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赤く薄暗い空の下、ぽつぽつと照明が点き始めていた。
ターミナルの透明な壁からは、庁舎を見下ろす様に並んだ鏡面の塔と、海の向こうに広がるイーストタウンの摩天楼とを一望出来る。
定時より少し遅れて仕事を終えたさざれは、廊下の終わりにあるセキュリティゲートを通過し、朝も通ったエントランスロビーへと到着した。
「あれっ」
少し驚いて、思わず声が出る。
ガラスの壁の前に、紫苑が佇んでいた。
彼女はどこか物憂げな表情で、形作られて行くイルミネーションに見入っている。
さざれが声をかける前に、紫苑は気付いて振り返った。
「ああ、紫苑さんっ。お疲れ様です。今、お帰りですか? 私もちょうど――」
ぶんぶん手を振りながら近付くさざれに、紫苑は微笑みながら答える。
「偶然じゃないよ。少し早く終わってね、待っていた」
「へっ? 『待っていた』って……ひょっとして、私を……ですか?」
紫苑は頷いた。
「良かったら、一緒に食事でもと思って。方向は西B3で良かったよね」
さざれは一瞬、ポカンとした顔で紫苑を見ていた。
だが、おもむろに胸の前で両手を握ると、勢い込んで聞いて来る。
「つまり……デートですね? これはっ、紫苑さんとデートなんですね!」
「……え?」
目を輝かせてはしゃぐさざれに、今度は紫苑がポカンとした表情を浮かべていた。
二人が来たのは、第5高層タワーで隠れた評判のそばと天ぷらの店。
紫苑が現代に帰って来た時はよく来るという店だった。
「22世紀の夜景は、懐かしかったですか? 何かすごく『感動した!』みたいな顔で見てましたよね」
「半年近く、明治時代の東京にいたから……向こうでは、ビルなんて一つもない煉瓦と木の町に、ガス灯が灯るの。それを毎日見ていた」
「ふええっ、私はそれ見てみたいです。紫苑さんも、当時の服とか着てたんですか?」
「うん。袴とか」
「きゃーっ、見たい見たいー! 今度、撮って来て下さい。バイザーショットでぱちっと」
「第2級規定違反だよ……」
そう言いながらも、紫苑はクスクス笑っている。
彼女の笑いなんて、庁舎の中では滅多に見る機会はない。
それ故に、一般職員の間で彼女が誤解されているとさざれは思っていた。
「紫苑さんがどうして誘ってくれたのか、本当は分かっています」
笑いが途切れた頃、さざれが話を切り出す。
一度は話さなければならない事だと分かっていた。
「え?」
「これも、エージェントのお仕事なんですよね」
「……」
時間改変事案が発生し、エージェント隊員が招集された時、改変された時間軸での「現在」を可能な限り情報収集する事。
それは、彼らの任務の一つだった。
コンピューターで収集・分析される大きな出来事や歴史の概略ではない、自分の目で見聞きできる範囲の、人の声や空気と言ったものがそこでは重視される。
一般職員の中でも彼女に積極的に構って来る、そんな自分が話し相手に適任だと思われたのだ。
紫苑が自分を選んだ理由は、たまたまだったのだろう。
さざれはそう思っていた。
「大丈夫ですよ、私だってTiNaTOA職員です。エージェントの皆さんのサポートがお仕事です。是非、なんなりと聞いて下さい」
さざれはドヤ顔を作ると、自分の胸を拳で叩いて見せる。
世間話のレベルでだが、『現代の日本』についても話をした。
と言っても、話すのはさざればかりで、紫苑の口から彼女の知る『現代』の話は出ない。
これがエージェントのルールだというのも、さざれは知っていた
大半は紫苑が会議で聞いた話や、彼女の『現代』と同じものだったみたいだが、時折そうでないらしいのもあった。
1960年代に日本が核保有国となった事。
1990年代にアメリカとの共同軍事行動で、中東に日本の中性子爆弾が投下された事。
これを聞いた時、紫苑の顔色は大きく変わった。
『日本軍』というごくありふれた単語にも、紫苑は一瞬訝しげな顔を浮かべた。
「時間改変が起きたら、ニュースでも報道するの……?」
「いえ、時間改変の発生そのものは報道してないです。秘密というより、一般では、起きた事も復旧した事も知覚出来ないからって事です。ただ、時間改変を企てたり実行したりした個人や組織について、この時代で発見された資金や残留物、この時代で拘束された人間なんかは報道されます」
「そう……」
「私たちも、発生した事は勿論聞きますけど、何がどう変わったのかは知らされません」
その他、文化や流行、生活用機器の発達などについても話したが、紫苑は特に顔色を変える事もなくうんうんと聞いていた。
