1. 圧倒:Devil's loud laughter
「……着いた。地下へは此処から降りられる」
肩を組み、重い足取りで天夜と銀牙の二人が辿り着いたのは銀牙の私室だった。見るからに高価な家具や調度品は倒れ、瓦礫に押し潰されたりと散々な状態ではあったが、銀牙は構うことなく机の方へと進む。
そのまま横転した机の一番底の引き出しを開け、何やら手探りで動かす。すると重厚な機械仕掛けの音を伴って暖炉が壁の奥に沈むようにしてスライドし、隠し通路が現れた。
「凄い仕掛けだな……これほど金かけてると館がめちゃくちゃにされたのは少し勿体無いな」
「ハッ、館なんかどうでもええねん。物はなんぼでも代えが効く。せやけど、死んだ人間は戻らん」
「……そう、だな」
その言葉が何を意味していたかは言うまでもないだろう。彼は母を、部下のメイドを、そして弟を奪われたのだ。その怒りと悲哀が混じり合った激情を抑えられないのか、彼の身体の一部は既に獣のそれに変化している。
それがあまりにも哀れで、天夜はつい伏し目がちになってしまう。
「それはそうと、身体の方は大丈夫か?」
「あぁ。なんとか、能力で脳内麻薬を分泌して痛みは抑えられとる。せやけど、身体が持つかどうかや」
「……少し、休んで行くか?」
「アホぬかせ。時間無いんやろ、俺のことなんか構うな」
「すまん、そうだったな」
傷つき、友を失い、家族を失い、人であることを踏み躙られ……されど戦士たちは進む。
「行こう。俺たちの手でケリをつけるぞ」
「これが終わったら、一緒に酒でも飲もうや」
「俺もお前も未成年だろ。……が、まあ悪くないな。祝杯に口をつけるのは俺たちだ」
その先に、どんな絶望が待っていようとも。進まなければ、死に物狂いで戦い抜かなければ、未来を得ることは誰にも出来ない。
二人は終末の地へと続く、昏く永い階梯を、踏み締めながら降りてゆく。
もう後戻りなど、出来はしない――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
獣の血肉と瓦礫の山々で築かれた惨憺たる光景。これより行われるは人の理を踏み躙り、超越し、喰らい尽くす、神威の儀。
神霊獣すらも易々と蹂躙した凶星を持つ男は、その獣の肉を見えざる手によって細切れに分解してゆく。飛び散る紫血と立ち込める異臭。もはやどちらが獣であるのか、区別が付かない。
原型を留めぬ挽き肉のような、その神霊獣であったモノは、地下の中央にある穴に押し込められてゆく。あれだけの巨体であれば膨大な質量であったはずなのに、たった直径30cmほどの穴は際限無く獣であったモノを飲み込む。見る間にそれらの肉塊たちは全て穴へと放り込まれ、その場に残ったのは床に広がった血と瓦礫と異臭と、そして悪魔と鍵――。
「ふむ、神門を顕現させるための贄はこの程度で良いか」
手際良く料理でも済ませたかのように作業を終えると、冬真は右手を穴に入れる。
「――大いなる者よ 祖なる者よ
杯に我が渇望を注ごう 我は秘匿を破りし者
我は静寂を砕きし者 即ち汝らが望む者
原初に至る道を顕す時来たれり
起動せよ 鳴動せよ 開闢せよ
天より与えられし道は此処に在り――」
紡がれた言葉に呼応するかのように、大地が揺れ動く。徐々に大きくなる振動と生き物のように唸る地面。
穴の上空では白亜が見えざる手によって磔状に浮く。その身体の内に秘められた“鍵”が呼応し胸元が青く光る。白亜は小さく嗚咽を漏らし、大きく肢体がのけ反った。
床一面に広がった紫血は、巨大で禍々しい魔方陣のような紋様を描き出し、紅き光りを放つ。
「久々に異界への門を開く儀式……計画の段階で思ってはいたが、やはり面倒だな。神秘の薄れた人間の世界では、少々手間が多い。あぁ、そう言えば以前の神界侵略の時は門の結界が硬いお陰でわざわざウェムルのジジイを呼びつけたこともあったな。そう考えれば大差は無いか……」
