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ニセガミ ー双黒の調律者ー  作者: ぽみしま れい
最終幕:超越せし者
48/51

3. 黒化:Nigred

 時はひねくれジャックとの決戦より三十分ほど遡る。

 この頃、地球上の至る所では大きな異変が起きていた。

 惑星軌道のズレは非常に緩慢としており大規模な天変地異こそないが、明らかな気温上昇と“異形の怪物”が闊歩し人を襲うという異常事態だ。更には数十分後に地球は太陽へと衝突するという解析結果まで出ている。

 人の(なり)をした黒い(もや)の塊のような怪物は、九道邸の聖霊の間において出現した謎の異形と同じそれである。

 日本の匡冥獄および全世界の調律者機関はこれらの対処に追われていた。

 原因の特定はとうに出来ていた。惑星軌道の操作という、神でもなければなし得ない現象がそうさせたのだ。

 惑星軌道が征乱者の手によって人為的に逸らされるということは、本来の自然法則に多様な影響が出る。そうすると起きるのは本来の摂理の崩壊、すなわち壊理現象と呼ばれるもの。

 だが壊理値500オーバーという異常値を叩き出した今回は、発生した“フィーネの夜”が人の姿を真似、意志を持って動き出し人を襲うなどという過去の文献やデータの何処にも存在しない現象をも伴っている。

 これにあたり世界中の調律者機関は即座に連携して情報交換をし合い、あらゆるデータの計測と統計を行い比較検討し、特に壊理現象の影響を大きく受け異形が発生しやすいと思しきエリアを惑星規模で複数特定。

 それらの現地へ次々と調律者の特務部隊や各国の軍事機関が投入されるという過去に類を見ない大規模作戦が決行された――。


「っと! キリが無いわね! 住民の避難経路確保はまだなの⁈」


「無茶言わないでくださいよ千夜さん。いくら奴らの発生する場所がそれなりに特定できているとは言え、相手の数が多すぎるのに対して我々は常に人手不足です」


 全長が大人二人分はあるであろう細身のランスを豪快かつしなやかに振るい、異形の群れを薙ぎ穿つのは黒霧天夜の姉、黒霧(クロキリ)千夜(チヨ)であった。

 異形に自動小銃(ライフル)を的確に三発ずつ撃ち込み、そのバックアップを務めるのは、千夜がまとめる小隊の副隊長である(アルイ) (スミレ)

 彼女たちはカジュアルな揃いの戦闘服を身に纏い熾烈に戦う。ただ千夜の戦闘服に限っては、上腕と胸元に略章が所狭しと並んでいた。


「ああもう、あっちの小隊は何やってんのよ! 囮の私たちがこれだけ暴れてもまだなんてほんと嫌になる! こんな時に天夜がいたら全部一発で解決してくれるのに!」


 不満を零しながらも迫り来る異形を息切れひとつせず薙ぎ倒し、突き殺し、消し去る圧倒的な暴力は、その千夜の美しい容貌にはとても似つかわしくない。

 いくら雑魚の群れとも言えど数が違うのだが、彼女はそれを物ともせず美しい黒の長髪をたなびかせながら軽くあしらうのである。


「こんな時にまで弟バカを発揮しないでください。手元が狂って貴女に誤射しても謝りませんからね」


「なによー! 天夜はほんっっっとにカッコよくて可愛くて凄い子なのよ? きっと今だってこの状況を生み出した元凶と戦ってるんだから! やる時はやる子なの!」


「そう、ですかね。私にはあの人は、“空っぽ”に見えます。調律者としての正義感の強さは認めますが、それすらもどこか作り物に過ぎないような感じが――」


「スミレ、それ以上言うと怒るわよ」


 鷹の目のような視線が突き刺さる。およそ仲間に向けるような目ではない。

 そして千夜はハァ、と大きな溜め息をつきながら五体まとめて貫通せしめ、語り始めた。


「……そんなこと、今さら言われなくても姉である私がよく知ってるわ。あの子は本当に強いし良い子よ。けれどきっと、物語の主人公になんかなれやしない。空っぽだから、悪意のある奴に利用され翻弄される、ただの舞台装置(ピエロ)にしかなれない。あの子の強さや人間性は生まれ得たものでもなければ努力して手に入ったものでもない。

