り返った紫苑の視線に、その声も手も止まった。
今の彼女は完全にさざれを拒絶していた。
端正な人形の様な顔には一切の感情がなく、眼だけがぎらついた意志を揺蕩わせている。
ほんの一瞬だけだったが、初めてさざれは彼女に恐怖を抱いた。
敵意とか怒りとかではない、もっと理解しがたい、自分とは異質な「何か」への恐怖だった。
気付いた時には、紫苑は階段を下り始めていた。
他に誰もいない展望台には、呆然としたままのさざれが一人取り残されていた。




