ある男の人生 余命3か月 癌に蝕まれた 28歳の場合
ご訪問ありがとうございます。
今回もかなりの長文です。
投稿後、誤字脱字や、文章的に可笑しな箇所を見つけた場合はその都度書き直します。
ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。
現在の俺は病室のベットの上で死を迎える日を待っているだけの28歳だ。
妻は2学年下の25歳で現在 妊娠9か月(32週目)だ。
出産予定日まであと約1月半くらいある。
俺は、これから産まれてくる子供に会うことが出来ないだろう・・・。
会える日を楽しみにしながら、強力な化学療法(抗がん剤治療)の副作用の苦しみにも毎回耐えてきた。
子供に会える日を考え「1日でも長く生きよう、生きたい、生きなければ・・・」と、その気力だけで頑張った。でも・・・・余命3か月の余命宣告を受けてしまった。
もう限界だ。精神的にも肉体的にも疲れ切った。気力すら湧かない。
俺の命の火は、そろそろ消えかけそうな状態だ。
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俺は大学卒業後、自宅から車で約20分の場所にある某中小企業に就職した。
当時の俺の年齢は22歳だった。(4月下旬が誕生日だから、入社後直ぐに23歳になった。)
入社式の日に同期の女の子に一目惚れした。
その娘は、20歳で短期大学を卒業後、就職してきた。
(彼女は2月14日の早生まれでバレンタインデーが誕生日だ。)
入社後、会社行事で親睦会があって、『お花見』と言う名目でその週の土曜日に○○記念公園の桜の下で宴会をした。隔週で土曜日は午前中のみの勤務があった。この花見の行事の日は、10時半頃には仕事を切り上げて車通勤組が公共交通機関(電車やバス通勤)組を相乗で会場にやってくる事になっている。
程よく散った(桜の)花びらはひらひらと風に舞って地面(緑の芝生の上)に落ちている。淡いピンク色のじゅうたんの上にブルーシートを敷き寝っ転がって少年ジャンプを読みながら上司や同僚達の到着を待った。要は今年は新入社員全員(各部署合わせて)計10名でくじ引きをして、俺ともう一人の奴が当たりを引いてしまったから、仕事もせずに朝から場所取り当番になったのだ。
デリバリー注文で配達されたオードブルプレートやお花見弁当、缶ビールや缶ジュースなどの飲み物(約80人分)を受け取り、注文された商品と個数の確認を当番になった(同期)○○と協力しながら行った。受領サインを済ませた頃に会社の連中がゾロゾロと到着した。
参加者全員が11時頃には揃って、社長が簡単な挨拶をして乾杯の音頭を取り宴会が開始された。
超大判ブルーシートを大きな桜の木が並んでいる間に4~5枚敷き詰めた。
小さな会社だからパートのおばさん達を含めても総勢100名前後だ、。パートさんは自由参加で子供の行事などを優先して花見には来ない人もいた。だから充分に座れる状態だった。遠くの方に、気になる彼女を意識しながら、上司に気を遣いながらも飲みまくった。
彼女は、短期大学を卒業後に一般事務として働いていた。
俺は営業部だったから、取引先回りや新規開拓が主な仕事だ。だから、資料や契約書などの書類作成を頼むときは社内メールで頼むのだが、早急に欲しい時などは直接話し掛けたりするので、会話するチャンスはいくらかあった。
そんなに大きくもない事務所の中は、一応、営業部・企画部・経理部・一般事務・総務部などに分かれていて、会社のビルが3階建てで、敷地内に倉庫もあり、駐車場も完備されている。
1階には、表玄関がある『会社の顔』の為、受付に一般事務、その奥に応接室、給湯室がある。
2階フロアーには、営業部、企画部、その奥には給湯室と男女別の化粧室がある。
3階フロアーには、経理部、その奥に会議室と社長室があり、給湯室、男女別の化粧室がある。