 ――なるべくして、そうなった。でもそれは、運命なんてものじゃない。“呪い”でしかないの」


 弟の不幸を、姉は我がことのように嘆く。彼女の沈痛な表情には悲哀などよりも、覚悟のようなずっと強い何かが張り付いている。


「だからね、とうの昔に私は決めたのよ。どんなことがあっても、私だけは天夜の味方でいようって。あの子は多分、自分にかけられた呪いには気付いてない。もしあの子が力を欲して、呪いと向き合ってしまえば最後。何もかも嫌になって、人間であることを捨てるでしょうね」


 その言葉を聞いて(スミレ)は眉ひとつ動かさず、そっぽを向いて異形狩りを淡々と再開する。


「安心しました。あなたのような理解者がいるのであれば、彼はきっと道を踏み外さないでしょう」


 ぼそりと呟いたその言葉は上官である千夜には届かず、戦場の喧騒に溶けた。

 ほどなくして入るノイズ混じりの通信。避難経路が確保でき、生存者の避難が完了したとのことであった。

 死傷者は未だ計り知れないが、ひとまずは安心だろう。

 隊の皆が、偽りの太陽に向けて勝鬨(かちどき)をあげる。


「このまま私に続け! 奴らを徹底的に殲滅せよ! 塵ひとつ残すな!」


 千夜は指揮を執る。まさしくその姿は美しくも気高き黒い花。


 その想いは、ただ愛する弟の為に――



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




「くっ、が……ぁ!」


 冬真にいたぶられ、意識を失っていた天夜はようやくその眼を覚ました。酷い鈍痛が全身を支配している。よろめきながらも立ち上がり、目眩を解こうと頭を振る。

 目眩が失せたその先に在った光景は、一人の横たわる男の姿。

 直接拳を交え、友と認めた男の、一指たりとも動かぬ姿。

 たったそれだけで分かった。

 彼は須田冬真に、その命を絶たれたのだと。


「なんでだよ……なんでだよ銀牙……チクショウ……! おい、しっかりしろよ、目ぇ覚ませよ、なにこんなとこで寝てんだよ!」


 叫ぶ。だがその声が届くことはない。


「ごめん、テンヤン。決死の作戦だということは伝えた上だったし、彼もその覚悟の上だったんだろうけど……」


 伏し目がちに謝罪し、天夜が気を失っていた数分間の顛末を明鏡は伝える。


「……そうか。状況は分かった」


「テン、ヤン……?」


 黒衣の調律者は途端に冷静さを取り戻し、その外套を脱ぎ捨てて悪魔に向き直る。双眸には赤黒い覚悟の光が灯る。


「クク……慢心、か。俺がその小汚いケモノ風情にしてやられたのは慢心ゆえだと言ったな明鏡 臨哭(リンネ)ッ! であれば、もはや手加減などいらぬ。全力を以ってお前らを葬ってやるとしよう」


 同じく冬真も古びた外套を脱ぎ捨てる。

 その下には灰色のパーカーを着ていたが、こうして見ればどこにでもいる平凡な若い青年にしか見えない。中身はとんでもないバケモノだというのに。



 ――そして、空気が変わった。


 空間を染め上げるように天夜の身から溢れだす黒い重圧。ドロリとした粘膜のようでありながら無機質な鉄のようでもあるその形容し難い物質は、黒霧天夜という男の象徴であり呪い。

