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あの時の僕を  作者: toshi
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僕は、暖かい日差しが射し込む病室のベッドに横たわっていた。目が醒め、ボーっとする頭の中で、やはり夢だったのか?そう思いながら、身体を起こしてみる。

 周りの状況がすっかり変わっていた。十畳ほどある広い病室にベッドが一つ、そこに僕が一人でいた。枕元には、花瓶に、大きな花束が活けられている。

 何でこんな広い個室にいるんだろう?病室の料金だって決して馬鹿にならないはずだ。

 身体も、確認した。こちらは、変化がない。手鏡で自分の顔を覗く。目は窪み、顔は土気色。病状の悪さが、良くわかる。腕には点滴の針がしっかり入って、テープで固定されている。頭には同じニット帽を被っている。しかし、パジャマは、グレイのシルクの生地で、着心地が良い。

 これまでの人生が確実に修正されている。

 思わず、携帯で日付と時間を確認した。

 日付けは四月三日、時間は午後二時五分、食後にうとうとしてから、一時間ほど経過しているだけだ。

 僕は、目を瞑り、武蔵野美術大学に合格したあと、どうしたのかを考えた。すると鮮明なカラー映像が頭の中を駆け巡った。入学式から、キャンパスでの生活、デザインの勉強、友達との思い出。四年間の大学生活は確実に書き換わり、自分の中に溶け込んでいく。全てが新しい世界に塗り替わる訳じゃないみたいだ。しかし、少しずつ確実に変化していた。就職も、広告代理店への入社は変わらなくても営業マンとして勤めたはずが、広告のデザイナーとして商品媒体の宣伝用ポスターのデザインをしている僕がいた。

営業課長代理だった僕が、メディア部門の統括ディレクター職にいた。五月の株主総会で執行役員になるというところで、病気が発見され入院していた。


どちらが本当とか嘘とか、考えることはもう無駄なことだった。どちらにしても病気は病気、がんはがんだ。その事実は書き換わることはなかった。

両方の記憶が今ははっきりしているが、いづれ修正されすべて塗り変わる。それが僕の人生のすべてになる。過去に戻って修正された僕の人生も、その前の人生もどちらも僕の人生なんだ。

 

 それからも、トイレには自分で行くことは出来たが、その他は、食事もほとんど摂れず、点滴をしたままベッドの上で過ごすだけだった。

 一週間後の午後、吉田先生が病室に入ってきた。

「田辺さん、具合はいかがですか?」

「吐き気と倦怠感で食欲はないし、この通りかなりやせてしまいました。でも、今のところ痛みはほとんど感じないので助かります」

「そうですか。痛みが無いだけでも本当に良かった」

 吉田先生は、一呼吸置いてから話し始めた。

「長い間治療を続けたまま、説明もせず今に至ってしまいすみませんでした。田辺さんに現在の容態を説明します。抗がん剤による効果が思ったより出ていません。癌が小さくならず、手術が出来ない状況です。そこで、今後どうするかを相談したくて来ました」

「やはりそうですか。先生から話しは無いし、身体の具合は良くないし。あまり良い方向に向かってないのかな、とは思っていました。でも、どんな選択があるんでしょうか?」

「う~ん、本当に悩むところです。さらに強い抗がん剤を投与して、治療にあたるか、それとも無理な治療はせずに、痛みをコントロールして過ごすか。現在そういう状況にあるということです」

 先生の言っている意味は良くわかった。

「治療を続けた場合、治癒する可能性はどのくらいあるのですか?」

「正直非常に厳しいとは思います。別の抗がん剤を使うつもりでいますが、副作用の影響も心配です。体力的にもたないかもしれません」

「下手をすれば、これ以上苦しみながら死ぬってことですね」

「厳しい状況であることは確かです」

 深いため息が思わず漏れた。何となく状況は察知していた。とは言え、それでも直接先生から言われると、死への恐怖感で心が押し潰されそうになる。

 苦しみに耐えて、数パーセントの可能性に掛けるか、先を諦め、残り少ない月日をただ穏やかに過ごすか?