「バイザーのインターフェースが微妙に違うかな……デザインやタッチモーションが……少し可愛くなってる」
ふと宙を指で撫でながら、そんな事言う紫苑にさざれは驚いて尋ねる。
「え……いいんですか、そんな話して」
「少しならね」
悪戯っぽく笑う紫苑。
こんな彼女も、庁舎内でのユニフォーム姿の時には見られないものだった。
「んー、私の勘に狂いはありませんでした。紫苑さん、イメージ通り和食派なんですねえ」
「そういうイメージなの……」
「そうですっ。山菜の天ぷらなんて、わたしゃ生まれて初めて食べましたよ……第3棟の高層コートは何度も来てる筈ですけど、あんなお店があるなんて、今まで気付きませんでした」
「高層コートって一口に言っても広いから、人によって歩く場所も見るものも違うよ」
「そう、そうなんですよね! 同じ場所でも、そこは人によって違う世界に見えているんですよ!」
さざれは感慨深げにうんうんと頷く。
そんな彼女に、紫苑は首を傾げる。
「今の話のどこに、そんなに頷く所があったの……?」
店を出て、行きかう人で賑わうフードコートエリアを歩くさざれと紫苑。
二人は、鮮やかなまでに対称的だった。
冷静と言えば聞こえはいいが、感情表現が人より乏しく見える紫苑。
そして、これまたどう見ても人一倍、感情表現の過剰なさざれ。
さざれもその辺は自覚していたが、彼女にとって大した問題ではなかった。
紫苑が帰りにわざわざ自分を待っていて、食事に誘ってくれた。
どんな理由であれ、彼女が自分に少しでも心を開いているという事に思え、それが嬉しかった。
でも、紫苑さん、またあの顔だね。
さざれにとっても、彼女とここまで色々な話が出来るなんて、本当は予想外の事だった。
紫苑に一方的に話しかけ、何かにつけ構って来る、ウザがられても仕方のない相手。
彼女から見た自分は、そういうものでしかないかもしれない。そんな自覚もあった。
だけど、こうして彼女の方から歩み寄って来てくれた。
紫苑は一般職員の間で噂されている程、冷たい訳でも、他人に無関心な訳でもない。
話しかければ、きちんと思っている事を伝えてくれるし、私の話を聞いてくれる。
僅かな、仕事中の会話の中でも、優しい人だと思っていた。
そして、持って生まれたルックスもそうだけど、見せてくれる反応の1つ1つも魅力的な人だとも思っていた――そんな事まで、本人に面と向かって言った事はないが。
しかし、彼女の事が気にかかる一番の理由は、それらとも別の所にあった。
そして、今日もまた紫苑は、会話の途中でさざれを見つめてふいに、悲しげな表情を浮かべた。
そのまま、どこか別の所を見ているかの様に、さざれの会話に反応しなくなった。
「紫苑さん――紫苑さんっ」
さざれは唐突に紫苑に呼びかけた。
知らず知らず、焦った声が出る。
紫苑は我に返った様子で顔を上げると、さざれを見た。
「今度は、私の見てる世界をご紹介しましょう。ちょうどそこの公園沿いに、ケバブ専門店があるんですよ。知ってました?」
「……いや、知らなかった」
「うんうん、そうでしょうそうでしょう。次来た時にご案内します」
「明日からは帰りが遅くて多分合わなくなるよ。3日後には出発になる」
「分かってますとも。任務が終わって、戻って来た時のお楽しみですっ」
「あっ――」
また、彼女はさっきよりも悲しげな顔をする。
さざれの言葉に紫苑は、表情を変える事も出来ずに凍りついていた。
内心驚きながらも、今の言葉が、紫苑を最も悩ませている事に関係あったのだと気付いた。
自分は今、一体何の話をしたのか。
そうだ、『戻って来たら』の話だ。
紫苑さんは、任務が終わって戻って来た時の事を、何かとても悩んでいる。
それが何かは知らないけど。
彼女がエージェント隊員の仲間の何人かとは、色々話している所をさざれも見ている。
しかし、それ以外の人と話している所を全く見かけない。
というより、機構や任務を離れた場所での、人との繋がりを彼女からは感じられない。
エージェントの仕事で、外部の人間と親しくし続けるのが難しい事を、さざれは知っていた。
『彼女の居場所が現代にない』という事ではないのか。
だけど、彼女がそんな顔をしていたのは、ほんの一瞬の事だった。
強い自制心によるものか、紫苑は凍りついた表情を動かす。
そして、さざれに顔を向けた彼女は、微笑んでいた。
何故か、見る人の胸を締め付ける様な笑顔だった。
二人は第3棟タワーの高層階バルコニーに出ていた。
バルコニーと言っても、タワー間の連絡通路や横方向エレベーターレールと支え合って広がる、『空中庭園』と言っても差し支えない規模のものだった。
通常、『公園』と呼ばれている、そのバルコニーの奥にある多層構造の広場。