 この力を全解放していられるタイムリミットは約3分。それを超えればたちまち自身のフィーネの夜に呑まれるだろう。

 つまりこれは3分の間に、全てを片付けるという宣戦布告そのもの。


「テメェの戯れ言にはもう飽きたぜ。さっさと終わらせよう」


「同感だ。俺もこれ以上時間はかけられん。少々不確定要素は残るが、お前たちの濃い魂を触媒にして無理やりにでも門の道を確立してやる」


「手ぇ出すなよ明鏡、退がってろ。巻き添え食らっても知らねえぞ。それに――コイツは俺が殺す」


 互いの殺気は、際限なく濃く深く渦巻いてゆく。視線が絡み合い、ぶつかり合う。

 もうお前を殺してしまってもいいのだなと、視線のみで二人は最終確認をする。


「行くぞ」


 天夜の全身から放出される濃密な闇。その内よりあれ出ずるのは、剣先から柄に至るまでの全てが昏い、黒一色の一振りの長剣。

 装飾は一切なく、シンプル故に硬く鋭い、ただ純粋な殺意の表れ。

 そして黒衣の男は、悪魔の返答を待たずして駆けた。


 雷鳴にも似た閃光と破裂音が響く。

 天夜が振りかざした一の太刀は、何かと衝突して弾かれた。まるで地面が生きているかのように独りでに突起を形成し、冬真の身を守ったかのように見えた。

 直後、驚く間もなく天夜は何かに打たれ、吹き飛ばされる。


「ッ――!」


 ――今のは何だ? 床が変化して壁になったと思えば、奴の背後からは何か鞭のようにしなるものが飛んできて打ちつけられた……明らかに今までの重力操作とは能力が違いすぎる。


「フン、速すぎて見えなかったか?」


 天夜は足下に視線を落とす。見れば木屑のような微細な欠片が落ちていた。

 

 ――まさか刀条が此処まで追って来たというのか? それで何処からか不意打ちを? だが奴はギリウスの足留めを任されていたはず。


「そら、まだまだこんなものではないぞ」


 冬真の五指をクイと上へ向ける仕草。それに従うように床を突き破って現れたのは、巨大な水柱だった。


「苦痛を堪能しろ」


 水柱は空中で弧を描き、天夜目がけて蛇の如く食らいついた。巨大な水の塊に呑まれ、自由を奪われる。高濃度の天力で編み上げられた海水の牢獄は、蒼牙の液体操作以上に凶悪であった。


「無様だな、黒霧天夜。息巻いておいてその程度か」


 天力によって高められた水圧は天夜の全身を締め上げ、骨肉は悲鳴をあげる。


「この力の前に、お前らのような紛い物が抵抗できるわけなどなかろう。この能力はこの惑星(ホシ)そのものだ。そもそもこの惑星(ホシ)に存在する自然であればな、俺はなんであろうと操れる」


 惑星の性質を操る――それは重力操作のみに留まらないということなど、容易に想像できたはずなのに。今まで重力による攻撃しか無かったせいで完全に失念していた自分を、天夜は心中で罵倒する。


「……惑星軌道を変えるには長い時間と莫大な天力が必要だった。でも惑星軌道なんて巨大な物を少しずつ逸らしながら他のものまで操ろうとすると、天力というその資源(リソース)の許容量を容易に超えてしまう。そうすればたちまち自然の摂理を捻じ曲げすぎたお釣りが返ってくる。つまり、“零落(れいらく)”してパァだ。だから惑星軌道と親和性の高い重力操作のみを殺人と戦闘に使い、エネルギーを節約していた、ということだね?」


「さすがだな明鏡。やはりキサマは面白い。故に最後に殺してやる」


 つまり、惑星軌道を変えるという枷さえ無ければ、地球上のあらゆる物質は奴の掌の上であるということになる。

 これではまるで、本物の神――


「なんだ、黒霧天夜。何か言いたげだな」


「……ァ………………」


「よく聞こえん。ハッキリと喋れ」


 水の中でバクバクと鯉のように口を開閉する天夜。

 それを煽るかのように近づき、耳を傾ける冬真。


「……………ゥ……」


「……つまらん。やはりここでお別れのようだ」


 際限無く高められる水圧。冷ややかな殺意が、天夜を殺さんとする。ゆっくりと全身が水圧と重力操作で捻れ始める。

 意識が遠のく。もがくことすらままならない水圧の中では抵抗することすらできず、くらくらとした頭には、もはや殺意すら芽生えない。フィーネの夜も覇力も、奴の天力量の前では相殺され霞んでしまう。いくら強がってみても、己を奮い立たせても、圧倒的な力を覆すことなど奇跡に近い。