 そんな選択を、僕は迫られている……


 すぐに結論を出せるほど自分は強くない、考える時間が欲しかった。

「先生、二日三日時間をもらえますか?」

 先生は優しい眼差しを向け、

「もちろん良いですよ、じっくり考えて決めてください」と言った。

「わかりました」

 先生は静かに病室から出て行った。僕は、窓からの風景をぼんやり眺めた。

 今日はあいにくの雨模様、鈍よりとした空を見ていると、それだけで滅入ってしまう。窓から見える人の姿は、米粒のように小さい。僕も少し前まであの米粒の一つだったが、もう戻れないという寂しさが自然と沸いてくる。(人生は選択の連続だ、遂に最終選択を突きつけられてしまった。これまで逃げることの多い人生だった。最後は、どちらを選ぶべきなのだろう?もし仮に治療が上手くいったとして、どのくらい回復するのか?まず完治することは無いだろう。新しい抗がん剤の副作用は、今までの比では無いだろう。しかし、諦めれば結果ははっきりしている。結局僕が、これから先どれだけ生きて行きたいのか?神様に試されているのかもしれない)

頭の中を堂々巡りしていた。同時に痛み、吐き気、めまい、とあらゆることが自分の身体に襲ってくる。

 

 それから三日間、薬で朦朧としたり、うとうとすることはあったが、それでも熟睡することは出来なかった。そして自分なりの結論を出した。

遣ったより遣らなかった後悔だけは、もうよそう。治療した結果が死ならば、それはそれで諦めるしかない。

 月曜日の朝、吉田先生に別の抗がん剤を投与してもらいたいと、自分の思いを告げた。先生も了解し、もう一度癌治療に取組むことになった。

 翌日から、一日一時間、前と同様に点滴で自分の身体に抗がん剤が入っていく。何とか効いて、僕の身体に巣食う癌を叩き潰して貰いたい。そんな気持ちを抱きながら、毎日点滴を続けた。副作用は、自分の想像を絶するものだった。吐き気、発熱、倦怠感そして全身への痛みなど様々な症状に苦しみ続け、肉体的にも精神的にもボロボロになっていった。そこまで辛い状態が続くとはさすがに思っていなかった。ずっと苦しいまま、一時間一時間が過ぎて行くだけだった。あとどれだけ苦しめば楽になれるんだろう?そんなことをずっと考えていた。そして、日に日にその苦しみにもう耐えられなくなっていた。思わず声を出して母親に助けを求めていた。

「母さん助けて、神様もう僕を許して下さい!何でもしますから楽にして下さい!」涙を流し、のたうち回りながら叫んでいた。

 新しい抗がん剤の投与から十日ほど経った頃に、僕は酸素マスクが付けられ、意識が朦朧とした中、生死を彷徨っていた。

 少し意識が戻ると、斉藤さんともう一人の看護師がベッドの周りで右往左往している様子が感じられた。兄夫婦もベッドの横で心配そうに僕を見つめていた。そんな中で、吉田先生が兄に、話していることが耳に入ってきた。

「思った以上に抗がん剤の影響が大きいようです。正直、ここまでは予期出来ませんでした。本当に申し訳ありませんが、ここ数日が山場だと思います。親族や身近な方を呼んでいただいた方が良いかもしれません」

 死ぬのか?そんなことが頭を過ぎった。すると突然自分の身体がパンッ!と弾ける感覚を味わい、次にすーっと自分の身体から自分自身が抜け出た。

 病室の天井から、吉田先生と二人の看護師が処置にあたっている様子や兄夫婦が戸惑った顔で僕を覗き込んでいるのが見えた。僕は、酸素マスクをして意識は無いようだ。もう逝くのかな?そう思いながら見ていると、

「そうですね、もうそろそろですかね。しゅんさん、良く頑張りました」

いつの間にか、レイちゃんが僕の隣りで、一緒に下の様子を見ている。

「今頃になってまた現れた、今回は最後の最後に登場?」

「そう言わなくても、出てくるのも大変なんです」

「そうなんだ、ありがとう。確かにそっちに用事が無ければ、出てこないのはわかってはいるけど、それでも今こんな状況で出てくるのもどうなの?」

「でも、もうこの後は無いですし、今を逃したら無理でしょ」

「確かに」

「だから無理を承知で現れたんです、それなりの理由が当然ありますけど」

「その理由というのは、どうせ秘密なんだよね?」

「そうですね」

レイちゃんは、いつもの様に僕を見てニコッと笑い、大きく息を吹いた。気が付くといつもの場所にいた。ソファに腰掛け、モニター画面が現れると、またまたテロップが………


 小田急線相模大野駅のロータリーが映し出されている。昭和五十六年一月十六日、世の中は正月気分も抜け成人式も終わり普段の日常に戻っている。人々は、寒空の中をコート姿にマフラーや手袋をして黙々と街中を行き来している。