昔を懐かしむように独り言をぼやく男は、人智を超えたその光景を、まるで既知の現象であるかのように眺める。
穴があった位置には散らばっていたはずの瓦礫が磁力に引かれるように独りでに集束し、融合し、ひっきりなしに形を変えて蠢めいている。うず高い尖塔のような形状になったかとおもえば、粘土のように広がる。
そこから発せられるあまりに莫大なエネルギーは、青白い光となって部屋中を照らし出し、目を眩ませる。次第に収まる光。
派手な化学反応のような現象の終焉。冬真の眼前には、長方形の巨大な石造りの門が現れていた。
門には複雑怪奇な幾何学模様を組み合わせたような意匠の紋様が描かれており、明らかにこの世のものではない異質な物であると一目で分かる存在感を放つ。
「顕現は出来た……が、この門を起動し神界へと繋げ、“道”を確立・維持するには大量の贄が必要だ。太陽への衝突を待つとしよう。その間に……“鍵”の摘出を行うとしよう」
星と星の衝突。その瞬間に発生する無限のエネルギーを利用し、門を起動する。故に、地球上に生きとし生けるもの全ての魂魄が集まってくるこの場所は残しておかねばならない。神門が顕現した影響力を逆手に取り、この九道邸を外界とは切り離し、異空間へと変貌させる術式をも冬真は施した。故に、地球と太陽が衝突したとしてもこの九道邸一帯だけはなんら影響無いという歪な道理が罷り通っていた。
――だが、その野望を阻まんと決戦の地に降り立つ、黒き調律者と銀の獣。
「悪ィが、白亜には指一本触れさせねぇぜ」
闖入者の声とともに三つの漆黒のナイフが、冬真目掛けて飛来する。冬真は振り向きもせず、ただ静かに立ち尽くす。
確実に当たるかに思えたナイフたち。だが一つ目は冬真の顔の横を、二つ目は狂ったように天へと駆け上り、三つ目は地に急降下して突き刺さる。
「チッ、外したか……いや、正しくは“逸らされた”、か」
――頭、心臓、腹を狙ったのに、悉く不自然な軌道に曲がった。自分の周囲の重力を掻き乱したということか。
「そこで寝こけてる白亜は返してもらう。そんでもって、テメーには此処でくたばってもらう」
「まさかうちの番犬を殺すとはな……やるやんけ」
「来たか、黒霧天夜。そして九道銀牙。貴様らが此処にいるということは、華煉の奴め、まさかしくじったか」
「刀条ならギリウスに任せた。ま、あいつが負けるとは到底思えねえから、テメーの相棒は此処には来ねえぜ」
「フン……まあ良い。それで、お前らはわざわざ俺に殺されに来たのか? あの無様に死んだ連中のように」
「おい、もういっぺん言ってみぃ」
目の色がみるみる充血し、強烈な歯軋りを鳴らしながら凄む銀牙の腕と脚は、怒りのあまり既に獣化している。冬真はそれを一瞥し、鼻で笑う。
「強大な力の前に為す術も無く、死んでいく様。これを無様と言わずなんと言う?」
「オドレ、ナメくさりよって! このダボ、内臓あるだけ引きずり出して道頓堀にバラまいたるわ!!」
怒りを抑え切れず罵倒し、暴れ出そうとする銀牙だが、天夜に羽交い締めで制止される。
「放せや! あのけったくそ悪いアホンダラ、いっぺんいてこましたらな気が済まんのじゃ!」
「アホか。気持ちは分かるが、突っ込んでも犬死にするだけだ。お前それでも理性の征乱者か。奴の口車なんかに乗せられんな」
「よく分かっているな天夜よ。確かに俺の能力は扱い方次第では必殺。迂闊に接近すれば死は免れん」
――畜生、時間が無い。冷静な振りをしてはいるが内心焦りまくってるのは俺も同じだ。考えろ、考えろ。奴の能力は重力操作。だがアリバイを作りつつ殺す為に取った殺害方法は天力の伝導率が良いパイプを用いたもの。パイプの使用はアリバイ偽装のためだけとも取れるが、実際には重力を操れる範囲に限りがあるということ。