 勝てない。そう確信してしまった。もはやどんな策を講じても、無駄に終わるだろう。そもそものスペックが違いすぎて話にならない。

 絶対に殺すとまで啖呵を切った強気が、そんな言い訳じみた弱音に早変わりしていた。


 重力の負荷を上乗せされて流動しながら締め付ける水は、それ自体が巨大な拷問器具のようにして天夜の身体を締め上げる。

 やがて天夜の首はグルリと一回転し、あらゆる臓器は中で小さく畳まれて捻じ切れ、骨は滅茶苦茶に折れて肉を突き破って出てきた。


 明瞭な死を味わいながら逝く。

 頭は使い物にならないのに、痛みだけは鮮明だった。


 ――もっと俺に、力が、あれ、ば……。


 ただそんな強い想いと後悔だけが、心を支配した。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




「……なんだ、ここ。俺は何をして……」


 気付けば、黒塗りの神殿のような場所だった。だが神殿と呼ぶにはあまりにも禍々しい空気を内包している。呼吸をするだけで嘔吐と眩暈がしそうなほどに。けれども不思議と、馴染むような甘い蜜にも似た感覚を覚える。

 記憶が途切れ途切れに蘇る。冬真に圧倒的な力で追い詰められ、諦観し、意識が飛び、殺され――


『こうも早く、我との邂逅を果たすとはな。これまで人の身でありながら我が元へ辿り着いたのは貴様の遠き祖なる者のみだ』


 突如として頭に直接声が響く。酷く寒気がする声だった。

 人間の声ではない。調律者の力を得た時に聞いた声にも似ていたが、それとは全く異質な、明らかに対極の印象を抱いた。


「誰、だ?」


『貴様にとって我が何者かなどどうでもいいことだ。貴様は力を求めた。我はその声に応じた。ただそれだけの事だ』


「俺は、死んだ、のか?」


『死んだとも。それはもう無惨にな。しかしあちらとこちらの時間の流れ方は全くもって異なり、肉体と魂の繋がりはまだ途切れてはおらぬ。ゆえに、今から手に入れる力を用いれば蘇生なぞ造作もない』


「つまり……まだ俺は生きられるってことか?」



『そうとも。理解したか? そのようなことは些事に過ぎんのだ。貴様はそれ以上に、代償として神の領域へと足を踏み入れた。さて、単刀直入に問おう……力を求めているのだろう? 黒霧天夜』


 上下前後左右何時何分何秒、方向感覚も平衡感覚も時間も全てがあやふやになりそうな空間だったが、すぐ目の前に玉座があり、その上に鎮座するナニかがいるような気がした。おそらく声の正体はこれだろう。姿形は捉えられないが、その影には恐ろしくも愛おしい、畏敬の念を抱いた。

 そしてこの声は己が最も望むものを提示した。力が欲しい。その想いに、間違いはない。たとえ屍人となったとしても、全てを覆す力があればそれでいい。


「あぁ――そうだ。力だ。俺にはもっと力が要る。世界を、黒く塗り潰すような絶対的な力が」


『……それで良い。貴様の父親は無欲な男だったが、貴様は渇望に満ち溢れている。早いうちに力の一部を貴様に継承させた奴の判断はやはり正しかった』


「待て、どうしてそこで親父が出てくる⁈」


『あぁ、哀れなことに貴様は父親から知らされていなかったのだな。貴様が人の世に生まれ落ちた時からフィーネの夜を行使できたのは全て--貴様の父親が施したことだからだ』


「どういう、ことだ……? 意味が分からねえ……全て教えろ……! 親父は今どこにいる! 施したってのは儀式で俺に能力を継承させたとでも言うのか!」



『黙れ。これ以上の問答は時間の無駄である。いずれ時が来れば分かる。では……貴様の望み通り、より深淵なる呪いを刻んでやる』


「呪い、だと?」


 訝しんだ直後、天夜の全身には黒い蛇のような影がまとわりつき始めていた。


「……! なん、だ、これ。動けねぇ!」


『貴様の一族は忌々しき創造神が産んだ覇力をも代々宿している。故により濃く刻まねばなるまい……今より貴様は、約200年の時を死よりも昏く、死よりも深き苦痛の中で過ごす』