ロータリーの端に、紺のスタジアムジャンバーに、カーキ色のコーディロイのズボンを履いた僕が肩をすぼめ寒そうに佇んでいる。

そこに、ブルーの見るからに中古車とわかるスズキアルトが横着けされた。

運転席の女の子が、助手席のドアを開ける。

「ごめん!遅くなっちゃった」

「そんなに待ってないよ」

「本当?それなら良かった。早く乗って」

「うん」

アルトの助手席に僕が腰掛け、ドアを閉めた。


 彼女は渡瀬佐織、高校の同窓生。明治大学文学部の四年生。彼女も僕の人生において、とても後悔をした相手である。彼女への思いは、心に残ったままでいた。このまま棺桶に持ち込む、とずっと思っていた。


「彼女もやり直したい相手ですか?」

「まあね、若かりし日の忘れられない恋の思い出、なんちゃって」

「どんな女性だったんですか?ふられちゃったんですか?」

「とても可愛くていい子だったよ。好きだったけど、ちゃんと告白ができなかったんだ」


 彼女とは、出会いから別れまで、心に残ることがいくつもあった。二十七年も前の話しだから、記憶が怪しい部分も多い。

 高校時代、彼女のことは演劇部の部長ということくらいしか知らなかった。クラスも一緒になったことはない。美人というよりは可愛いという顔立ちの子で、男子生徒にはかなり人気があった。

彼女と仲良くなったのは、僕が大学一年の冬、高校時代の親友である城島健太と木村功の三人で家に遊びにいったのが切っ掛けだ。

 城島健太は、現役で専修大の商学部に入学し、大学二年。顔は、彫が深く、痩せ型のまあまあの二枚目、バイク好きで、バイト代はバイクに注ぎ込んでいる。

木村功は、成渓大学理工学部の一年、一浪で入学した。人当たりの良い、社交的なタイプでいろいろと顔も広い。身長百八十センチの大柄だ。健太と功は、彼女と高校一年の時に同じクラスで、仲も良かった。

十一月も下旬、いつものように健太のセリカGT‐Rに乗りながら「暇だな、どこ行く?」という話しになった。

「久しぶりに渡瀬の家でも遊びに行くか?」功が言い出した。

「俺、渡瀬のこと良く知らないよ」僕が言うと、

「大丈夫、大丈夫、俺たち一年の時、何度も遊び行ってるから」健太が答えた。

「まあ、暇つぶしに女の子の家に遊びに行くのも良いか」

 そんな軽い乗りで、家に向かった。彼女の家は相模大野。本厚木から車で三十分くらいで着いた。

閑静な住宅街の中の二階建ての一軒家。

 家の前の車道に自動車を横付けして降りた。

 功がチャイムを鳴らすと、「は~い」彼女の声が中から聞こえた。

「こんちは、木村です」

「あら、木村君、ちょっと待って」

 玄関のドアが開き、グリーンのパステルカラーのトレーナーにホワイトジーンズを穿いた彼女が出てきた。とても似合っていて、可愛いなと思った。

「城島君も、それに田辺君?久しぶり、どうしたの?」

「渡瀬どうしてるかな?って思ってさ」健太が言うと

「何とか元気に生きてるよ、良かったら上がって、母さんも喜ぶから」

「お邪魔しまーす」と挨拶をして家に上がると、彼女の部屋に通された。十畳ほどある洋間は、女の子の部屋らしく、きれいに整頓されていた。

 しばらくすると、彼女のお母さんが、お菓子と飲み物を持って現れた。お母さんは、小柄な少しポッチャリした上品な女性で、顔立ちは渡瀬がこの人の娘ということがひと目でわかるほど良く似ていた。