つまりその範囲が問題だ。銀牙曰く、この地下空洞は直径約100メートルの円形。かなり広いが、神門は中央にあり、奴はその目の前にいる。壁の端から神門までは約50メートル。俺たちは壁から15メートル離れた程度。つまり今現在、奴との彼我の距離は約35メートルほど。
聖霊の間で奴は俺たち全員の自由を奪った。あの時の距離は約15メートルほど。すなわち、優に15メートルは奴の射程距離であることが確定している。この戦い……如何にして距離を詰められるかが勝負になる。
「どうした? かかってこんのか。少しは楽しませてくれると期待しているのだが……では、こちらから行かせてもらおうッ!!」
完全に油断した。思案している暇など、奴が与えてくれるはずも無かった。
冬真は軽く地を蹴る。ほんの些細な力であったはずだ。しかし、構えを取るよりも先に天夜の腹には冬真の拳が深々とめり込んでいた。風を切り裂くその挙動はまさしく音速。二人の目には一切何が起きたのか分からなかった。
続けて天夜の体には突き、回し蹴り、肘鉄などと思われる打撃が視認不可能の速度でいくつも叩き込まれる。そしてついには仕上げの前蹴りによって大きく吹き飛ばされ壁面に叩きつけられた。
「ガ……ハッ……!」
「天夜はん!」
二人を侮蔑した目つきで見下す冬真。言葉を失い、唖然とする銀牙。
奴の身体能力は、明らかに人間のそれを明らかに超越していた。人間離れしたスピードの正体が冬真の能力によるものであることは言わずもがな。
これでは距離を詰めようが詰めまいが同じだ。太刀打ちしようがない。
「やはり人間の肉体ではこの程度の負荷がちょうどか。これ以上の出力での徒手格闘は身体が保たんな」
「お前、今、なにを……」
「ふん。獣の目で動きは追えても、その猿頭では分からんかったか? なぁに、たった少し物理法則をいじってやっただけだ」
物理法則をいじった。その言葉の意味が、移動と打撃の際に重力の強さと重力のはたらく方向を操作したことを、天夜は身をもって理解した。
不意打ちと速すぎる打突に肉を締めることもままならない。乱気流のように暴れる呼吸と、痺れる手足。
天夜はなんとか体に鞭を打ち、無理やり立ち上がる。
「こんな……もんかよ。そんなんじゃ俺は殺せねぇぞ、冬真!」
挑発する天夜。あからさまではあるが、身体を張って奴の能力を見極める魂胆だろう。
「…………」
挑発に乗る気配は無い。ただ見下したような冷徹な視線をこちらへ投げかけるのみ。
――奴の重力操作とは捻り殺したり拘束するだけが使い道ではないということはハッキリした。
重力とは我々人間がこの星の上に立っている以上は誰も逃れられない自然法則の枷である。冬真はその枷を緩めた高速移動も、枷を拳に着けて殴ることも出来る。地球の重力はある程度一定であるはずだというのに、それらを増幅させたのである。
だが星の重力とは、本来惑星の中心へと物体が引き寄せられる力。人間からすれば惑星の自転公転の遠心力によって身体が垂直に下へと引っ張られる力。その下へと向かうはずの力が、あらゆる方向からの打撃と加速にも負荷されていたのだ。つまり重力のベクトルですら捻じ曲げ利用することも可能だと分かった。
懸念すべき点はこの重力のはたらく方向すら操るということだ。これこそが奴の能力に応用力を与え、あのおぞましい殺害方法――冬真がひねくれジャックと呼ばれた所以を可能としたと見て間違いないはず。あらゆる角度から螺旋状にねじるようにして人体に重力の負荷を与える。見えざる手によって人体は雑巾絞りのように捻じれ狂い、スクラップと化す。
けれど、これは精密な加減と高度な集中力が求められる能力の扱い方だろう。それこそ人間の範疇を逸脱した精神力がなければ操れはしない。
ともすれば奴は何故、わざわざその手法を取ったのか? ただ殺すだけであれば、相手を動けなくしてから銃殺なり刺殺なり絞殺なりすれば良かったはず。あえてあのような非効率な殺害方法を取ったのか。そうせざるを得なかった理由が何かあるというのか?