「なッ……! ふざけんじゃねえぞテメェ、そんなに待ってられるか! 今すぐ力を寄越せ!」


『案ずるな。貴様にとっては長い時間だが我や世界にとっては一瞬だ』


「クソが、騙しやがったな! ぜってぇブチ殺してやる!」


 徐々に強まってゆく全身の痛み。足下から顔まで泥沼のように呑まれてゆく恐怖。


『謀られたと思いたければ思え。じきにその浅慮な感情など消え去り、涅槃へと至る。これは貴様の内から腐敗を以って不純物を取り除く秘法でもある。さすれば貴様は、新たな力を手に入れる』


 おぞましき魔なる者の笑みが陰に落ちるのが、沈みゆく意識の中で垣間見えた。

 それは新たな覚者の誕生にささやかな悦びを示す笑み。

 そうして始まったのは、呪いという名の祝福を授ける儀式。長きにわたり殻に閉じたままであった種が萌芽し、花と実が結実する瞬間である。




 ――視界は暗く閉ざされ、何も見えない。先ほどいた神殿は何もかもが曖昧な場所だったが、引きずりこまれた此処は違う。

 純粋な闇だ。何も見えず、思考がまとまらない。

 ただ感じられるのは、“痛み”。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 恐怖、憎悪、怨恨、嫉妬、狂気、悲哀、苦痛、憤怒エトセトラ……人の世に存在しうる、ありとあらゆる全ての痛みを凝縮した闇。


「……は…………ひィ……………た、たす、助け、て」


 それらが頭から爪先まで湯水のごとく滝のようにかぶせられ、全て飲み干せと強制してくる。目鼻口耳肌の五感全てで濃厚な闇を摂取し、味わわされる。たちどころにそれらは脳を、神経を、肉を、骨を、血を支配し、精神を蝕んでゆく。


「……いや、だ、いやだ……いやだいやだいやだいやだイヤダイヤダいヤダイヤダイヤだいヤダイやダイやダイヤダイやダイヤダイヤダイいやだイヤダイヤダイヤダイヤダいやダ」


 もうどれほど経ったのかも分からない。ついさっき閉じ込められたような気もすれば、もう50年もの歳月が経っているような気もする。体感時間は200年ほどだなんて言われたが、こうなってはもう時間など分かるはずもない。


「ころ、しテ……こロして、くれ…………」


 痛い、辛い、などという陳腐な言葉ではあまりに生ぬるい。涙を流したくとも、泣き方が分からない。怒りたくとも、怒り方が分からない。自分が一体どういう目にあっているのかを客観視するような余裕など無い。助けを求める言葉も思いつかない。ただ本能で、死ねばこの痛みから逃れられると縋ってしまうほどに。


「も、う……いい……やめて……くれ……」



 そう。これは、人間が最も忌避する死ですら最上の救済かのように思えてくる、呪刻の儀。


「…………………………………………………………………………………………」


 しまいには悲鳴をあげる事も助けを求めることも忘れてしまった。

 黒霧天夜というちっぽけな器の中から、思考や感情はとうに消え失せていた。久遠にも感じられる時を闇の中で過ごす。

 人間としての尊厳を踏みにじられ、理性をひん剥かれ、五感を犯され、黒霧天夜を人間たらしめるものは根こそぎ奪われた。


 だが永遠に続くとも思える苦痛の時間だけがただ流れてゆく中である時、天夜は気付いた。


 ――空っぽにされたんじゃない。元より俺は、空っぽな人間だったじゃないか。


「は、はハはは、ははハはははハハはハはははハははハハはははハハハハはははははハ」


 笑いがこみ上げてきた。この感情が何なのかも分からない。

 空虚な人間であることを今更になって自覚した自分に腹が立ったのか、情けなくなったのか、恥ずかしくなったのか。


「そうだ、俺は元々空っぽだ。この感情は、この身体は、この力は、全て作りモノと借りモノで出来ている……」


 それを誰から教わったわけでもなかったはずなのに、天夜はそれを幼い頃から無意識に認知していた。

 けれど、気付かないフリをしていた。

 気付くのが怖かったからだ。

 空っぽであることを必死で埋めようと、ありきたりな正義感を振りかざし、自分は神から力を授かった調律者だと根拠のない自信を持って任務をこなした。それと同時に天力も扱える特別な人間であるという自尊心もあった。それ故か、周りの人間には真面目かつ責任感が強いとそれなりに認められた。

