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仕事の引継ぎを済ませ、三月十一日に入院した。
病室は二号棟八階の八〇二号室、六人部屋だ。病室のベッドは全て埋まっていた。八階の患者は皆内臓の癌患者だ。同室は胃癌の患者が二人と大腸癌が二人、あとの一人が肝臓癌のようだ。皆ある程度進行した状態で、手術後化学療法を続けていたり、僕のようにはじめから化学療法を行っている。
病院での生活が始まると、生活が一変した。朝昼晩の病院から出される食事を規則正しく食べる。午後の一時間、点滴による抗がん剤が投与される。そのあとは、倦怠感と吐き気に襲われほとんどベッドで横になっている。体調が良ければ、ロビーのテレビを観るくらいだ。入院する時に小説でも読もうとまとめ買いをしたが、本を読めるような体調の日は無かった。
一週間そんな生活を続け、いつもの通り昼食後点滴を受けていると、その日はいつもと違った。
初めうとうとしていた。突然目の前がクルクル回り出した。目を開けていられなくなり、目をつぶると暗いブラックホールの闇に吸い込まれて行く。
なんだ?いったい?
暗闇の中をジェットコースターに乗った感じ。一条の光が見えて来た。光に全身が包みこまれた瞬間、見たことのない空間に佇んでいた。
薄ぼんやりと明るく雲の中にいるようだ。淡い光に包まれた真っ白な部屋にいるようにも感じる。ドアもなく壁で仕切られてもいない。
自分を見るとパジャマ姿のまま。だが、点滴の管には繋がれていない。胃の痛みや体調の悪さは感じない。
ベッドも無ければ、人がいる気配もしない。
意識が段々はっきりしてきた。周りをキョロキョロする。一瞬眩しい光が射し込み、目を瞑った。
目を開けると、まっ白なフリルのドレスを着た幼い女の子が立っていた。突然なことで声も出ない。
「しゅんさん、こんにちは」長い髪をポニーテールにしたその子が、笑顔で僕の名を呼んだ。
思わず身を縮めて見つめた。
「しゅんさん、こんにちは」
つぶらな瞳を向け、また話しかける。
「何で名前を知ってる?」僕は怯えながら、語気を強めた。
「しゅんさんのことは、いろいろ知ってる」
「だからどうして?」
「それは、今は言えない」
訳がわからなかった。
「一体、どこから現れた?」
「空の上から」
愛らしくて、小さな女の子。楽しそうに笑っている。少し気持ちが落ち着いた。
夢にしては、あまりにも周囲が明るい。意識もはっきりしている。
「夢を見ているのかな?」
「夢ではないです」
現実には思えない。
「そうか!僕は死んだのか?死ぬとこういう場所に来るの?」
「しゅんさんは死んだわけじゃないです。確かにもうすぐ死ぬのかもしれません」
なんだよ?どっちなんだ?理解が出来ないことばかり。
「まだ死んでないんだ。ここはどこで僕はどうなるの?」
「しゅんさん、あまり考えないで。異次元の世界にでも迷いこんだと思って。それなりの体験をしてもらったら、元の世界にちゃんと戻します」
考えてどうなるものでもなさそうだ。開きなおって来た。
「お譲ちゃん、お名前は?」
「人間世界で言う名前はありません。まあ、レイちゃんとでも呼んでください」
幽霊なのか?
「じゃあレイちゃん、何で僕がここに来たの?」
「私にはわかりません。抽選で選ばれたと思ってください」
夢なら夢でもいい。どうせ何もすることもないんだ。しばらくレイちゃんにつき合おう。
「わかったよ、それならレイちゃんが聞きたいことって?」
「それでは聞かせてもらいます。今までの人生はどうでしたか?」
「何がどうだって言うの?今更人生を振り返ってみたって、特に思うことなんて無いよ」
気持ちとは裏腹な返事をしていた。
「本当?五十年も生きて何かないですか?楽しかったことや後悔したこととか?」
そりゃ五十年も生きてくればいろんなことがある。でも諦めることを覚えた。
「う~ん?そんなこと言ったって、どうにかなるものでもないしな」
「そんなことないです」
レイちゃんは小さな声で囁いた、
「ここだけの話し、何とかなるかもしれません」
「どういうこと?何がどうなるって言うの」
「とにかくどうだったんですか?」
五歳にしか見えないレイちゃんに、今までのこと、本当の気持ちを話し始めていた。
「結論から言えば失敗、後悔ばかりの人生だよ。子供の頃から思い通りには行かないことばかり。学生生活だって仕事だってこれって事もなく。結婚したけど妻はいなくなっちゃうし。最後は胃がんになって五十歳で死ぬんだよ!」
「結構後悔だらけの人生なんですね」
少しカチンときた。
「レイちゃんに言ってもしょうがないけどね」
「わたし見た目もしゃべり方も幼いですけど、頭はクレバーですし、普通の大人より、余程能力もあるし経験も積んでいます」
そんなこと言われても、五十親父が幼い少女に愚痴を言っている様は、やはり普通じゃない。