いずれにせよ、まだ奴は、手をいくつか隠し持っているはず。それを分析しなければ勝機は見えてこない。
「俺の能力を見極め策を練るつもりだろうが……無駄だ」
途端、吹き荒れる風。天夜は首根っこを掴まれ、壁に叩きつけられる。
一歩。たった一歩の踏み込みだとしか――いや、一歩踏み出す以前に、重心がわずかに前のめりになったところまでしか認識できなかった。獣の動体視力と獣の如き瞬発力を持つ銀牙でさえ、またも一切反応できなかった。
喉を激しく締め上げられ、天夜の呼吸器官が悲鳴をあげ嗚咽を漏らす。目を見開き、涎を垂らし、飛びかけそうになる意識をなんとか堪えながら、天夜はじたばたともがいて抵抗する。しかし全くもって振りほどけない。なんて馬鹿力だと驚愕した。およそ彼の華奢といえる細腕から発せられる筋力とは思えない。重力操作による負荷の増加は非力な者ですら怪力にしてしまうというのか。
「……ァ……ッ……!」
覇力を放出し、重力の負荷を消そうにも奴の今の天力量は尋常じゃない。どうせたちどころに打ち消されてしまうだろう。
そう考えた天夜は、苦し紛れにフィーネの夜を全身から放出する。
「それが貴様の征乱者としての力か。下等な力だ。所詮は腐った天力を生みだすだけの力。カス以下だ!」
冬真は嘲り吐き捨てる。天夜の首を締め上げるその手からは、赤黒い光の覇力が天夜の体内へと流し込まれる。見れば青白い光から生まれた黒の物質は、その覇力によって消滅を余儀なくされていた。
失念していた。彼もまた自分と同じ異端の矛盾者であることを。
その強大な力の前に身を強張らせる銀牙。だがここで動かねば、自分は死ぬ。かと言ってもし迂闊に攻めれば容易く殺されることは想像に難くない。
だが--迷いを、恐怖を、理性を断ち切り、激昂し、銀狼は地を蹴る。
「その薄汚い手ぇ……離せや!」
迸る瞬光の切っ先には、冬真の身を裂かんと駆ける爪。
「失せろ、羽虫が」
――が、辺り一帯の空気が変わる。重圧が変わる。牛にでも圧しかかられたかのような重みが、銀牙の全身を支配した。
押し潰されるような鈍い衝撃によって、獣は地へと叩きつけられる。
「ウ、グ……ァ……!」
骨が軋み、全身が悲鳴をあげる。見えざる手によって押さえつけられ、指一本動かせない。肺を締め付けられて呼吸が微かに漏れる。
銀牙を中心に取り囲むようにしてできた小さなクレーター。そこだけ重点的に重力が負荷されたことが目視しただけでも分かる。
「これでもかなり手加減してやっている方だ。貴様ら如き人間では、俺を止めることなど不可能に等しいと理解しただろう? 最も神に近しいこの力と対等に渡り合うことが出来るのは真なる神々だけだ。貴様らのような紛い物風情が拝謁できるだけでもありがたく思うがいい」
「ク……ソッ、タレが。自分のこと、神と同等とでも思ってんのか……!」
天夜の喉を激しく締め上げる細腕。その華奢な手からは想像もつかない馬鹿力に身をよじらせる天夜は、窒息しそうな苦しみに耐えながらなんとか言葉を紡いだ。
「面白いことを言う。確かに俺は神の力を欲してはいるが、神は最も忌むべき存在だ。だからこそ、俺は神を超えるためにこの門を起動した」
「神を超える者だから、人を……人間をあんな風にして良いなんて道理はねぇぞ」
「……もしやあのボロ雑巾のような殺し方が気に食わなかったのか?」
「当たり前だ……人間はテメェのオモチャじゃねえ」
「オモチャ、か。お前ら人間はことごとく的外れなことを言う。あの殺し方はな、“出来るからやった”。ただそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。強いて言うなら、重力操作の精密度を高める練習台くらいにはなったがな」
その言葉に、ただ絶句するしかなかった。悪魔の所業とも言えるあの惨たらしい殺害方法を、奴は「ただ出来るからやった」とだけ述べた。
人として壊れている。やはり人並みの倫理観などこいつには皆無らしい。
「フン、いまお前、俺のことを人間として欠陥があるなどと思ったな? 目を見れば分かるぞ。ニンゲンという生き物は自分の常識に一切当てはまらない物を見たとき、そんなマヌケな顔をする」
奴は読心術や観察眼に長けているのか、 つらつらとこちらの心情をつど的確に突き崩してくる。図星を突かれた天夜。動揺を隠せず、冷や汗が額から滲みだす。
「そも俺は人間などではないと、刀条から聞いたはずだ。人の範疇で俺を測れると思うなよ、凡夫めが」
「そりゃまさか、悪魔だとかって妄言のことか? 本気でそう思ってんならお前、マジにイカれてやがるぜ」
「どうとでも言え。俺はこの儀式の完成を、神への復讐を、何百年と待ち焦がれていたのだ。ここまで来て貴様のような弱者に止められるわけもない」
気道を更に締め上げられ、肺と脳には酸素が行き渡らない。視界は徐々に朧げになってゆく。銀牙は重力に押さえつけられて身動きが取れないまま唸り、天夜もまた、手足をばたつかせることすら出来ないのは重力操作によるものだろう。フィーネの夜を生み出そうにも、覇力で重力を打ち消そうにも、奴もまた矛盾者。この至近距離で直接両方の力を流し込める圧倒的優位を保った奴には無駄だ。
――クソ、思考もぐちゃぐちゃになってきた。何も、できない。こんなの、勝てるはずがねえ。次元が、違う……。このまま、あっけなく、死ぬ、のか……?