「お邪魔してます」三人で挨拶をすると、

「城島君に木村君久しぶりね、元気でやってた?城島君彼女とは仲良くやってるの?」

 健太は少し照れくさそうに

「元気ですよ、彼女とは別れましたけど」

「そうなの、ふられちゃった?」

「そうなんです」

「それで寂しくて佐織に会いに来たわけね、こちらの男の子は誰?」と僕に視線を向けた。

「田辺といいます。突然伺ってすみません。よろしくお願いします」

「同じ高校?佐織と同じクラスになったことは無いよね」

「はい、佐織さんとは一緒のクラスになったことは無いです」

「そう、今はどこの大学行ってるの?」と矢継ぎ早に質問をしてきた。

 彼女が、

「田辺君は武蔵美だって、お母さんいい加減にしてよ!」

「芸術家なんだ、佐織と仲良くしてやってね」

「はい!」

 少しドキマギしたが、お母さんは気さくな感じの人だ。

「では、おばさんは邪魔でしょうから、失礼するね。ゆっくりしていってね」

 そう言いながら部屋を出ていった。

「ごめんね、うちの母さん図々しくて、何でも言いたいこと言うから」

「佐織のお母さんのそういうとこが良いとこだよ、フランクでさ」

 功がしっかりフォローをした。

「ところで大学生活の方はどう?楽しい?」

「まあ、そこそこ楽しくやってる。スポーツ同好会に入って、野球やテニスをやったり、勉強の方はさっぱりだけどね」と功が答えると、健太は

「俺は適当にサボってバイトとバイクの日々かな、こいつらとは、土日になると一緒にほっつき歩いてるけど」

「俺は、入ったのは良いけど、結構授業について行くだけで大変。土日だけは、こうして羽を伸ばしてるってとこ」僕は答えた。

「私は、大学入っても相変わらず演劇部、結構大変だけど、充実してるかな」

「楽しくて充実してるのが一番だよ、でも、就職のこと考えるといろいろ不安だよな」と一年先を行く健太が言うと、渡瀬も

「演劇で食べていけるわけは無いし、マスコミ関係にでも進めれば良いと思ってるんだ」

「そうか、俺は、広告の仕事でも出来ればと思っているんだけどな」と僕も話しをした。

「現実はなかなか難しいよね」

 渡瀬とは、初めから打ち解けて、いろいろな話しをすることができ、一緒にいて居心地が良かった。

 

 それからは、月に一度のペースで、彼女の家に三人で遊びに行くようになった。


 四月に訪ねたとき、

「そう言えば、この夏に三人で北海道に旅行しようと思ってるんだ」健太がそんな話しを始めた。

「どうやって行くの?自動車?飛行機?それとも夜行列車とか」

「カーフェリーだよ、竹下桟橋から苫小牧行きが出てるんだ、しゅんの大学の友達が北海道出身で半額券持っていてもらった、六人までは半額で行ける」

「良いな、私も行きたい。そうだ!あっちゃんも誘えば行くかも?あっちゃんが行きたいって言ったら、一緒に連れて行ってくれる?」

 桐島敦子、彼女も同じ高校の同窓生だ。

 渡瀬の家の向かいに家があり、幼馴染だそうだ。僕たちは、顔くらい知っているが同じクラスになったことは無い。

「俺は良いけど、功やしゅんは?」

「俺も良いよ」

「五人も楽しいんじゃないか」

「良ければ、今電話で聞いてみる、ちょっと待ってて」

 彼女は電話を掛けに行った。

 五分ほどして、彼女が部屋に戻ると、

「行きたいって、お願い連れてって」

と渡瀬は両手を合わせて、僕たちを拝んだ。

「俺たちは良いよ、でもホテルなんて泊まれないから、ユースホステルだよ」

「何でも良いよ。みんなの言うこと聞くから、やった!嬉しい!」

「それじゃ、今度五人でコースとか計画を立てよう」

 そんなふうに、男三人から、男女五人の貧乏旅行が計画されていった。二週間に一回のペースで健太、功、桐島さんと彼女の家に集まった。そうこうしているうちに、僕は、彼女の屈託のない明るい性格と優しさに触れ、何時しか好きになっていた。

 旅行まであと一週間と迫った最後の打ち合わせの帰り、車の中で二人に渡瀬への気持ちを打ち明けた。

「あのさ、俺渡瀬のこと好きになっちゃったみたい」

「うっそ~、本当かよ?でも俺、しゅんが、佐織のこと好きになるような気がしてた」そう言って健太が笑った。

「しゅん、渡瀬のこと好きになっちゃったか、俺、何とか応援してやるからよ」功は、結構真面目な顔をして僕に言った。


 七月二十六日、各自重そうなバックを抱えながら、北海道に向かい旅立った。

東京の竹芝からカーフェリーで苫小牧まで、約三十二時間の船旅。天候にも恵まれ快晴の中、船はゆっくりと大海原を進んだ。みんな初めての船旅で船の中を探索したり、甲板に出て日光浴をしたり、かなりはしゃいでいた。