 自分は自分だと言い聞かせるために鍛錬も怠らなかった。父親や姉、それにギリウスから教わった戦闘技術は、空っぽの自分を埋めるのに――否、そんな空っぽであるという嫌悪感を紛らわせるのに最適であったから磨き続けた。


「けれどもそれらは全て、他者から与えられた借りモノだ」


 感情が無い理由など分からない。生まれついてより他者との共感性に欠けていた。

 幼い頃は周りの人間に合わせることなど考えもしなかった。けれど、そうしなければ生き辛いと感じたから、感情があるふりをし続けた。

 人の気持ちなんて理解などできなかった。だから理解したつもりになっていた。必死で己を騙し続けた。

 何度逆境に立たされても怒ったり悲しんだりしたのは、そうして己を鼓舞することで自分が空虚な人間であることを誤魔化すため。自分は感情があるれっきとした人間だと己に言い聞かせたかったから。

 怒るふりをした。泣くふりをした。笑うふりをした。

 黒霧天夜という男にとっては誰が死のうが、自分には関係無いというのが本心である。

 橘波流が殺された時も涙など出ないはずなのに泣き、部屋に閉じこもって後悔と懺悔をしたつもりになり、大声で喚いた。だがあの時、本当は涙など出てはいなかった。涙が出たのだと、自分は人の死に泣ける人間なのだと自分に主張して自分を騙していただけ。

 そうやって周囲の悲しげな空気に同調し、無理やり人間らしく振る舞った。

 そう、身近な誰かが死んだときはそうしてきた。


「けれどもそれらは全て、作りモノだ」



 ――全て、何もかも、空っぽな自分が怖かったから……。

 何の為に生きているのか。何を成すために生まれてきたのか。そんなこと分かるはずもない。

 誰かから与えられ、無理やり中身を取り繕った、ボロ布と燃え滓で出来たスカスカのぬいぐるみのような存在。

 それに気付いてしまえば、受け入れてしまえば、思い出してしまえば、きっと自分が自分じゃなくなる。きっと気が触れてしまう。ずっと、そんな想いに抱かれていた。けど――


「受け入れよう。この(みち)が、この答えが、たとえ、呪いに蝕まれていたとしても」


 弱い己を受け止め、咀嚼し、呑み込む。闇は天夜の中でひとつの核となり心臓となる。

 そうして、ひとつの極致へと辿り着いた。


 静かに込み上げてくる力が、自分の味方であると語りかけてくるのが手に取るように分かる。


『悟ったようだな』


「…………あぁ。何も、かも」


『貴様は所詮器に過ぎなかった。本来、征乱者としての能力を授かる者は何かを渇望せし者。儀式を用いて征乱者となった貴様のような者に渇望は無いはずだが、貴様には並々ならぬ渇きがある。これは僥倖(ぎょうこう)と思え。貴様は呪いの種がたった一欠片放り込まれただけの存在であったのだ。

 だが今この瞬間を以って、種は萌芽し、器は純粋な黒き呪いで満たされた。祝福せよ。歓喜せよ。貴様は魔神との邂逅を果たした到達者であり覚者だ。神への一歩を踏みしめたのだ。この先、再び貴様の命の炎がかき消えようとも、誰かに自己を否定されたとしても、己が道を征くがいい』


 その言葉に、天夜は返事も頷きもしない。たった一つ、ぽつりと問うただけ。


「これで、俺は冬真に勝てるか?」


 穏やかに問いかける天夜の顔には憂いはなく、ただ微かな笑みが浮かんでいた。


『そんなこと貴様が一番分かっているはずだ。しかし、貴様は一度死んだ身だ。死は穢れが泥のように纏わりつく。たとえ仮初めの肉体が蘇生されたとて、魂までもが浄化されたとは思わぬことだ。それを努々忘れるな』


「礼は言わない。けれど、この力は存分に利用させてもらう」


 思考は今までになく澄み渡り、呼吸は木の葉ひとつ動かないほど穏やかに。

 闇を携える者でありながら輝きを放つ矛盾。けれどもこの高揚感はまるで、完成された生物にでもなった気分だった。


 ――たとえ、もはや人に戻る道を失ったことを自覚していたとしても。

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