セピアの記憶
落ち着いた雰囲気の喫茶店。今時『喫茶店』という言葉すら古臭いのだろうが、そこは、カフェ、というよりもずっと『喫茶店』という方が似合っていた。店内には芳しい珈琲の香りが充満している。そして、その中、私は妹と二人でアイスティーを飲んでいた。
そこは、商店街の一角。賑やかなBGM流れる商店街内とは異質な雰囲気を纏っていた。レコード音源のような曲がかかっていて、珈琲を落とす音が聞こえてくる。
これだけ美味しい匂いのする店内で、どうして私たちがアイスティなのか。それは、言うまでもない。この暑さ。春、急に気温が上がってきたおかげで、羽織ったスプリングコートが余計だったのだ。
おそらく珈琲好きには間違いなくおかしな客に見えるのだろう。しかし、そんなことを気にするようなお客さんはいない。そんな感じの雰囲気と漂う匂いに誘われて、何カ月も店の前を通り過ぎた後、やっと入ってきた場所なのだ。
「な、いい感じの店やろ?」
私は妹に同意を求めて、周りを見渡す。静かな雰囲気、レトロな感じ、どこか、セピア色を帯びた店内。読書をする女性に、珈琲愛好家なサラリーマン。マダムが二人。そして、その全ての雰囲気を纏めている、マスターを呼ばれそうな店長さんと穏やかなウェイトレスさん。
木目の四角いテーブルとイスは同じチョコレート色。
一気に飲み干したアイスティがストローの中で音を立てた。
「一回来たかってさ」
妹は静かに頷いた。
「で、何? 話あんねんやろ?」
その顔は、お姉ちゃんが私を呼び出す時は、何か話したい時だ、ということを読み取っていた。
「うん……、最近どう?」
「元気やで」
妹は既に実家を出て、独り立ちをしている。しかし、だからと言って、いつまでも実家にいる私を責めているという訳でも、馬鹿にしているという訳でもない。ただ、年老いてきた父母が心配だから、という私の心情を分かった上で、姉が未だに親元にいることを納得しているのだ。
「おねえはどう?」
「うん」
そして、私の社会不適合気質に納得しているのだ。
実家暮らしのきっかけは他愛もない職場のいじめだった。もしかしたら、それをいじめというカテゴリーに入れてはいけないのかもしれない。しかし、私の心は確実に破裂してしまった。しかし、これが初めてではなかった。最初に壊れたのは、おそらく小学生の頃だ。滑らかだった硝子の瓶にまるでヒビが入ったかのようだった。ヒビを眺めて過ごす日々。そして、ヒビさえも私の一部だと思った。
中学生で唯一友達だと思っていた女の子が離れて行ってしまった。無視というものだ。話しかけても露骨に話し返してこない。そして、私などいないようにして、ふと立ち上がり、逃げていく。
ヒビ割れた場所から、水が漏れ出し始めた。そして、私の手はその水を押さえるために使われるようになっていた。私の手はもうそれしか出来ないものになったのだ。それでも、その手さえ離さなければ、まだ花は活けられる、と高校へ進学した。
友達は出来た。だけど、私の手は友達と手をつなげるほどの余裕はない。手を離せば、私が壊れてしまうのだ。私は、必死になって、壊れないようにガラスの瓶を押さえ続けた。
しかし、楽しい、と思える日々だった。中学生の頃よりは楽しい。友達だっているし、時々一人になるけれど、孤独ではない。部活にも入った。私は大人しくいい子を通す。『私』が漏れ出せば、また嫌われる。一人は嫌だった。
私はちゃんと社会に入った。私でもちゃんと社会に入ることが出来る。そんなことを思えるようになった学生時代だった。
そして、社会人になった。しかし、私は何も役に立つ人間ではなかった。頑張ろうとすればするほど空回りする。しろと言われたことをこなす。それだけをしていればいい。そう思い始めた。
「それだけじゃいけない」と言われる。だから、また、失敗の日々が続く。そうだ、その頃からだ。他人から役に立たない者と認識され始めたのは。
知っている。それは私が最初に気付いたこと。だから、頑張れなくなった。それなのに、失敗を促す彼ら。そうだ、彼らは、それに気付けと私に言い始めた。それに気付けば、溢れ出てしまう。耐えられなくなった。
「おねえ?」
私は空っぽになったグラスに残るほぼ水のアイスティを吸った。