 出発から翌々日の明け方、朝靄の中を船は苫小牧港に就航した。北海道の大地が見えた時には、ついに最北の大地に来たという思いを強くした。苫小牧から札幌までは定期バスで向かった。

札幌に到着し、その日宿泊するユースに向かい、荷物を預かってもらった。大通り公園や時計台など、札幌の観光スポットを歩ける範囲で回った。

 札幌に一泊した翌日、ワンボックスのレンタカーを借りていよいよ北海道の旅をスタートさせた。まずは稚内に向けて車は国道二百三十一号線を海岸沿いに北進していった。車内ではサザンオールスターズを中心に竹内まりあや浜田省吾など当時流行っていたニューミュージックのカセットテープをかけ歌いながら大騒ぎして進んで行った。青い空と海、緑の牧場には牛や馬が放牧されている、そんな風景のど真ん中をワゴン車はスピードを出してひたすら突っ走る。途中車を停めて写真を撮ったり、ご飯を食べたり、大声で歌ったり、最高の気分で時を過ごしていた。スピードを出し過ぎて、コーナーで横転していたトラックに遭遇することもあった。北海道は景色が良くて視界も良すぎるくらいで、ついよそ見運転をしながらスピードが出過ぎてしまう。全国的にも死亡事故の多い理由もわかる気がした。

 その日の夜には稚内に着きユースに一泊をした。翌日は一便のフェリーで礼文島に渡った。礼文島では、自転車を借りて海岸沿いをサイクリング。海はエメラルドグリーン、今まで見たことのない美しい景色だった。午後最終のフェリーで稚内に戻りユースにもう一泊する予定でいた。何をとち狂ったか、男連中は無謀にも車で寝るなんてことを試みた。七月下旬の稚内は夏とは思えない気候だった。夜中に寒くて目が覚め、車のヒーターを入れて眠った。

 翌日は、宗谷岬から網走に向かった。宗谷岬に向かう途中、ドライブインで昼食を取る。原っぱのような駐車場を見て彼女がワゴン車を運転してみたいと言い出した。

「しゅん、お前が教えてやれよ、俺たち店でコーヒーでも飲んで待ってるからさ」功が気を使って言ってくれる。

「しょうがないな、わかったよ、俺が教えるよ」

 本当はとても嬉しいのに、面倒くさそうに言いながら、助手席に僕が乗って運転方法を教えることになった。

「田辺君ありがとね」

「渡瀬、少しは運転したことあるの?」

「全くない、初めて」

「そうか、じゃあエンジンをかけるところから教えるね。まずキーを挿し込んだら、ギアが入ってないか確認して」

ギアがニュートラルかどうかの確認方法を教える。

「足元にある三つのペダルの一番右側がアクセル、真ん中がブレーキそして左がクラッチだよ、わかったら、キーを回しながらアクセルを踏んでみて」

「そうなんだ、何だか良くわからないけど、言われた通りにやります」

キーを回しアクセルを思いきり踏んだようで、エンジンがかかるとともに爆音が響く。

「びっくりした!」

そう言って彼女はアクセルを離す。

「俺もびっくりしたよ」言いながら笑った。

「何とかエンジンもかかったから、次はシフトレバーをロウに入れて、アクセルを吹かしながらクラッチペダルをゆっくり持ち上げてギアを入れるんだ、そうすると車が進むから」

シフトレバーの入れ方からクラッチペダルの上げ方までをゆっくり説明して、何度かやらせてみる。

始めは何度かエンストをしたが、やっているうちにクラッチを上手く上げギアが入り、車が前に進んだ。

「すごい、前に進んだ」

 そんなことを言って大はしゃぎしている。それから、ロウのまま駐車場の中をゆっくり動いた。しばらくして、ブレーキをかけさせたらそのままエンストをした。

「今日はこのくらいで良いかな?」

そう言うと、

「田辺君本当にありがとう、凄く楽しかった。旅行から帰ったら絶対免許取りに行く」という返事が返ってきた。

そんな他愛のない小さな出来事が、鮮明に心に残っている。本当に嬉しそうで、僕もとても楽しかった。しかし、二人でいて僕はドキドキしていたが、彼女は全く意識なんかしていなく、あまりの屈託のない様子に悲しい気持ちにもなった。

