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「しゅんさん、しゅんさん」
レイちゃんが僕を呼んでいる声が聞こえた。
目を覚ますと、病室では無く、あの白い空間に戻りソファに横になっていた。
「目覚めましたか?しゅんさん」
「う~ん」僕は呻くような声を出し、両手を組んで背伸びをした。周囲を見渡し、
「ここで目覚めるってどういうこと?」
そう質問すると、
「すみません、最後にもう一度来てもらいました」
レイちゃんが答えた。
「病室に戻って、この世との最後のお別れじゃないの?」
そう言いながら、危篤の状態に戻ると思うと恐かった。それにさっきの幸せな感覚にも包まれていて、とても複雑な気持ちの中で僕は彷徨っていた。
「最後に、説明ぐらいしておかなければいけないと思って」
「なぜこんな経験を僕に与えてくれたのか教えてくれるんだ?」
「そうですね」
ソファに腰掛け、僕の隣に座るレイちゃんの話しを静かに聞いた。
「なぜしゅんさんにこんな不思議なことが起きたのか?それは、しゅんさんのお父さまとお母さまが、お願いしたことなんですよ」
ふたりが亡くなったときに、神様が何か心残りがないか尋ねたという。母は「しゅんが中学一年生の時に、好きな野球を私の一存で辞めさせてしまった。長男の高校受験の失敗が理由とはいえ、親としてあの子には申し訳ないことをしてしまった。高校に入ってもしゅんはそのことをずっと悔やんでいたことを知っています。出来ることならばもう一度やり直させてあげたい」父は「しゅんの浪人が決まり、息子が美術大学に頑張って入学したいと言ったときに、将来のことも考え、お前の成績じゃとても無理だと言って、デッサンの専門学校まで辞めさせて、美大の受験を諦めさせてしまった。浪人中も励まそうと思いながらも、つい嫌味を言って怒らせたり、嫌な思いを何度もさせてしまった。息子の将来を考えてしたことだが、あとで家内から、父さんに言われたことややられたことに、しゅんはとてもショックを受けていたと非難された。確かに、親ならば最後まで子供のやりたいようにさせてやり、ただ頑張れと、それだけを言えば良かった」
そんな両親の思いが神様の心には残っていた。それから何年かして、しゅんさん自信が死に関わる病気になったことで、死亡予定者の中に田辺俊の名前を見つけた神様は、そのことを思い出した。そこで最後は、しゅんさんに両親が心残りにしていた事をやり直させてあげようと決めたんだという。
「野球の時も、受験の時も、まさかここまで頑張って結果を出すとは思わなかった、と神様は言っていました。やり直させて、全ての人が上手く成果を出せる訳ではないのです。でも再度取組めたことで後悔はなくなり、あの世に新たな気持ちで旅立てるのです。現世に未練を残して死ぬことは、決して良いことではありませんからね」
レイちゃんから、そう告げられた僕は、両親の深い愛情に感謝をした。そして、自分の生き方を悔やんだりもした。父さんや母さんのことを思えば、もっと自分がしっかり自立して生きていけば良かったことで、悔いとして残してしまったなんて情けなくもあった。
しかし、渡瀬のことは両親からの思いではないはずだ。
そう考えていると、レイちゃんからこんなことが打ち明けられた。
「実はもう一人、肝心な方がいます。その方の願いが無ければ佐織さんとのことは、行われませんでした」
他に誰が、僕と彼女のことを願う人がいるんだろう?