各部署にはそれぞれ25前後のデスク置かれており、各部長の席は出入り口から遠い窓際で窓を背に社員達を見守るような感じに置かれている。部長のデスクから近い場所には係長と課長の席がある。
言うまでもないが、どの部署も新入社員の席は出入り口から一番近く、隣の席が先輩で新人を指導する担当者だ。
当然、俺は出入り口から入って直ぐの席だった。
そんな中、どうして気になる彼女と会話が出来、結婚までに至ったか・・・。
倉庫脇のフォークリフト置き場がトタン屋根付きで無駄に広いのだが、出勤後には社員・パートさん全員でラジオ体操らしき『社内体操』をする決まりがある。(社長はいつも重役出勤で不参加だ。)
それが終わると一般事務の女性達が当番制で各フロアーの社員にお茶を配ってくれる。その際に各フロアーの新入社員も手伝っていた為、彼女が営業部のお茶くみの時には給湯室で2人きりになれるチャンス到来だった。
俺は、初めのうちは、世間話する位しか出来なかったが、徐々に自分の気持ちが高ぶり、彼女に自分の事を知って貰おうとアピールをした。
それを数回しているうちに、彼女の警戒心も解けて彼女も俺に普通に喋ってくれる様になり、彼女のプライベートに関することを質問すると話してくれるようになったのだ。
「彼氏いる?」に対しては「今はいない。」
「趣味は?」に対しては「特にないけど、週一でフラダンス教室に通ってるの。」
「車通勤?」に対しては「電車通勤ですよ。」
「どの辺に住んでんの?」に対しては「○○駅の近く。」
こんな感じで、1回に聞ける情報は、1~2つだけだったが、俺は凄くこの時間が嬉しかった。
ある日の昼休み時間に勇気を出して『よかったら今度の土曜日の午後の会社帰りに買い物に付き合ってくれない?』と社内メールで意中の彼女に聞いてみた。
母の日のプレゼントを彼女に選んで貰いたかったからだった。母の日はその土曜日の翌日だった。
営業から戻って来てから返信が届いている事に気が付いてメールを確認したら「今年は5月8日が母の日だからでしょ?私も買い物したいから良いよ。」とあった。
察しが良い彼女に改めて惚れたのだ。
その約束をした土曜日の午後に彼女を自分の車に乗せて、近くのモールに行った。
お互いもう気慣れしていたから、モール内のフードコートで一緒にランチしている時も会話も弾み楽しいい時間だった。ランチ後に、彼女が手にした母の日用のプレゼントを見て、「俺も真似して同じ商品にするよ。」と言って同じ物を購入した。
俺にとっては、これが人生初の『母の日』に渡すプレゼントだった。
(幼少時は、似顔絵だとか手作りの肩たたき券だとかプレゼントをした事はあるが、社会人1年目にしてやっときちんとしたプレゼントをするのは初めてだった。)
彼女は、短大生の時にバイトで稼いだお金で母の日にプレゼントをしていたと言っていたな。
この母の日のプレゼント選びデートを切っ掛けに2人の距離がグーンと接近し、交際がスタートしたんだ。
この日の思い出は、絶対に忘れられないだろう....。
約2年間の社内恋愛を得て、交際開始日から3年目の6月下旬に俺達は結婚をした。
結婚式は、質素にチャペルで式を挙げた。
そして、披露宴は会社の同期が押さえてくれたレストランで行った。
そのレストランは同期の知人が経営しているイタリアンレストランだった。
招待客は身内と学生時代の友人数名と会社の上司、同僚だけで済ました。
彼女は新婚旅行でハワイに行きたがっていたが、2泊3日のグアム旅行で我慢して貰った。
俺が26歳、彼女が23歳だった。
結婚を機に、自分で加入していた生命保険の受取人を母親の名前から妻になった彼女の名義に変更をした。
《定期的に職場に生命保険のセールスレディー(って言っても年配のおばちゃんだ。)が訪問しては、社員(特に新入社員はカモに見えたに違いない。)に生命保険の勧誘をされたから、仕方なく付き合いで加入した。》
俺も彼女も親と同居だった為、それなりに貯金があった。
俺達は、結婚の準備と同時進行で新居にする物件を2人で探し、俺の実家の近くの新築1戸建ての家を購入する事を決めた。2人の貯金額を照らし合わせて、頭金を捻出した。
