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あの時の僕を  作者: toshi
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 「パパ!パパ!」


 誰かがそう呼ぶ声が聞こえ、少しずつ意識が戻って行った。

 朦朧としながら目をうっすらと開けると、レイちゃんの顔が目の前にあった。あの空間に戻ったのかと思ったが、その横には、少し年を取った渡瀬の顔があった。


「パパ、目が醒めた?手術無事終わったよ」

 レイちゃんがそう話しかけて来た。

パパ?パパって僕が?

「パパ、手術はとても上手くいったって。悪い病巣は全て取れたって、本当に良かったね」

そう言いながら渡瀬が涙ぐんでいた。

 意識がかなりはっきりしてくると、レイちゃんの顔や姿はどう見ても幼女ではなく十代の女の子だった。

「玲良かったね!パパ意識もしっかり戻ったみたい」

「ママ当たり前だよ、戻らなきゃ困るでしょ」

「うん、でも本当に良かった」

渡瀬は子供のように泣きじゃくった。

「ママしっかりしてよ!どっちが子供だかわからないんだから」

そんな会話を聞いているところに吉田先生が病室に入って来られた。

「どうですか?様子は」

「先生、本当にありがとうございました。今ちょうど目を覚ましました」

そう渡瀬が吉田先生に言うと、

「田辺さん、手術は成功しましたよ。明日の午前中いっぱいはこの集中治療室にいますけど、午後には自分の病室には戻っていただきます。胃の三分の二は取りました。リンパ節も最小限ですが切除しました。初期の胃癌ですからまず大丈夫だとは思います。明日の午後から、体調を回復してもらうために病室の廊下を歩いてもらいますから頑張って下さいね」

まだ麻酔が完全に抜けきらない状態で、先生の話しを聞いていた。

初期の胃癌の手術が無事成功したのか?そう思いながら僕は、小さく頷くだけだった。

 「これから麻酔も醒めて痛むかもしれませんが、そのときは看護師をすぐ呼んで処置してもらって下さい。あとは早く回復して退院しなくちゃね」

 そう言いながら吉田先生は笑顔で部屋を出て行った。

 佐織と玲は、ふかぶかと頭を下げた。


レイちゃんは僕の娘?渡瀬は僕の奥さん?そんなことを考えながら、またすぐに深い眠りに入っていった。


 翌日の午後には、ベッドごと自分の個室に戻され、すぐに様々な薬剤の入った点滴や導尿カテーテルなどの管に繋がれたまま、点滴スタンドを転がし、看護師の斉藤さんに付き添わられ、初めは頭がふらふらしたが、通路を歩いた。

思わず斉藤さんに聞いてみた。

「僕、危篤状態になったりしていませんでした?」

あとは「独身じゃありませんでした?」とか。

斉藤さんは目を丸くして、この人どうかしちゃったの?とでも言うような顔をして、

「田辺さん、胃より頭診てもらいますか?」と一言。

それからは、朝昼晩と毎日十五分くらいフロアを歩き回った。玲も来ていると付き添って一緒に歩いてくれる。小学校での友達との様子などを楽しそうに話しながら。

食事もただの汁ものから重湯、お粥そして通常の白米と毎日少しずつ変わっていった。口に入れたものを五十回くらい噛み、三十分かけて食事をした。栄養士さんと斉藤さんに「ちゃんと時間をかけて食べて下さいよ」と強く言われていたので、置時計を見ながら食事をした。

カテーテルや体液ドレーンなども、日ごと外されていき、徐々に普通の生活に戻っていける、という実感を味わっている。

そして毎日の身体の回復とともに人生が書き換わっているのが、何となくわかっていた。とても大事な人のことが、日に日に自分の記憶の中から消されて行く。とても切ない愛おしい思いを引き摺りながら、僕は入院生活を過ごしていた。そして、娘の玲と妻の佐織のことが、自分の人生の大事な家族として完全に記憶の中に書き込まれた。

手術から二週間後の五月七日、過ごしやすい陽気に退院を迎えることが出来た。

 当日は佐織も玲も車で迎えに来てくれた。

自宅で二週間ほど休養を取り、会社に復帰する予定だ。

僕には未来が残された。娘の成長と妻佐織との生活を存分に楽しんで生きて行こう。そして、もう一度米粒の一つとなって多くの人々の中に埋もれながら生きて行こう。そんな日々をとても喜べることに感謝しながら、病院の玄関から一歩踏み出した。


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