「そんな人がいるんだ、誰だろう?」
「その方が来ています、あまり長く会わせることは出来ませんが」
レイちゃんは、微笑みながら言った。
突如、目も眩む光に包まれ、僕は何も見えなくなった。やがて淡い光りの中に見慣れた、そしてとても会いたかった女性が佇んでいた。
僕は、彼女を見た瞬間涙が溢れ出した。
「はるか、君だったのか」
目の前に今は亡き妻のはるかがいた。
「しゅん、いっぱい大変だったね。ごめんね」
そう言われて、僕は彼女を強く抱きしめて泣き続けた。
平成十年五月十六日(土)この日を僕は一生忘れられない。
本当になんてことは無い平凡な土曜日、金曜日に会社の連中との飲み会があり、結局は午前様になってしまった。その日ははるかと産婦人科に検診に行く予定だった。
結婚して十年でやっと子供が授かった。妊娠四ヶ月で安定期に入り、お腹はまだ目立たないけど用心するのに越したことは無い状況。しかし、それほど心配するような体調ではなかった。
昨日のお酒がたたり、僕はなかなか起きることが出来ない。ベッドで寝ていると、はるかは、
「しゅんまだ眠そうだから、一人で行ってくるね」そう言って自分の運転で病院に出かけようとしていた。
ボーっとした頭で「ちょっと待って俺も行くから」と言ったのだが、はるかは、「お酒臭いし、ただの検診だから大丈夫」とさっさと支度をして家を出て行ってしまった。
まあ良いか、そう思いながら、また布団に潜った。
家の電話がけたたましく鳴っているのに気がつき、目が覚めた。
なぜかとても嫌な予感がした。
はるかに何かあった!
受話器を取ると
「田辺さんのお宅ですか?藤沢警察署ですが」
思わず受話器をギュッと握った。
「はい」
「はるかさんが、交通事故にあって救急車で湘南台病院に運ばれました、至急行って下さい」
「どこで事故にあったんですか?」
震える声で僕は聞いた。
「湘南台駅近くの十字路で右折しようとしたところ、対向車に」
僕は全身を震わせ、受話器を置いてその場にひざまづいた。
しばらく呆然としたままでいたが、我に返り
「とにかく病院に行かなきゃ、とにかく病院に行かなきゃ」そう自分に言い聞かせながら、洋服に着替え、財布だけ持って家を飛び出した。
長後駅でタクシーに乗り込み二十分ほどで湘南台病院の玄関ロビーに横付けされ、飛び降りた。病院の受付窓口で
「警察から電話があった田辺はるかの家族の者ですが、どこへ行けば良いんでしょうか?」そう告げると
「少しお待ち下さい」
そう言って受付の女性が事務所内の男性のところに駈け寄り、何度か言葉を交わしすぐ戻ってきた。
「今救急外来の方で手術中ですので、一階奥の救急外来に行って下さい」
僕は救急外来に急いだ。
電話を受けてからの僕は、何がなんだかわからないまま、心をどこかに置き忘れてきたような中にいた。起こっていることが、全て受け入れられないという方が正しかったのかもしれない。救急外来のロビーまでたどり着いたがそこにも受付があった。
「すみません、田辺はるかの家族ですが」
受付の職員が
「あっ、ご主人ですか?今奥様は緊急オペの最中です。しばらくロビーでお待ち下さい」
そう告げられた。
「緊急オペって?家内はどんな状況なんですか?」
「私も詳しくはわかりません、とにかく先生たちが今処置していますので、しばらくお待ち下さい」
そう話しているところに、制服の警察官が近寄ってきた。
「藤沢警察署ですが、田辺はるかさんのご家族の方ですか?」
「はい。はるかの夫です」
「そうですか。よろしければ状況説明をさせていただきます」
僕は動揺したまま警察官の話しを聞いた。
湘南台駅前の交差点ではるかの車が右折のウインカーを出して停車しているところを対向車の大型トラックが正面から突っ込んできた。運転手はどうも居眠り運転をしていたらしい。
そう聞かされて、血の気が引いて、僕は床にへたり込んでしまった。
警察官に支えられ、ベンチまで連れて行かれ寝かされた。頭が真っ白になり、気持ちが悪くなってしまい、しばらく目を瞑りうずくまった。
はるかが、いなくなる。
そう考えると悪いことばかり頭に浮かんだ。考えることを止めようと思っても、すぐ浮かんできた。
はるかとは会社の同僚の紹介で付き合うことになった。第一印象は、大人しくて、優しいそうな女性。特別美しいとか、スタイルが良いとか、特別なところは無かった。一緒にいて自然でいられる、なぜかホッとする、そんな女だった。同僚とその彼女と四人で会って食事をした。その日にはるかを家まで送っていき、次に会う日を約束した。
それから二人で映画に行ったり、食事をしたり、普通のデートを重ね、自然に結ばれた。三年くらい付き合って三十歳で結婚。共働きで十年経ち、やっと子供が授かり喜んでいた最中のことだった。それだけに、奈落の底に突き落とされたような心境だった。
十年間という月日と赤ちゃんを授かったことが、僕の私生活の全てだった。両方の両親もとても喜んで、幸せな時だった。そのすべてを失う!