 網走、摩周湖、阿寒湖、足寄、帯広、十勝、夕張と車での旅は実に速いスピードで進み、最後札幌に着き、北海道の旅は終わりを告げた。

翌日には、バスで苫小牧に向かい、カーフェリーに乗り一路東京へと向かった。

帰路のカーフェリーも二等室でみんなと雑魚寝、部屋で二人だけになる機会があった。部屋で寝転びながら、旅の思い出を話していた。

「あっという間に終わってしまったね」

「本当!もっといろいろな所に行きたかったね」と彼女が言った。

「行きたくても行けなかったところ、たくさんあるもんな」

「うん、今度またいつか、みんなで行けるかな?」

「こんな旅行は、もう出来ないだろうな」僕は返事をした。

「本当だよね、学生でもなきゃ出来る旅じゃないよね」

「そういう意味じゃ、一生忘れられない良い旅だったよな」

「そうだね」

そう話しながら、僕はそのとき告白しようと思った。

「あのさ……」

「なーに?」

次の言葉を発することが、なかなか出来ない。

しばらく沈黙が続き、どうしようと思っていたら、彼女の寝息が聞こえてきた。

 思わず起きて顔を覗いたが、とても気持ち良さそうに眠っている。

「ふぅ~」と僕は大きなため息を漏らした。

(僕と彼女は、やっぱり無理なんだな。彼女にはその気は無いし、一人相撲をいつまで続けてもしょうがない)

そう思い、天井を眺めながら、僕も深い眠りについていった。


 北海道から帰り、旅行の反省会だとか、写真が出来たとか、を理由にして彼女の家に集まった。

ときに、二人で美術館に行ったり、喫茶店で話したりすることもあった。

週に一度は、僕から電話して長電話をした。しかし、自分から好きだと告白することはやはり出来なかった。

 彼女は四年生になり、就職活動に奔走し、連絡はしづらくなっていった。そして、秋に入り中堅の出版社に内定が決まったことを健太から聞かされた。

 「お前、渡瀬のこと諦めたの?連絡くらいすればいいじゃん」

 「もう就職先も決まって、そっちのことで精一杯だろう?俺だって、来年になったら就職活動で、それどころじゃ無くなるし」そう返事をすると、

「そういうものじゃないだろ、好きと言いもしないで、後悔しないのかよ?」

少し強い口調で、言い返された。

「う~ん?わからない、でも、言ったって振られると思うし、その方がショックだよ。こんな終り方もあるのかな」

「お前、本当にはっきりしねえな。俺は、駄目でも自分の思いはぶつけるべきだと思うけどな」

「時期が悪いよ」

「本気で渡瀬を好きじゃないんだよ」

断言するように言われた。

「そんなことは絶対ない!今までで一番好きになった女性だよ。彼女には幸せになって貰いたい。でも幸せにする人は、俺じゃないような気がするんだよな」

そういうのが精一杯だった。

「お前馬鹿だな、これ以上言わないけどさ」

 健太は、僕を思って言ってくれたのは、よくわかっていた。でも、どうしても告白する自信がなかった。彼女には何も言えないまま、少しずつ忘れるように、学生生活に埋没して行った。土日には、結婚式場で皿洗いのバイト、普段の学校では、視覚デザインの勉強を本格的に始めていたので、それなりに忙しい日々だった。


 そうこうしていているうちに、新しい年を迎えた。家族と新年を迎え、例年どおり近所の神社に初詣に出掛けた。戻ってくると、郵便受けには年賀状が届いていた。大学生にもなるとまず年賀状などはほとんど来ない。大半が父親と母親そして兄への年賀状、そんな中に僕宛の年賀状が数枚来ていた。高校の保健室の先生や高校の友達、そんな中に渡瀬からの年賀状も来ていた。


明けましておめでとうございます

私は出版社への就職も決まり今年の春から社会人

田辺君は元気でやっているのかな?


