その⑧
「……恭也! 恭也!」
自分の名を呼ぶ声に、ゆっくりと瞼を開く。
自分の顔を千尋が心配そうにのぞき込んでいた。どうやら『呪いの鏡』の前に倒れこんでいたらしい。
「千尋……」
恭也が起きて安心したのか、千尋の顔に笑みが広がる。
「でも、何で入れ替わってたことを――ッ!?」
疑問を口にしかけたが、それは足首に生じた激痛で遮られた。
見ると、鏡からつきだされた左手がしっかりと掴んでいる。
「うわっ!」
次の瞬間、とてつもない力で体が引っ張られた。
うつぶせの状態でずるずると引きずられていく。近くに掴める物もなく、為すすべがない。
「恭也!」
千尋が手を掴んで引っ張るが、凄まじい力の前に、ただ一緒に引きずられていくだけだった。
何かないかと視線を巡らせると、恭也はそこから少し離れたところに角材が立てかけられているのを見つけた。
「千尋! そこにある棒持ってきてくれ!」
「でも……」
「俺は大丈夫だから! 頼む!」
尚も一瞬だけ躊躇する素振りを見せる彼女だったが、すぐに恭也から手を放し、角材を持ってくる。
受け取ると、恭也はすばやく『呪いの鏡』に向き直った。
『呪いの鏡』はもう目の前にあった。
両手で角材を持ち、斜めに大きく振りかぶる。
「俺は偽者なんかじゃない、本物の恭也だ! 気味の悪い鏡ごといなくなれ!」
鏡面の中央目掛けて、思い切り握った角材を振り下ろした。
鏡に大きな亀裂が入るとともに、まるで人間の悲鳴のような甲高い音をたてて『呪いの鏡』が砕け散る。
同時に、足に絡みついていた左腕も、そんなものは始めからなかったというように消えてなくなる。手首にはめられた腕時計の輝きだけが、一瞬微かな残像を残した。
「終わった……のか?」
ゆっくりと立ち上がると、何も言わずに背後から千尋が抱き着いてきた。恭也もまた彼女の背に手をまわそうとして、自分がまだ角材を持っていたことに気が付く。
それを放ろうとして、その先端を見た時、思わず目を見張った。
そこには、未だに乾ききっていない血が付着していたのだ。
その時、またも生じた後頭部の鋭い痛みに小さく呻き声が漏れる。
「何だ、一体……?」
手をやると、生温かく、どろりとした感触が伝わる。
僅かな頭髪と共に付着していたのは、真っ赤な血。
(俺は……これで殴られたのか? じゃあ、さっきの……鏡を抜けるときの頭の痛みは……)
痺れたように頭が働かない。
困惑ばかりが胸中に広がっていく。
(いや、でもあの鏡から出た左手は腕時計をしていたじゃないか! あれは俺の偽者だから……)
そこまで考えて、恭也はハッとした。
鏡によって生み出された偽者。
たしか彼は自分とは逆、右手に時計をつけていた。
あれは偽者の手ではない。自分以外に左腕に時計を付けていた人物。それは――。
恭也は尚も抱き着いていた千尋を振り払い、その先へと駆ける。
廃棄された機材のトンネルを抜けた先の光景に、恭也は事実を知った。
左右が反転したままだったのだ。
立ちすくむ恭也の背後で何者かの気配がした。
振り向くと、いつの間にか微笑を浮かべた千尋がそこにいた。
「恭也……」
彼女の両腕が、再び彼の体を包み込む。
恭也は立ちつくしたまま、全く動けなかった。
その時、彼は確かに見た。
彼女の右手首に、見覚えのある銀色の輝きがあったのを。
「お前……誰だ……?」
恭也は掠れた声で尋ねるが、目の前の少女はその笑みを一層大きくしただけだった。
「これで、ずっと一緒だね」
口元を恭也の耳に近づける。
そして、人間のものとは思えない無機質な声で囁く。
「もう、逃がさない」
それが、恭也が聞いた最後の言葉だった。