俺名義の住宅ローンは35年間だ。勤続年数3年目でも頭金があった為住宅ローンの審査は通った。
2人の貯金の全額を頭金にしてしまうと、必要最低限の家具や電化製品などが買えなくなる為、手元にいくらか残して家具や電化製品を購入した。夏のボーナスも入ったばかりだったから助かったのは確かだった。
住宅ローンを組むと団体信用生命保険にも加入しないとならない為、月々のローンに保険料が上乗せされていた。住宅ローンを組む時に医療系団信の中身を検討し、念の為 がん団信を選んだ。
新婚旅行から帰って来てから、2人の新居で結婚生活が始まったんだ。
この日も忘れられないだろう・・・。
結婚後も彼女は住宅ローンの事もあるし・・・と仕事を続けた。寿退社は特に希望していなかったから、俺も何も言わなかった。
1台の車で2人揃って車通勤をしていたが、営業部は残業が多い為、定時で帰れる彼女は先に自宅に帰って食料品などの買い物、夕飯の支度を済ませてから、俺からの連絡を待って会社に迎えに来てくれていた。
職場結婚と言っても、部署が違うから社内で顔を合わせるのは、朝の社内体操とお茶くみの時位だった。
だから、普通の恋愛結婚と差ほど変わらないと思う。
2人して頑張って働いて、生命保険料、住宅ローン、光熱費、生活費、車のローン、車の保険料、そして月々の貯金などを2人の収入から賄っていた。因みに、俺の給料はそのまま銀行振り込みで俺名義の通帳に振り込まれたし、彼女もそのまま自分の通帳へ振り込まれた。それをどうやって折半していたかと言うと、俺の通帳から住宅ローン、車のローン、車の保険料、生命保険料、住宅用火災保険などが引き落とされ、時々同僚の付き合いで酒を飲みに行ったりしていた。手元に残ったお金は貯金に回し、彼女は光熱費と生活費を賄っていた。(残ったお金はいくらかは知らないが、多分貯金していたと思う。)贅沢は出来ないが、彼女は毎朝きちんと朝早くに起きて、2人分のお弁当とステンレスボトルにお茶や麦茶などを入れて用意をしてくれていた。
彼女がそろそろ子どもが欲しいと言い出したのは、彼女が24歳のクリスマスイヴだった。
俺ももう27歳だし、30歳までには欲しいと思っていたから、2人で子作りに励んだ。
その結果、彼女が妊娠したと知った時には、既に妊娠3か月(妊娠9週目)だった。
2人して「ヤッターッ」って喜んだのを今でも覚えている。
そんな中、数週間程前から俺の体調が思わしく無かったんだ。
営業で毎日外回りだから。疲労とストレスで疲れがたまり全身の倦怠感が抜けないと思っていたんだ。
そして、なかなか起き上がれなかった月曜日の朝方、怠さと悪寒があり、少し寝汗をかいていた。検温したら38℃以上になっていた。風邪だと思った。
その日は、妻に病欠届を出して置いて欲しいと頼んだ。妻は一人で出勤した。
近所のかかりつけの内科クリニックまで歩いて行き、受付で保険証と診察券を提示し、問診票と体温計を渡され、待合室のソファーに腰かけて検温をしながら問診票に記入した。
症状を書く欄には、
『全身の倦怠感、寝汗、発熱38.7℃あり、全身に少し痒みを感じる』と記入した。
体温計が「ピッピ ピッピ・・・」と鳴り、体温を確認したら少し熱が下がっていた。
体温計と記入した問診表を受け付けに渡し、自分の名前が呼ばれるのを待った。
診察結果は「もしかしたらインフルエンザかも知れませんね。一応、座薬で解熱剤を出して置きます。解熱剤を使用しても熱が下がらなかったら、もう一度明日来てください。その時にインフルエンザの検査をします。」と言われた。
言われた通りに、座薬を入れて暫くしてから熱は下がったが、熱が再度上がってしまった為、翌日もクリニックに行った。
そして、インフルエンザの検査をした。
最近では「迅速診断法」という方法がでてきたおかげで、8分から15分前後で検査結果がわかるらしく、
そのまま待合室で待機した。検査結果は陰性だった。