一時間ほどして、手術室から医者が出てきた。横に臥せてしまっている僕に近寄り話しかけた。
「大丈夫ですか?」
僕は何とか返事をした。
「少し落ち着きました」
「田辺はるかさんの旦那様ですね。こんな容態のときにすみません。しかし、お伝えしなければなりませんので」
そう告げると一呼吸おいて、
「落ち着いて聞いて下さい。大丈夫ですか?」
大丈夫じゃないけど、
「大丈夫です」と返事をした。
「最善を尽くしたのですが、はるかさんを助けることが出来ませんでした。十二時二十五分にご臨終です」
予期してはいたが、告げられた時は涙を流すことも出来なかった。血の気が引いて、手の震えが止まらなかった。
それからもしばらくそのままベンチに臥せていた。その間に、病院の霊安室にはるかの遺体
は安置された。何とか、起き上がりベンチに座りなおしていると、看護師が僕を霊安室まで
案内をしてくれた。
テレビドラマに出てくるようなとても殺風景な霊安室のベッドに、はるかはとても安らか
な顔をして眠っていた。顔はほとんど損傷も無くとても綺麗で、微笑んでいるようだった。触れるまでは本当に、ただ眠っているようにしか見えなかった。「はるか」と思わず声をかける、やはり返事はなかった。顔に触れ、身体に触れて、その冷たさで初めて、はるかの死が実感できた。
もう、はるかの魂はここにはないんだな そう思ったら、一筋の涙がすーっとこぼれた。こぼれだすと、嗚咽とともに止めどもなく溢れ出した。両親や兄弟が駆けつけて来るまで、僕はその場でただただ泣き続けていた。
それからのことは、あまり記憶が定かではない。はるかの両親が入って来て、はるかの亡骸
にすがりついて泣く姿だけが、僕の記憶に鮮明に残されてはいる。
親族が集まり、粛々と葬儀の準備を始める中を、僕は喪主としてみんなに言われた通り振舞
っていただけだった。
葬儀も終わり初七日も済んで、両親、親族が全ていなくなった家に、はるかの遺骨と僕だけが残された。はるかの位牌と対座し、飲めないお酒をコップ酒であおった。酔いながら、泣きながら、いつの間にか眠っていたなんて日々を何日も過ごして、会社に出社を始めた。
それからの一年あまり、僕は、あの朝の後悔と、死ぬことだけを考えて生きていた。親族も
会社の人間も、僕を真綿で包み込むように、事故のことも、はるかのことも、話題にしないようにそっとしていてくれた。孤独と悲しさを味わい尽くしても、最後の一線を越えることは出来なかった。死ぬことも生きることも出来ない僕は、感情を捨てて、ただただ仕事に埋没して行くしかなかった。仕事に追われているときだけは、忘れることができたからだ。そして、はるかを自分の記憶から消すように消すように努めて二年が過ぎた頃には、自分の現状を受け入れることは出来るようになっていた。
人生やり直しが出来るなら、あの朝にもう一度戻りたかった。
「しゅん、いつまでも泣いていないで」
はるかは、僕の髪を撫でながら優しく囁いた。
「何ではるかは僕の前からあんなに突然居なくなってしまったんだよ?何で?」
「本当にごめんなさい。でも、まさかあんなことになるとは思わなかったもの」
確かに、今更言ってもどうしようもない事だし、はるかが悪いわけではなかった。それでも、十年間の思いを口に出さないではいられなかった。
