3-5
――― 5 ―――
建物群の背後に小高くそびえていた黒い丘。
その木々の間から3本のワイヤーが、一列になって張られていた。
誰の眼にも触れない銀糸の列は、あちこちの電柱や鉄塔に絡まりながら、施設敷地内へと伸びて行く。
やがて丘の樹木の頂きに、おぼろげな影が浮かび上がった。
影はワイヤーにリールで取り付けた金具を掴み、樹上から斜めに音もなく滑り落ちて行く。
昼間も来た光海軍工廠に、紫苑は再び訪れた。
敷地内への侵入は、あっけない程順調に成功した。
今度は彼女の単独行動で、さっき見た場所の更に奥、より深層を目指す事となる。
紫苑の今着ているのは、この国、この時代の女性の服装ではない。
TiNaTOAエージェントの、最初にも着ていたプロテクタースーツ。
更にその上を包む、光学迷彩の全身シートとフェイスマスク。
メグリヤに偽装したのと同じ、投射とメタマテリアルの両方を取り混ぜた技術が用いられている。
彼女の姿は夜の闇と、くすんだ建物群に溶け込んでいた。
コンクリートビルの壁を蹴って、もっと低い工場棟の屋根に着地する。
同じ色と形で並ぶスレート屋根の上を、ワイヤーを放ち、隣接の棟に飛び移り、真っすぐに駆け続ける。
「―――――『ハルトマン』、発動」
「了解。発動後通信切断。切断後7分以内に警戒域を脱し、通信を再開せよ」
あらかじめ申請許可済みの連続跳躍コマンドを口にした途端、彼女の姿はそこから消えた。
同時に、今いる棟の前後数十メートルに渡って、走る彼女の姿が――殆どが透明だったが――様々な異なるモーションで出現する。
シートとマスクの隙間から見える彼女は、ぶれながら点滅していた。
紫苑の細切れなカットが、2~3秒の間、前後に屋根を往復する。
その直後、天窓の一枚が誰もいないのに割れ、彼女の姿が完全に見えなくなった。
『普通の人間の目には幻覚か亡霊の様にしか見えない』事が由来のコマンド名だった。
しかし、同時に、その跳躍ルートは、ある規則性を持って過去移動と未来移動を繰り返し、重複も織り交ぜつつ、バラバラに並んだ時間の中を走るというものだった。
これにより、『彼女の動きを時間域から俯瞰する視点』から見ても開始時間とポイントの特定、そこへの介入が困難な、『阻止不能領域』を作り上げている。
これが彼女がここで使う、最後の短軸跳躍になる筈だった。
天窓の下、工場内部に垂直に降ろしたワイヤーを、ほぼ落下に近い速度で滑り降りる紫苑。
彼女は、通信機能もその大元のモジュールのスイッチも、切ってしまっていた。
脳波や身体信号波長を抑えられてもいない限り、敵に信号を察知されるリスクは極度に低い。
その反面、もう通信も跳躍も出来ない。
バイザーのスイッチは入っているが、オフラインになっている。
現在地の確認も出来ないマップと、ストップウォッチと、撮影機能だけの為にだけ起動している様なものだった。
ここへ来る時、施設の数百メートル手前で彼女は鴨川の車を降り、彼もその場から離れてしまっていた。
彼女の行動領域から半径1キロ以内、そして前後1時間以内の時間域に、彼女の仲間は誰一人いない。
旋盤台の列の間を縫って、紫苑は下への小さな鉄製階段へ辿り着く。
十数段ほど降りた先の通路も真っ暗だ。
自分の装備は使わず、目を慣らし、通路奥からの僅かな光を頼りに前進する。
天井と壁の一部に木板が貼られている以外は、土が剥き出しとなっている。
まるで洞穴みたいな通路だ。
少し水の染み出る足元にさえ注意していれば、大して危険はなさそうに見える。
通路の奥で、記憶にある場所へ出た。
急に眼前が開け、T字路からフェンス付きの通路が左右に伸びている。
フェンスの下およそ3メートルに、もう一本の道が平行に走っていた。
間違いなく、昼間に紫苑達が資材を運んで通った道だ
のんびり場所を確認している暇はない。
彼女の記憶が確かなら、左4~5メートル先の段差部分に――
思考が結論を出すよりも先に彼女は駆け出し、フェンスを飛び越えて下の道へ着地する。
眼前にいた立哨が銃口をこちらに向け、狙いを付けるよりも先に、彼の銃身を横へ押さえて、喉を拳で突く。
叫ばせない様に喉を圧迫したまま、ライフルを捻り取って捨てる。
ブラスターをガンモードで顔の前に突きつけると、男は無言で両手を上げた。
降伏した男の手を降ろさせ、後ろに組んだ状態で手首と指の両方をチューブベルトで拘束する。
更に足首と近くの配管を括りつけ、ズボンの両ひざ部分を縫いつけて繋げた。
その状態のままで立哨姿勢をキープさせておく。
これでおよそ通信切断より、1分半経過。
ゲートを定時往復する人間のスケジュールは確認済みだ。
ちょうど1~2分以内に、電気担当の設備員が外から中へ入る筈となっている。
予定通り、20秒後に、日本兵に扮した格好の男が一人こっちへ向かって来た。
紫苑は無言のまま、拾い上げ鹵獲したライフルを彼へ向ける。
自分のこめかみを指差し、次に彼の腰のモジュール、最後に行き止まりの木壁を指差して見せた。
目の前の表示画面を操作しようとする彼の耳元で、紫苑はそっと囁く。
「そのバイザーは使った事あるから、外に連絡しようとしたら分かる」
彼は口の端を引きつらせ、小さく頷いた。
さっきの立哨同様、気絶はさせない。
ゲートを――行き止まりの木壁の映像をすり抜け、特殊素材の隔壁を男の生体認証で引き開けて中に入る。