その為、念のため血液検査と胸部レントゲン検査をすると言われて、採血をしてからレントゲン室で胸部のレントゲンを撮ってから自宅へ帰った。
翌日も熱が上がって38℃以上が続いた。
ここ最近忙しくて、自分の体重すら知らなかった。スーツパンツを履いた時に、お腹回りに余裕が出来て痩せたかなぁ、とは感じていた。それは、彼女が栄養を考えて作ってくれたお弁当や、毎回の食事のお陰だと思っていた。結婚前までは、営業で外回りに出たときに、コンビニ弁当やファーストフードで済ませていたから、徐々にお腹周りに脂肪がついてきたと感じていた。
そんな感覚でいたから最近の自分の体重を知らなかった。
結局、会社をもう休んで3日目になる。まだ熱は下がらない。水曜日の午後は休診になる為、午前中にクリニックへ血液検査の結果を聞きに行った。
そしたら、医師が、「ここでは充分な検査が出来ないので、早急に大学附属病院へ行って下さい。」と紹介状を渡された。
妻と相談して、その翌日の木曜日の早朝から、その大学付属病院へ行ってみた。
紹介された病院の内科を受診した。
それで、医師と対面するまで、かなり待たされた。完全予約制みたいで、予約患者優先でその予約患者の診察の合間に紹介状持参の新規患者の受診をするようであった。
ようやく、自分の名前が呼ばれて診察室に入った。医師にいつからどういう症状なのかを聞かれ、触診された。医師が喉の辺りを触りながら「ここ痛くありませんか?」と聞いてきた。別に痛みは無かったが、医師に押された時は痛みがあって「少し痛いです。」と答えた。
それから、レントゲン、血液検査、尿検査、心電図、CT検査を行って下さい、と指示が出た。
それで、診察室前にある待合室のソファーで座ってしばらく待ち、看護師にクリアファイルに入ったカルテらしきものと一緒に検査項目が書かれている用紙と札が何枚か一緒に入っていた。
その札には、1枚ごとに『レントゲン』『血液検査』『尿検査』『心電図』『CT検査』と書かれており、その検査別に色分けされていた。
そして、看護師が廊下を指さしながら「この色の通りに進むと、迷わず各検査室に行けますからこれを持って、上から順番に検査を受けて下さい。すべての検査が終了したら、再度こちらの待合室でお待ちください。」と言われた。
看護師に言われた通りに順番に検査室へ向かった。
レントゲン室の前に来ると、小さな窓のカウンターにカルテがすっぽり入る位の大きさの白いカゴがあって『ここにカルテを入れてお持ちください。』と書いてあったから、クリアファイルに入ったカルテらしき物を札が入ったままカゴに入れて、レントゲン室の前に並んでいるソファーに座って名前を呼ばれるまで待った。順番で名前が呼ばれてレントゲン室へ入った。検査技師の指示に従い、準備をして胸部レントゲンを撮った。
レントゲンが終わると、色分けされた札が取り外されてクリアファイルを手渡される。
次は血液検査だった。
同じような要領でようやっと全ての検査が終わり、再度内科の診察室の前で座って待った。
また、自分の名前が呼ばれるまでかなりの時間を要した。
さっきもそうだが、何で大学病院って待ち時間が長いのに、診察時間はたった3~5分以内なんだ?とどうでも良いような感想と苛立たしさが募っていた。
ようやく自分の名前が呼ばれて診察室へ入った。
担当医師は、診察室の医師専用のパソコンで俺の検査結果を先に見ていたらしい。
色々な検査結果がデーター化されており、クリックするだけで画像とか見れるようになっていた。
本物の個人カルテはすべてパソコンの中で管理されている事を知ったのだ。
今まで大きな病気をした事が無かった為、こんなシステムになっていることすら知らなかったのだ。
そして、その医師は「これから入院手続きをして再検査を受けて下さい。それと悪性リンパ腫ですから、血液内科が専門になります。」と言った。
一瞬自分の耳を疑った。『悪性リンパ腫って癌だろ?そんな馬鹿な・・・。』と頭の中で叫んだ。