「今回のことを君が頼んだのなら、どうしてあの時に戻り、やりなおすことを頼まなかったの?」
「もちろん私だってあの日の朝に戻して下さいとお願いした。でも、それはかなわなかったの。一度死んだ人間に会わせることは出来ても、同じ人間として生き返らせることは出来ないって」
彼女も辛そうに、僕に返事をした。
「それなら、どうすることなら出来るのかを聞いたの。神様は、しゅんを過去に戻すことと、今生きてる人間とめぐり合わせることなら出来るって。だから、せめて貴方に素晴らしい女性とめぐり合わせてほしいと頼んだの。結構時間がかかったわよね」
はるかは、穏やかな顔をしてそう話してくれた。
しかし、めぐり会ったとしても、僕はもうじき死ぬはずじゃないか、そこに何の未来も無いはずなのに、どうしようというのか?
「はるかは今どうしてるの?」
「私は全く別の人間として生まれ変わる準備をしているの。もうすぐ生まれ変わるわ、そうすれば全てのことは記憶から無くなる。しゅんの記憶からもそろそろ私のことが消えても良いわよね。それよりあなたが幸せでいてもらわなくちゃいけないもの」
はるかは、とても穏やかな顔で僕に諭すように話しかけてくれた。
「はるかのことは、僕の心の奥底にずっと仕舞い込んできた。本当はあれから何度も君のそばに行くことを考えた。でも出来なかった。そして、君とのことを全て消し去ることにしたんだ。思い出せば、あの日の後悔で身も心も切り裂けそうになってしまうから。でも決して消し去ることなんて出来なかった。それでもここまで一人で生きてこれた」
「でも、もう十分よ。さんざん苦しんだんだから」
「僕の人生もそろそろおしまいだし、待っててもらった方が嬉しいのに。だってそうだろう?もう末期がんで危篤状態なんだから」
「しゅん、こればかりは私たちが決められることじゃないの。すべて宇宙の流れの中で決まっていくことなの。私たちの一生はその流れに委ねるしかないの。でも必ず宇宙は私たちに何かを与えてくれると信じてる」
そう言うと、はるかの身体が少しずつ透明になっていった。
「はるか、行かないで!待っていて」僕は叫んだ。
「しゅん、人は自分一人だけで生きているわけではないでしょ。みんなの愛で生かされている。ご両親や佐織さん、そしてお兄さん夫婦や友人たちからの。当然私からの愛もね」
「そんなことはわかってる。だから、もう一度はるかとやり直したい!」
「しゅんは、今生きている人達とともに、残りの人生を懸命に生きなきゃいけないんだよ!わかって」
ほとんど見えなくなってきたはるか。もうこんなに愛おしい人が消えてしまう。
「はるかは新しい人生を生きるんだね。今度は、幸せな結婚をして、子供をたくさん作って、長生きして、楽しく生きるんだよ!それだけは僕に誓って!」
「わかった、絶対幸せな一生を過ごすからね! 説明はこれで全て。あと少しの人生かもしれないけど、その一瞬を楽しく健やかに生きていって」
と優しく僕に話しかけた。
「僕は、死の直前に戻って行くんだね」
「それは、宇宙が、神様が全て決めることなの。これ以上のことは私にもわからない。しゅんありがとう、私はいつも貴方のそばにいるよ」
その言葉を残しながら、はるかは金色の粒子となり消えていった。
僕は、一人この空間に残され、そして光に包まれながら意識を失っていった。