「ふん、諦観した眼になってきたな。このままお前と問答しても無駄のようだ。もう逝け」
奴の手が、首を骨ごと圧迫する。天夜は悟った。奴はこのまま加圧してその手で俺の首を断つつもりなのだろう、と。手足の感覚は痺れてとうになく、だらしなく涎と血を垂れ流す。
「まだ諦めるには早いんじゃないかなぁ?」
突如として、死にかけていた脳髄を針で一刺しされたかのように響いた、あまりに場違いで素っ頓狂な声。走馬燈を見かけている意識を現実に引き戻すかのようなその声。気付けば冬真の背後には、まるで青天の霹靂のような少女がいた。にっかりと笑みを浮かべた少女は冬真の首筋にメスのような刃を三本同時に突き立てる。注意が明鏡へと向いたおかげで、天夜を拘束していた手はほどけた。
「ガハッ……! ゴホッゴホッ!」
今まで供給されなかった酸素を一気に取り込み、天夜はせき込む。
同じく不意打ちによって銀牙への重力は消えたのか、彼もヨロヨロと立ち上がる。
「な……貴様……いつの、間に……!」
頸動脈から噴き出る鮮血。冬真はよろめきながら背後に拳を繰り出すが、ひらりと躱す少女には当たらず。暗殺者のごとく音を消し去り現れた彼女は、大量のメスを両手に持ってニタニタと不気味に微笑む。
「助っ人さーんじょー。ヒーローは遅れた頃にやってくるのだよ諸君」
チェス盤のようなモノクロ模様を纏った少女は軽口を叩く。それは聖霊の間へと向かう途中で天夜たちと別れたはずの、明鏡臨哭の姿であった。
「明鏡! 無事だったんだな!」
「ふふん、まあねー。カレンちゃんとトウマっちに不意打ち喰らったけど、なんとか逃げ延びてね。その後屋敷が崩れはじめてさすがのボクも焦ったよ」
「くっ……事を急いて追わなかったことが仇になったか。お前のように何をしでかすか分からん奴はやはり早々に殺しておくべきだったな」
「えぇー? ボクを殺すぅ? そんなの無理無理カタツムリだよぉ」
朗らかで眩しいほどに明るすぎる少女のスタンスはこの絶体絶命の状況でも、一切ブレない。自分が相手にしようとしている者の強大さなど歯牙にもかけない様子だ。
「ま、元よりキミたちには当たりをつけていたし、目的はボクなんかじゃなく他にいると踏んでいたから運が良かったのは否めないけどね」
「その絞りカスほどの運をここで使い果たそうとするとは、よほどの阿呆と見た」
「トウマっちー。強がるのはイイけど、その傷そのまま放っておくと失血死するよ?」
「くだらん。お前らの蟻のような抵抗はじき終わる」
そう吐き捨てた冬真は首に右手を当て、重力で首の皮膚を捻じ曲げ、無理やり傷口を塞いで止血した。
「なんでもありかよ……!」
天夜の驚きに冬真は口端を歪ませた。征乱者には自分の能力を半分も理解できていない者も少なくない。だがその男は、もはや己が能力の全てを把握しているようであった。
「そう驚かれると嗜虐心を煽られるというものだな。ではもうひとつ、面白いものを見せてやろう」
止血を行なった右手をそのまま天高く真上に掲げる冬真。これ以上何を見せられるのか、もう何が起ころうと驚くものかと天夜は身構えた。
けれどもそれは、驚かざるを得なかった。
「な……に?」
目の前で起きた現象。それは、さっきまでそこに確かに立っていたはずの冬真の姿が「消える」という、驚く以外にどうしようもない現象。
透明人間、ステルス迷彩、不可視、陽炎……。
