その②
恭也はじっとりと汗ばんだ手をズボンで拭った。この校舎に入ってから既に何度も繰り返している行為だ。
それほどの距離を歩いたというわけでもなく、また、この建物の中が暑いというわけでもない。
むしろ、夏にしては涼しい気温である。
この場所は危険だ。
自分の中の何かが警告している。ここに足を踏み入れてから、心臓が今にも破裂せんというばかりの勢いで暴れていた。
自分たちの目の前に広がる濃密な闇が、歩くたびにぎしぎしと悲鳴のような音をたてる床板が、そう感じさせる。
しかし隣を歩く千尋は特に気にしてはいないらしい。恐れは顔からは読み取れず、むしろ楽しげな表情を浮かべている。
二人は頼りないほどに細い光で闇を切り裂きながら、少しずつ歩を進めた。
千尋は大体の『呪いの鏡』のありかを把握しているようで、廊下の突き当りにある階段まで来ると、三階まで上ぼるようにと言った。
どうやらそこに目的のものは存在するらしい。
何か起こるのではないかと怯える自分を叱りつけ、恭也は一段一段ゆっくりと登っていく。
結局三階までは何事もなくたどり着くことができた。
恭也は辺りを見回し、近くに『呪いの鏡』がないことを確認する。
右手側にはトイレがあり、その先にはいくつかの教室が連なる。
反対側は突き当りで左に折れ曲がっており、そこには物置らしきスペースが存在した。段ボール箱や使われなくなったのであろう物が所狭しと積み上げられている。
さてどうするかと声をかけようとした時、彼女が何かに気が付き、「あっ」と小さく叫んだ。
「どうしたんだ?」
何か怯えるような物でも見たのかと恭也は身構える。
が、そうではないらしい。
「……どっかで時計落としたみたい」
彼女の口から、かろうじて聞き取れるほどの声が漏れた。
見ると、彼女が左腕につけていたはずの腕時計がなくなっている。
ただの時計ならば大したことはない。だが、それは二人にとっては特別な物だった。
「近くにあるはずだから、私、探してくるね。恭也はここで待ってて」
「お、おう」
彼女は一度だけこちらを振り返り、「絶対に置いていかないでよね」と念を押してから階段を下りて行った。
「一人で歩き回れるかよ、こんな所……」
弱みを見せられない相手がいなくなったことで、つい本音が口から漏れる。
独り言がやけに大きく聞こえた。
ガタン!
不意に、物置の方で、何かが音をたてた。
反射的に振り返る。
周囲から音が消え、沈黙がその空間を支配した。
自らの内で、見えないという恐怖がむくむくと膨らんでいく。
懐中電灯の光を、ゆっくりと地面に這わせる。先ほどは積み上げられている箱が死角となって見えなかったが、どうやら奥の方に何か大きなものが立てかけられているようだ。
自分の背丈ほどもあるものが、布に覆われている。
気が付くと、まるで操られているかのように足が勝手に動き出していた。被せられた布の端を摘まむ。
先ほどよりも幾分か早く、心臓がどくどくと脈打ち始めた。
高まる緊張のせいで呼吸が苦しくなっていく。
恭也は両目を瞑り、意を決する。
そして、一気に布を取り去った。
「これ……は……」
思わず掠れ声が漏れる。
それは大きな鏡だった。鏡面が円形で、縁は赤。その古びた木造校舎に不釣り合いなほどの装飾がなされた鏡が壁に立てかけられている。思わず見入ってしまうほどの魅力を感じた。
当然のことながら、目の前の鏡には呆けたような表情をした自分が映し出されている。
これが『呪いの鏡』。千尋がしてくれた説明と同じ外見をしていた。そしてその話の通りなら、この鏡に映し出された者は死ぬ。
しかし、しばらくしても恭也の体にこれといった異変はない。
やはりただの噂か。
そう判断した時、ふと、鏡に映し出された自分と目があった。その顔が不気味な笑みに歪められているのに気が付いたのはその時だった。
戻ってきた千尋は、恭也が見当たらないことに気が付いた。
「恭也? どこにいるの?」
呼びかけても応答はない。その声が廊下に虚しく響くだけだ。
「一人で先に行っちゃったのかな……約束したのに」
まだ近くにいるかもしれないと考え、隣の教室を覗いてみた。
しかし、人が居そうな気配はない。机が撤去されたその空間は、教室らしからぬ雰囲気を醸し出していた。
恭也は自分一人をここに置いて帰ってしまうような薄情な人間ではない。彼と長い時間を共有してきた千尋は、彼のそんな性格を知っているだけに彼に何かがあったのではないかと不安になった。
はっきり言って千尋自身も、表には出さなかったというだけで、この場所に少なからず不気味さを感じていたのだ。
気のせいかもしれないが、この校舎にに踏み込んだときから誰かから見られているような、そんな視線を感じていた。
隣の教室を覗いてみようとした時、彼女は何者かの存在を背後に感じた。
その瞬間、金縛りにあったかのように体がぴくりとも動かなくなる。
舌までもが痺れたように動かず、掠れた声しか出ない。
「ひっ……!」
冷たい手がそっと肩の上に乗る。
その瞬間、金縛りが解けた。
「止めて!」
振り向きざまに手を振り払う。
「あっ、悪い。驚かせたか?」
そこには目を丸く見開いた恭也の姿があった。
「……心臓に悪いよ、もう」
正体が恭也だったと分かり、千尋はへなへなと床に座り込んでしまった。
「どこにいたの? 心配したんだよ?」
「いや、その……僕も鏡が近くにあるんなら早く見たくてさ。ちょっと探してたんだよ」
怒気を含んだ千尋の声に、彼は目を泳がせながらたじたじとしていた。ましな言い訳を考えているらしい。
その姿に思わずため息が漏れる。
「……で? 『呪いの鏡』はあったの?」
「いや、どうもただの噂だったらしいな。ここにはそれらしい物もなかったよ。普通の鏡すらない」
「そっか……」
千尋はどうしようかと尋ねようとしたが、その前に「もう帰ろうよ」と恭也が提案した。
「もう遅いし。一晩ここで探し回るのは御免だな」
彼の言うことももっともだ。千尋も今では噂への好奇心より、恐怖の方が遥かに勝っていた。
千尋が肯定の印として頷くと、「よし、決まりだ」と彼は微笑んだ。
千尋は恭也の雰囲気に、些細ではあるが、どこか違和感を覚えた。
しかし、それが何であるかは分からなかった。
二人はもと来た道を引き返すことにして、先ほど上ってきた階段へと向かう。
その時、千尋はその違和感を抱かせるものの正体に気が付いた。
「恭也、それ……」
「うん? どうかした?」
立ち止まり、前を歩いていた恭也が振り返る。どうやら彼は千尋の問いの意味に気が付いていないらしい。
千尋はしばらく考えた後、「ううん、やっぱり何でもない」と誤魔化した。