医師が「ご家族には病状を伝えますか?」と聞かれて、少し考えてから「一応、妻には。」と答えた。
「では、入院されてから、担当医師と面談して下さい。その際に、ご家族の方もご一緒に同席して下さい。」と医師に告げられた。
今度は看護師に《入院のご案内》とクリアファイルに入ったカルテと色分けされた札を手渡された。看護師に「入院手続きが終わりましたら、エレベーターで4階に行き、血液内科のナースステーションで入院手続き完了の書類を提出してください。」と言われた。病院の入院用の受付窓口へ行き、入院手続きを済ませた。
その際にお金を5万円納めないとならなかった為、病院内にあるATMでお金を引き出した。
4階に行く前に、入院することを妻に知らせないとならないと思って、一度病院の外へ出て携帯で妻に「急遽、検査入院する事になったよ。病院で病衣がレンタルされるし、必要な物は売店で買うから心配しなくて大丈夫だから。」と伝えた。彼女は仕事中ともあり、「分かった。」とだけ言った。
売店に立ち寄り、《入院のご案内》に書かれていたリストを見て、スリッパ、湯飲み、箸、タオルを購入してから4階に向かった。
妻は、その日のうちに有給休暇を取り、翌日には見舞いに来てくれた。
面会時間が決められている事を病院のHPで確認したようだった。
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面会時間に来た妻と一緒にナースステーションに出向き、看護師にこれから担当医と面談出来るかを確認した。看護師が「少しお時間が掛かると思うので病室で暫くお待ち下さい。」と言われた。
その30分後に看護師が病室まで来て、「これから担当医との面談がありますので、面談室までお越しください。」と言われた。
妻と一緒に、4階のナースステーション脇にある面談室の前まで行ったら、看護師に中で待つように言われた。
面談室は、応接室の様になっていて、その奥には医師が座るデスクの上にPCが置かれていた。デスクの上部にはシャウカステン(画像を見るための反射板)があった。ちょっとした診察室に応接間が合体したような部屋が面談室になったいた。
俺達は患者専用出入り口ドア近くのソファに並んで座って待っていた。
その約5分後に担当医がナースステーションの入り口から面談室に入ってきた。
(病室を挟んで廊下に面しているのドアが患者やその家族の出入り口だ。ナースステーションと面談室がドア1枚でつながっていて、そこの出入り口から看護師や医師が出入りしている。)
担当医が、ナースステーション側のソファに座り、
担当医が「血液内科専門の○○○です。」と名乗って「これからご主人の病名と検査スケジュールをお伝えします。」と俺達に告げた。
「ご主人は悪性リンパ腫です。詳しく検査をしないと断定できませんが、ステージⅢだと思われます。」と言いながら、悪性リンパ腫に関する資料と今後のスケジュール表が書かれた紙をテーブルに差し出した。
[悪性リンパ腫とは]と書かれている用紙には、
《血液中を流れたり身体の中をめぐっているリンパ球という細胞が異常に増えることにより,首やわきの下のリンパ節がはれたり,身体の一部にしこりができる病気です。
「悪性」と病名についていますが,治療により高い確率で治癒をめざすことができます。
※ただし,同じ悪性リンパ腫という病気の中でさらに細かく病型は分かれており,症状や治療効果は様々です。》と説明がされていた。
これを妻と一緒に目を通した。
それから、今後の検査スケジュールが書かれた紙に目を通した。
その間、医師は黙って見守っていた。
ひと通り読み終わった頃に、「何か質問はありますか?」と医師が聞いてきた。
俺達はお互いの顔を見合わせてから、「特に今はありません。」と答えた。
その後、数枚の『同意書』がテーブルに出されて、「検査前の各同意書になります。こちらにそれぞれの住所・氏名を記入し、捺印をお願いします。」と言われた。
患者本人の欄には俺が記入し、家族欄には妻が記入した。