こんな短い文面だった。

しかしそれを見て、また彼女への思いが沸々と蘇ってきてしまった。

結局それから一週間ほどして渡瀬の自宅に電話をしていた。

二階の渡り廊下に置いてある黒電話、ダイヤルを回してプルルプルルと鳴っている間はドキドキした。お父さんが出てきて「何の用だ?」なんて言われたらどうしよう。

受話器が上がった。

「もしもし」

「こんばんは、渡瀬さんのお宅ですか?」

「そうですけど」

渡瀬の母親の声だ。

「田辺です、明けましておめでとうございます」

「田辺君、おめでとう、元気だった?」

「はい、佐織さんいますか?」

「いるよ、少し待ってね」

受話器から、佐織電話!と呼ぶ声が聞こえた。

「もしもし」渡瀬の声だ。

「おっ、俺田辺、おめでとう」

「おめでとう、元気だった?今年もよろしくね」

「うん、そういえば出版社に就職決まってよかったね」

「ありがとう、何とか決まってホッとしてる」

「もう春から社会人だな」

「四年間あっという間だったな、北海道旅行が一番楽しかった」

「そう、俺も楽しかった、もう一年半も前のことだもんな」

「そうだね、冬休みはどうしてるの?」

「ダラダラしてるよ、明日健太達と会うけどね」

「そうなんだ、私も明日は大学の友達と新年会」

「そうか、今度また会おうか」

「そうだね、来週の月曜日辺りはどう?」

「十六日なら大丈夫だよ」

「じゃあ、私の車で迎えに行くよ」

そんな会話から二人で会った、そしてそれが本当に二人の最後になったんだ。


 レイちゃんは僕の話しをずっと聞いてくれていた。

「最後に逢ったのがこの場面なんですね?」

「そうみたいだね」

「結局は告白できなかったんですね」

「……」

「そうですか、しゅんさんとにかく頑張ってくださいね」


レイちゃんがそういうと、いつの間にか、また僕は青のアルトの助手席に座っていた。


 (もう一度この時に戻って来ちゃった!彼女とまた会えるなんて夢みたいだ)


車中では、止め処も無い会話が続いた。あのときと同じだ。

「改めて明けましておめでとう、田辺君本当に久しぶりだよね」

「そうだな、明けましておめでとう。出版社への就職が決まり本当に良かったね」

「何度もありがとう、けど少しは連絡してくれれば良かったのに」

彼女から音信の無かったことを言われ内心嬉しかった。

「そりゃしたかったけど、就職活動が忙しいだろうと思ってさ」

「確かに忙しかったけど、電話で話すくらい出来るよ」

「それなら、渡瀬から電話寄越せば良かった」

「そりゃそうだけど、女性から電話するのも」

「そういうもんか?」と笑って言った。

「私男の子の家に特に用事がなくて電話したことないんだもん」

女の子らしい言い訳をしたので、

「そうか、俺だって渡瀬の家に電話する時はドキドキするよ、親父さんが出てきたらどうしようっていつも思うもん」と本音を口にした。

「そうなんだ」

「そりゃそうだよ」


僕はその日の夜は大森の友達の下宿に遊び行く予定でいた。

渡瀬は最近お兄さんの目黒のマンションに泊まっていて、今日も夕方には羽田空港まで迎えに行くらしい。

国道一六号を走り保土ヶ谷インターチェンジから第三京浜に乗った、彼女も就職が決まりそのお祝いにお兄さんがこのアルトを買ってくれたらしい。小さなアルトで高速道路を走るのはかなり怖かった。大型トラックが追い越し車線を走り去る時は風圧で車が飛ばされるような感覚があった。