珈琲の香りが強くなる。職場では珈琲を焚くのが仕事の一つだった。最後の一滴が落ちる。そして、カップに入れて持って行く。「ありがとう」という人もいた。何も言わない人もいた。ただ鬱陶しそうな目を向ける人もいた。しかし、トイレの会話が怖かった。トイレに入れなくなった。体を壊した。そして、ガラスの器は割れて、私の前に散らばった。拾い集めようとすれば、その欠片が私を傷付けた。元の形がどんな物だったのかも分からなかった。
花はもう活けられなかった。
「いかがですか?」
「えっ」
優しく微笑むウエイトレスさんがそばに立っていた。
「なんか、四時のサービスなんやって」
「はぁ、じゃあ、お願いします」
にこりと微笑むウエイトレスさん。優しい顔に飢えている私は、関係のない誰かに優しさを求めるようになった。ここに入ろうと決めたのは、通り過ぎる私に全く気付こうとしない彼女がいたから。お客さんに対してだけその微笑みを向ける彼女がいたから。
彼女なら、きっとどんな私が入ってきても受け入れてくれる。
「あんたは飲まへんの?」
「うん、まだアイスティあるし」
「そっか」
あんな、……。口を開きかけて、私は珈琲を一口飲んだ。香りが高く鼻孔をくすぐる。カカオの味が口に広がる。ほぅと溜息を付く。『母がため息をつくことくらい、いつものことやん』きっと、妹はそう言って慰める。妹の後ろにいた女性が立ちあがり、オフホワイトのスプリングコートを羽織った。
髪は肩にかかるくらい。私に向かって座っていた小柄な彼女は、皮の鞄を肩にかけ、手に持っていたクリアファイルを忘れて、鐘を鳴らしてドアを押しあけた。
大事なものを忘れている。ファイル内にはたくさんの紙が挟まっている。私は妹が驚いている声を無視して立ち上がった。
「……」
私はファイルを持って彼女を追いかけた。
商店街はまだ人通りが多い。自転車も私を追い越す。人も私を追い越していく。しかし、見当たらない。商店街の入り口近くで、やっと白いスプリングコートを見つけた。
「あの…」
不審な顔つきが私を見つめる。違う。彼女ではない。雰囲気が全く違う。そして、間違われた彼女の表情が恐ろしく怖い。喉の奥から絞るようにして、声を出す。「すみません」と。胸の奥にナイフが突き刺さる思いがする。
「人違いでした」
「いえいえ」と間違われた彼女は笑顔を取り繕い、去って行く。私はファイルをギュッと胸に抱き、周りを見回す。
どこへ行ったのだろう。色々な顔が通り過ぎる。なのに、私は彼女の顔を思い出せなかった。妹なら、覚えていただろう。妹は人の顔を覚えるのが得意だ。私は、とぼとぼ喫茶店へと戻り始めた。やっぱり役に立たない。私なんていなくなればいいのに。目に涙が浮き上がる。
目の前から、あの喫茶店で忘れ物をした女の人によく似た人が私に手を振っている、ように見える。でも、彼女は黒い羽織を肩にかけている。しかし、あのオフホワイトのスプリングコートを手に持っている。
「急にどうしたん?」
彼女が私に声を掛けてきた。そして、そのスプリングコートを私へ押しつけてくる。
「……」
彼女が何を言っているのかが分からなかった。しかし、彼女は私に問うている。とりあえず、説明すべきだろうか。
「女の人がファイルを忘れて出て行ったんです」
それは、とても大切なファイルのはずなのだ。それがないと、あの人は困ってしまうだろう。
「女の人?」
私は頷く。彼女は首を傾げる。
「そんな人、おらんかったで。誰のこと言ってるん? あの時出て行ったんは、おねえだけやで」
私は手に持っていたファイルを彼女に見せようとした。しかし、ない。落としてしまったのだろうか。今さっきまで確かにもっていたのに。
「おねえ?」
彼女が私を不思議そうに見つめている。私は、あなたを知らない。どうして、『おねえ』なんて呼ぶの?
商店街には雑踏が。私は、その雑踏に紛れてしまいたかった。どこの誰にもなりたくなかった。記憶の奥底にも残らないように、消えてしまいたかった。彼女が私を覗き込む。
「どうしたん?」
よく分からなくなって、私は彼女にはにかんだ。不審な表情を浮かべる彼女は私の腕を掴んで尋ねている。
「大丈夫? な、家帰ろ?」
セピア色の喫茶店の前、私は珈琲の香りに包まれて立っていた。私はここへ向かっていた。それだけは確かだ。
あとは、よく分からない。私は一体誰なのだろう。
読んで下さりありがとうございました。