その③
「うっ……」
恭也はゆっくりと起き上り、ぼんやりと靄のかかったような頭で周りを見渡す。そこは先ほどの物置。巨大な鏡の前だった。
数秒ごとに、だんだんと意識を失う前の記憶が甦って来る。
不気味に笑う自分の顔。
鏡を抜けて腕に絡みついてきた手の感触。
そして、意識を失う寸前に囁かれた言葉。
「今から僕が、本物の恭也だ」
「そうだ……俺は……」
全て思い出した。
服の袖を捲って腕を確認すると、先ほど掴まれた部分が赤くなっていた。
一体どれくらいの間気を失っていたのだろうか。
だんだんとはっきりしてきた頭で再度周囲を確認する。
ここは先ほどの物置に間違いはない。だが、どこか変だ。雰囲気がさっきまでのものと明らかに違う。
溶かした鉛のようなどろりとした重苦しい空気が体にのしかかってくる。
ほどなくしてあることに気が付き、恭也は廊下に飛び出した。
「ウソだろ……」
今まで恭也たちは東側の階段を上っていた。この階の東側に鏡があったのだ。
だが、自分は今西側に移動していた。左右が逆転している。
まるで鏡の中のように。
「千尋! おい、聞こえるか!」
階下に向けて叫ぶ。案の定返ってくる言葉はない。
恭也は自分の置かれている状況が信じられなかった。だが、それは事実として目の前に突きつけられている。
――俺は、鏡の中に引きずり込まれた。
急いで『呪いの鏡』の前まで戻る。が、そこでも明らかな異変が生じていた。
鏡に自分の姿が映っていないのだ。
試しに鏡面に手を触れてみるが、通り抜けることは叶わなかった。
「くそっ! 何でなんだ……」
何度試してみても結果は変わらない。
千尋は無事なのだろうか。
恭也は左右が反転した廊下を駆けた。その途中でいくつもの窓を通ったが、そのどれにも自分の姿が映ることはない。
常識を逸脱した事態に、嫌な汗が額を伝う。
そんな中、廊下に並ぶ窓の中に一枚だけ例外が存在した。
全力で駆けていた恭也は、危うくそれを見落として通過しそうになる。
そこに映し出されているのは二人の人物。
千尋と、その隣を歩く自分だった。
恭也は辺りを見渡すが、二人の姿は近くにない。いや、本来ならば窓の正面に立つ恭也の姿が映されるはずなのだ。
しかしその窓にははっきりと並んで歩く二人が映し出されている。
あれは俺じゃない。
恭也は直感でそう悟った。姿は自分と恐ろしいまでに酷似しているが、違う、と。
だとすると今見えている光景は……。
「……向こう側の世界を、映し出しているのか?」
こちらから向こうの姿が見えるのならば、あちら側にも自分の姿が見えるかもしれない。
恭也は二人が映された窓を思い切り両手で叩いた。
「千尋! それは俺じゃないんだ。本物はこっちだ、気が付いてくれ!」
しかし、叩き割らんばかりの勢いで窓に拳をぶつけているにもかかわらず、千尋は一向にこちらに気が付く気配はない。
ただ、偽物の自分だけは違った。
こちらを振り返ると、恭也をあざ笑うかのように目を細め、口角を釣り上げる。
「あいつには聞こえているのに……千尋には聞こえないのか」
怒りと悔しさで手が震える。どこにぶつけていいのか分からない感情を抱えながら、仕方なく恭也は二人の姿を追うことにした。
いまはそれしかできないのだから。