「おっ、こわっ!」

「きゃっ」

「ダンプが走り去ると風圧が凄いな」

「ほんと、飛ばされちゃうかと思った」

「そうだよな、もっとゆっくり走ってもらいたいよな」

「寄って来たよね」

「アルト小さいからな」

「うん、確かに小さいから怖いよね」

そう言いながらもジェットコースターに乗っているようで思わず二人で笑ってしまった。

第三京浜から降り目黒通りに入った。

「四月からはお兄さんのマンションから会社に通うの?」とこれからのことを聞くと、

「まだわからない、両親は実家から通えって言うけど、仕事が遅くなると遠いから大変だろうしね」まだ住むところに悩んでいる様子だった。

「そうか、渡瀬も社会人になるんだな、それも出版社じゃ忙しくなるな」

これからの彼女の生活の変化を思い口に出した。

「そう、今はバイトで手伝いに行ってるんだ、懸賞の応募葉書の処理をしたり、アンケート葉書をまとめたりといろいろ忙しい、雑用ばかりだけどね」

「そうか、でももう半分社会人だな」

「まだバイトだよ」

「何か、差がますます開いていく感じだよな」

自分との距離を感じた。

「そんなこと無いよ、田辺君だって四月から就職活動でしょ」

彼女は別に気にしてる様子はなかった。

「そうだな、頑張らなきゃな」

「そうだよ!お互い頑張らなきゃね」

そんな話しをしながら、僕もいつまでも学生気分じゃいられないことを痛切に感じた。

「羽田に迎えに行くまで時間あるから、どこかで車を停めてお茶でも飲もうよ」

「そうだな、渡瀬疲れたろ?」

「そうでもないけど、さっきのトラックはかなり怖くて神経使ったかな」


 目黒通り沿いの自由が丘の駅に向かい、パーキングを見つけて車から降りた。

そこから駅に向かい駅前ロータリーの喫茶店に入った。

 ここで言わなければ、もう言う機会は無い。当時も言おうとしたが、将来のこと考えたら結局は言えなかった。彼女がどんどん先に行ってしまって遠い存在になっていくように感じた。僕が彼女を支える存在になる自信なんて全く無かったし、彼女にはもっと年上の素敵な人がこれからいくらでも現れると思った。そんなことばかりが、頭の中をぐるぐる駆け回っていた。

 今の自分の思いに正直になろう。そして何より彼女の気持ちが知りたかった。


 二階窓側の席に腰掛けて、僕はアメリカンコーヒー、彼女はミルクティーを頼んだ。

窓から駅前の人の行き交う様子を見ながら、自然と自分の気持ちを口にしていた。

「渡瀬さ、今言わないともう言える機会は無いと思うから言うけど、ずっとお前のことが好きだったんだ」

「そうなんだ」何か人ごとのような言葉が返ってきた。

「そうなんだって、俺の気持ちを言ったんだから、渡瀬の気持ちも教えてくれる?」

 そう言ってしばらくの沈黙が続いた。

 

心臓が早鐘を叩いているのがわかる。ドキドキして血圧が上がりそうだった。

 

渡瀬がミルクティーを一口飲み、じっと僕の顔を覗き込むように見つめたかと思うと、

「私、田辺君のこと好きだよ、でもどうやって付き合っていけば良いのかよく分からないの」

初めて渡瀬が自分の気持ちを口にした。


田辺君のこと好きだよ! それを聞いただけで、僕は今にも宙に舞い上がる気持ちだった。大声で叫びたくなった。嬉しい!


「俺のこと本当に好きなの?」つい聞き返してしまった。


「うん、好きだよ」はっきりそう言った。

僕はもう有頂天になって、

「ありがとな、俺嬉しくて変になりそう」と返事をしていた。

「そんなに喜んでくれるんだ、私も嬉しいよ」

にっこり笑う渡瀬、可愛いじゃないか!

「本当は全く自信なんか無くて、渡瀬も就職だし、社会に出てきっと年上の素敵な人と巡り会うだろうなって諦めようと決めていたんだ。だけどやっぱり言わないままだと後悔するし、振られたら振られたで諦めもつくしな」

「そんなまだ巡り合ってもない人好きになれないし、今田辺君のことが一番気になるし仲良くしたいよ」

「なんか奇跡みたいだな、絶対駄目だって。俺のことなんか眼中に無いって」

話しをしながらも夢心地で会話をしていた。

「付き合うってどうすればいいのかな?」

彼女が言った。

「出来るだけ会って、いろいろな話しをして、いろいろなところに行けば良いんだよ」

「そうだね、そんな難しく考えることはないよね」と彼女は微笑んだ。やっぱり可愛い!

「うん、これから渡瀬は先に社会に出るからいろいろ忙しいだろうし、俺も就職活動でガタガタすると思うけど、お互いの今の気持ちを大事にして行こう。俺渡瀬といる時が一番幸せな時間だから、渡瀬にとっても俺といる時が幸せな時であってほしい」

「うん、本当にそうだね。私もそうだし、これからだってそうだよ」

ますます嬉しいことを言ってくれた。


 人生は、本当に先の読めないゲームのような気がする。僕はいつもゲームに負けるような気持ちが先にたって、参加することすらしてこなかったのかもしれない。


 それからしばらくの間、ふたりのこれからのことを話した。今までのことがまるで嘘のように、気持ちはすっきりしてとても嬉しかった。そして彼女への思いがますます募っていった。

彼女もお兄さんを迎えに行かなければならない時間になり、喫茶店を出て、僕の友人の下宿がある大森まで車で送ってもらった。次に会う日を約束して、彼女の車を降り見えなくなるまで見送った。名残惜しさと夢心地のままのとても幸せな思いに浸りながらそこにしばらく佇んでいた。これから僕たちはどうなるんだろう?


 ビルの間から見える夕陽を浴びながら僕の意識は遠のいて行った。



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