そして、それぞれの同意書にハンコを押した。
「では、検査をスケジュール通り行います。検査結果で詳しく悪性リンパ腫の病期(癌の進行度合い)が分かりますので、その後もう一度ご家族と一緒に面談をし、治療方法の確認をします。」と告げた。
妻は、「主人はずっと有休休暇で会社を休んでいますので、診断書をお願いします。」と医師に伝えた
俺はそこまで頭が回らなかった。なんて申し訳のないことをしてしまったのだろう・・・、思った。
その後、俺達は病室へ戻った。
妻は面会時間終了ぎりぎりまでベットサイドにある硬い椅子に腰かけて、ずっと俺の傍から離れなかった。
俺は全身の倦怠感が抜けずベットに横になったまま時折2人で会話を楽しんだ。
そして、自分の『生命保険の証券』と『がん団信及契約書』の場所を教えて、手続きをして貰うように頼んだ。
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入院後、スケジュールが組まれた。
検査入院でいくつか検査をした。
●PET・骨髄検査・胃カメラで、癌のがどこまで進行(転移)しているのかが分かるらしい。
●病理検査で腫瘍の一部の組織を取り、本格的に調べるらしい。
そして、数日後、面談室に再度妻と行った。
検査結果で『ホジキンリンパ腫 ステージⅣ』だという事が分かった。
面談で妻にも告げられて、治療方法の説明がされた。
『ホジキンリンパ腫の治療
ABVD療法という化学療法が標準的治療として確立しています。ANBD療法は2週間に1回の点滴注射を行います。ステージⅣに対しては12回から16回のABVD療法を行います。強力な化学療法を行うことにより60〜80%の症例で寛解が得られるとされています。そして寛解状態が2年以上続けられれば、再発は防げるでしょう。私共がサポートしますが、ご本人の意思が寛解へのカギとなると思います。一緒に頑張りましょう。』と告げられた。そして、精神的なサポートが必要になると思います。カウンセリングもしておりますので、カウンセリングを受けたい時は、看護師又は医師に伝えて下さい。」と言われたような気がした。
治療のスケジュールに目を通して、『同意書』に署名・捺印をした。
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それから本格的に『寛解』に向けての治療が始まったのだった。
癌の完治は難しいが、寛解までこぎつければ子供にも会えるし、親子3人でまた同じようにマイホームで暮らせる。頑張るぞ、と改めて決心したのだった。
1回目の抗がん剤投与後は、そんなに苦しくは感じなかった。しかし、投与後1週間後には髪の毛が結構抜け落ちた。
2回目の抗がん剤投与後、吐き気、嘔吐が襲った。
髪の毛もこの時には、大きな円形脱毛症のようになっていた。頭が少しスースーする感じがした。
妻が面会時間にお見舞いに来てくれた時に、自宅からブルーの帽子を持ってきてくれたので、それを被るようにした。
3回目、4回目・・・・と抗がん剤の回数を進めていくうちに、点滴最中に吐き気がして嘔吐するようになった。その上、手がしびれるなどの症状が出た。自力では歩くのが困難で車いすを利用した。
自分の両親に手紙を書きたいと伝えて、妻に売店に行って便箋とペンを買うように頼んだ。それを病室のベットサイドにあるロッカーの引き出しに閉まった。
抗がん剤治療を開始してから定期的に効果判定をするための検査を受けた。
この事を《経過追跡》というらしい・・・。
食事を少し口にしたが、味覚が感じないことに気が付いた。
塩気を感じないし、なにを食べても味を感じなくなり、食べることが苦痛に思えた。
でも、何か食べないと・・・と頑張るのだが、味を感じない為、以前のようには食事を楽しむことすらできない状態になった。
食事も次第に病人食のように制限されて、完全に火が通った食べ物しか出ないし、好きだった食べ物も食べられないのだ。口内炎が口の中全体に出来ている様な状態になり、口の中がただれて痛みをともない、食事が食べにくくなった。