隔壁の内側は別世界だった。
洞穴の様な剥き出しの土壁は変わらないが、それを覆う壁や床の素材は、紫苑の見慣れた22世紀の金属板や素材を遠慮なく使用している。
床に張られた、半透明のキャットウォークの下の窪みに、両手と両足を固定した状態の男を押し込める。
10分もせずに発見されるだろうが、気絶させればその時点で察知される。
ゲートの横にカメラがあるのを紫苑は気付いた。
OREの人員規模を考えても、リアルタイムでここを監視している可能性は低かったが、実際どうなのかは運次第だった。
実際ここは、カメラの有無に関係なく、途中経路で一番リスキーな場所だった。
『この時間、ここに紫苑がいる』事だけはどうやっても、いつかはOREに露見する。
つまり、どの時間からでも、ここへ急行できるという事だ。
『侵入と同時に駆け付けて来ない時点でセーフ』だと思う事にした。
意識があるまま、通報も出来ない状態を数分保てれば良いのだ。
ここまでで3分前後。
紫苑はバイザーの動画撮影モードを開始する。
「B1、隔壁内部到達、十メートル先に吹き抜け」
疾走しながらも、口で目の前の光景に短く解説を入れる。
「エレベーターポッドあり。使用せず落下する」
呟いている間に彼女は通路終点の吹き抜け部分に着いていた。
彼女が吹き抜けと形容したそこは、直径2メートル半程度の竪穴だった。
周囲を円筒状のパイプやフェンス、金属板で補強され、深さ十メートルばかりの底まで、穏やかな青い照明で規則的に照らされている。
穴の底に台座状のエレベーターが停止しているのも、紫苑の位置から見る事が出来た。
その縁の影っぽい部分を、さっきと同じワイヤーとリールを使って降下する。
降下しながら、無音銃を抜くタイミングをイメージする。
エレベーターの先には間違いなく、複数名のORE工作員が作業中の筈。
そして、この時点で、もう彼女の存在は時間域上で観測出来る範囲のものとなっている。
ここを狙って警備――ORE第4工作局の武装班が現れる可能性は高い。
正面からやり合うつもりはなかったが、多少の戦闘は避けられないと思った。
特に、降下中とその前後を狙われたら、かなり危険だった。
「え……?」
穴の底には殆ど人はいなかった。
背広姿の男女数人が、エレベーターの反対側で立体映像の制御パネルを操作していた。
だが、降り立った紫苑に気付いたらしい者はいない。
エレベーターデッキの影から、紫苑は彼らを観察する。
彼らのパネルの隣に、かなり旧型の時間転送機が設置されていた。
「B2フロア到達。転送機発見。2130~40年代型の……だけど……違う」
紫苑は記録用の解説にも関わらず、思わず焦った様な声を上げていた。
「これは末端――元の時代から幹機を中継する枝の一つ」
紫苑の視界は、ORE工作員とパネルの上に浮かんでいる、別の極薄シートの画面を捉えた。
中国・四国地方の拡大地図に、様々な記号とテキスト、色とりどりのラインが表示されているそれ。
この光海軍工廠地下を含む、複数の枝拠点から伸びた線が、瀬戸内海の小島の一つに集中している。
それが本当の拠点、幹となる中継転送機のある場所だと、紫苑にも見当がついた。
セキュリティが甘過ぎたのはそのせいだったのかとも、考えが横切る。
それはともかく、彼女は、この場所で得られる収穫は全て手に入れた事を知る。
地図と工作員達の姿、転送機をもう一度視界ごしに撮影し、紫苑は垂らしたまま、リールを取り付けたままのワイヤーから再び上昇を始めた。
落下する時と同じ速度で、彼女は穴の上に戻り、投げ出された。
慣れていない者なら転げ落ちる勢いの加速を、紫苑は巧みに着地する。
ワイヤーをリールで素早く巻きとると、元の道を駆けて行く。
キャットウォーク下の工作員も隔壁外の立哨も、来た時のまま転がっていたが、そのまま放置して走り抜ける。
さすがにここまで誰も来ないのは不審過ぎた。
これを、『たまたまだけど上手く行った』と思える程、彼女も楽観的ではない。
今、相談できる人間が誰もいない時なら尚更。
だとすれば――外で待ち伏せされている。
1階の部品工場内を、屋根の天窓まで上昇しながら、紫苑は再び警戒する。
屋根の上は来た時と同じ、無人のままだった。
サイレンが響く中、星空を天へ伸びた何本ものサーチライトが、ぐるぐる回りながら敵機を探っている。
屋根の下の地上では、多くはないが、敷地内を走り回る車の音と足音、怒鳴り声が響いている。
紫苑はシートとフェイスマスクの乱れを直して、屋根を駆ける。
ワイヤーを使って、屋根から屋根へと飛び移り、列の一番端の工場棟に着いた。
紫苑はバイザーの設定を通常モードに切り替え、モジュールの電源を入れ直す。
「『カイロス』より『ブーストラップ』、作戦修了。通信を再開する――」
紫苑の声は、途中で切れた。
通信可能表示が出てこない。
バイザーの表示は、さっきまでのオフラインモードのままだった。
反射的にモジュールの電源を切って入れ直す。
そして、バイザーの表示画面を隈なく探すが、通信の状態を示すものは全く見つからない。
勿論、時間跳躍に関する表示も。
「――?」
「だーーめっ」
鈴のような嬌声が耳に響き、目の前に広がる蕩けそうな微笑み。
そしてガチャリという金属音。
紫苑が横へ飛ぶのと同時に、けたたましい銃声が連続した。