そこでは植樹林の向こうに、黒く広がる東京湾と東京イーストシティの夜景が、さっきの展望台よりもはっきりと見えていた。
樹木や植栽の周りには、イルミネーションライトが煌めいている。
木々の上の夜空には、大きな立体スクエアビジョンが浮かび、第3棟高層階エリアチャンネルの館内イベント中継が流れていた。
「あ、ちょっとすみません」
さざれが傍らの紫苑へそう声をかけたのは、空中の立体映像が19時を告げた時だった。
オルゴールのBGMと共に、公園内のイルミネーションが色や並びを微妙に変化させる。
「?」
さざれは立ち止ると、胸の前で両手を組み、目を閉じる。
不思議そうに彼女を見守る紫苑の前で、しばしその姿勢を続けていたさざれだったが、ちょうど1分後にオルゴールが止んだ時に、目を開いて手を降ろした。
「お待たせしました」
立体モニターも、19時の時報から、中断していたアニメーションの続きを流し始める。
「……今のは?」
紫苑は不思議そうな顔のまま尋ねる。
少し気恥ずかしげに、だけど意識して胸を張ると、さざれは答えた。
「えっと……黙祷です」
「黙祷?」
「はい。180年前の今日この時間に、隣の国の戦争で、世界で初めて原子爆弾が落とされて、大勢の人が亡くなったんです」
「原爆……その黙祷?」
「はい」
『原爆』という耳慣れない略称が少し気になったが、さすがに紫苑は知っていたと、さざれは内心胸を撫で下ろす。
地元でも、上京して通った大学でも、この職場――『機構』の中でさえも、そんな歴史自体を知らないという反応がしばしばあった。
「日本の事じゃないのに、黙祷するの?」
紫苑が尋ねると、さざれは少し心細げに訊き返す。
「おかしいですか? アメリカでもヨーロッパでも南米や中東でも、今日は世界中で多くの人がやってるんですよ」
「でも、日本ではやってないよね」
感情の薄い、冷静な声で紫苑が言った。
朝鮮戦争で使われた原子爆弾は、更にその後の半世紀の間に、十数カ国の戦争や内戦で使われた。
しかし、日本国内に、その隣国や、南アジア、アフリカ、中東での犠牲者を追悼する習慣はない。
それらの国からの移民が、自分達のコミュニティで細々とやっているのを除けば。
20世紀後半、冷戦下のアメリカに連携する形で、第二次大戦後20年で核を配備し、投下までしていた日本。
国内では核兵器に反対する大きな世論も生まれず、その惨状について語ったり伝えようという声も、ごく一部に留まっていた。
さざれの言う通り、国際的に見れば、他の国であっても核戦争の犠牲者を追悼するのがスタンダードであり、無関心を貫く日本の方が特殊であったかもしれない。
だが、国内で見れば、実際に『他の国の人達』為に祈っているさざれは異端であった。
紫苑の言い分は、22世紀の日本人としては、むしろごく普通の反応に入るものだった。
「日本でだって、誰もしないって訳じゃないんですよ。あまり知られていないんですけど」
さざれの声にも知らず知らず力が入る。
彼女にとっても、そんな反応が返って来るのも、初めての事ではなかった。
だけど、紫苑からその見慣れた反応が返って来るのは、多少淋しくも感じられた。
「うちの地元でも、友達や近所の人が何人かでやってました。アメリカに遠慮したとか、後ろめたかったとか色々あったけど、やっぱり日本だって、外国だから、普段あまり仲良くない国だから、黙祷したらおかしいなんて事はない筈です」
世界で一番核兵器を使った筈のアメリカでさえ、国内での核廃絶運動は盛んで、犠牲者の追悼行事も広く行なわれていた。
それにもかかわらず、日本はアメリカに遠慮して、そして自らアメリカの支援として中東に核攻撃を行なった――「落とす側」に回ってしまった――という後ろめたさから、追悼や反核運動が自粛されて来たという背景もあった。
紫苑は無表情のまま、黙ってさざれの顔を見ていた。
言い終えたさざれは、彼女のその様子に、少し安堵を覚える。
短い付き合いだけど、これは無視されているのでも軽く扱われているのでもない、きちんと話を聞こうとしている時の様子だと分かっていた。
少し気分を落ちつけて、次の言葉を探す。さざれはまだ大事な事を話していなかった。
彼女や彼女に影響を与えた「近所の人達や友達」が黙祷を続ける、本当の理由はそれだけではない。
しばしの沈黙の後に、さざれは静かな声で話しかけた。
「……本当は、世界中でやってるから正しいとか、だから私もって事じゃないんですよね。私の地元って、広島なんです。知ってますか? 原子爆弾って本当は、その前の日本とアメリカの戦争で、広島に一番最初に落とされる筈だったって」