食べる事もままならない状態の中、抗がん剤の副作用は容赦なく精神的にも肉体的にも蝕んでいった。
6回目くらいから病室を無菌室へと移動した。
それから放射線治療との併用が開始された。
しかし、放射線治療は1回につき約60万円だ。
治療期間は、1回10分×1~2回し、1週間で3~5回施行しそれを3〜6週続ける。
照射は1週間に5回、もう既に2か月間経過したが・・・。
16回目の抗がん剤治療を終わって、再度薬が効いているかどうかの検査をした。
しかし、進行していると言われた。このまま癌の進行を抑えられなければ余命3か月だと宣告された。
治療効果が見られない為、違う抗がん剤に変更しての投与が始まった。
ESHAP療法使用薬剤だった。本来は、非ホジキンリンパ腫の患者に用いられるらしいが、前回の抗がん剤の効果が見られない為に、変更したようだった。
それでも抗がん剤の副作用は以前とは変わらない。
精神的に参ったから、カウンセリングを受けた。
妻が妊娠9か月に入り、産前産後と育休の届が受理されて、妻は彼女自身の体調を見ながら見舞いに来てくれていた。(お腹が張っていない時などは必ず面会時間に来ていた。)窓越しに俺の姿を見て笑顔で手を振ってくれる姿が愛おしい。彼女は決して俺の前では泣かないし、いつも気丈にふるまってくれている。10分位したら帰ってしまうのだが、彼女が来てくれると嬉しかった。
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もう自分の力で手紙すら書けない。
言葉を発するのにも以前のようには話せない。
口がもつれて上手く話せなくなった。
以前、妻に便箋とペンを売店で買ってきて貰った時に、妻が帰った後、副作用が少し治まってから手紙を書いて置いた。
≪○○へ
君と出会ってからの俺の人生は、毎日が充実していた。
仕事は大変だったけど、君の事を思うと不思議と頑張れた。
そのお陰で、毎月の営業成績もいつも上位でいられたんだ。
君と結婚して、俺の人生は豊かになった。
○○がいつも俺を支えてくれている安心感で仕事面での信頼を得て取引先との関係も良好になった。
そのお陰で、毎月の営業成績はいつもトップでいられたんだ。
君が妊娠して、俺の人生は希望が持てた。
これから産まれてくる子供の事ことを考えると癌に負けないように頑張らなければと思った。
だから、どんなに苦しい抗がん剤の副作用にも耐えられたし、子供に会える日を夢見て頑張ってきた。
そのお陰で、毎日 毎日 希望を持って過ごす事が出来たんだ。
君は俺にとって、たった一人のパートナーだったよ。
俺の人生は本当に幸せだった。
交際がスタートした日から今日まで俺が君を想う気持は全く変わってないんだ。
君を愛している。
そして、これから産まれてくる子供も愛おしく思っているよ。
女の子だって教えて貰ったから、名前を愛美にしよう。
これからは、俺がずっと君たちを見守っているからね。
P.S.
いつか・・・きっと君と愛美の2人を同時に愛してくれる彼が君達の前に現れるだろう。
その時は、俺に遠慮せずに再婚して欲しい。
いつまでも君達が幸せに過ごせることを祈っています。
○○より。≫
と書いた手紙をベットサイドのロッカーの引き出しに潜めて置いた。
もう心残りは無い・・・。
丁度、妻が面会に来てくれた。
笑顔で俺に手を振っている妻の姿を目にしながら
心の中で彼女に
『お休みなさい。』と言った。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
創作作品ですので、時世が合わないかも箇所があるかも知れません。
又、治療方法や、副作用などの内容や治療経過(経過追跡)などが事実とは異なります。
その点は、ご理解とご了承をお願いいたします。
もし、宜しければ他の作品も読んでみて下さい。
宜しくお願い致しますm(__)m