方便はなんでもいい。ともかく今の今までそこにいたはずの人間が、ゆらゆらとした空間の揺らぎと同時に視界から消え去った。それだけ。天力の気配を感知しようにも、奴は矛盾者。調律者としての覇力によって気配を相殺しているだろう。
シンプルかつ確かな脅威。真っ暗闇の中に灯り無しで放り込まれるのと差異は無い。
「こっちだ」
天夜の背後からの声。飛来する不可視の打突。咄嗟に床を蹴り、躱そうにも時既に遅し。一発、二発、三発と天夜の身体に叩き込まれる重々しい音。勢いに乗ったのかそのまま冬真は天夜を押し倒し、容赦無く殴りつける。
「ハハハハッ、ハッ、ハハハハッ、ハハハッ‼︎」
オモチャを見つけたようにはしゃいだ笑い声と鈍い音が木霊する。まるで善悪の区別すらつかない幼児のよう。邪悪でありながら純粋な哄笑。
強烈な殴打の嵐で意識が飛んでいるのか、天夜の瞳からは光が消えかけていた。
「ええ加減に、せぇ!」
耐えきれず、怒号と共に疾駆する獣。その姿勢は弾丸の如く真っ直ぐに研ぎ澄まされ、凶悪な爪先が光る。おそらく冬真がいるであろう位置目がけて突っ込まんとする。
「おっと、まだ足掻くか獣風情が」
が、瞬時に天夜の上から飛び退いたのか当たらず。銀牙はその勢いでただ壁に激突しただけ。
「……この星が太陽に衝突するまであと20分ほど。さて、まだやるか? お前らとの戯れは余興としては少し飽いてきたところだ。が、俺にはやることもない。まだ遊んでやらんこともないぞ?」
「何が20分だよ、そんな分っかりやすい笑顔で大ウソついちゃってさ。天体同士には引力ってものがある。つまり、ある程度近づいちゃえば天体同士が引っ張りあって後戻りできなくなる距離があるということだ。確かに完全な衝突そのものは20分後かもしれないけど、その距離を考慮すれば正確な残り時間は……あと5分だね」
不可視の声の主の嘘を看破する明鏡は、その冷静さを一切欠いてはいない。だが状況が最悪であることが判明しただけで何も現状が変わってなどいないのもまた事実。
「キミのその透明人間のトリックも簡単さ。強力な重力場を薄く身に纏って、光の反射する面や通り道を捻じ曲げ遮断している。ただそれだけだ」
「ほう、やはりお前はこいつらとは少しばかり頭の出来が違うようだな」
「そりゃあ天才ですから」
エッヘン、と腰に手を当て未発達な胸を張る。
冷静さは欠いていないが緊迫感の一切無い彼女。何かを企むような笑みを、冬真は見逃さなかった。
「やはり、お前を先に潰すべきか」
ギリ、と奥歯を噛み締める不可視の悪魔。
「来なよ。キミにボクは殺せない」
ニタリ、と口元を歪ませる幼きアクマ。
三十数秒。じり、と互いの出方を窺う読み合いの時が流れた。明鏡の腹の底にかなりの警戒をしているのか、冬真も迂闊には動かない。
――否、動けない。
「死ねッ‼︎」
が、静寂を破ったのは不可視の悪魔の咆哮だった。地を蹴る音すらしなかったが、不可視の悪魔が幼きアクマへと殺意の矛先を向け動いたことは明白であった。
言うまでもなく当然のことだが、常時不可視の攻撃など、常人に見切れるはずもない。
けれどもそれが、不可視の世界を長く生きて来た者であればどうだろうか?
けれどもそれが、天才であったらどうだろうか?
――そう。常識は、“反転”する。
人間離れした速度の空中浮遊、人間離れした加速度の打撃、人間離れした能力。冬真はこのような少女などに躱せるはずがないと踏んでいた。一撃で心臓を穿つ未来図が脳内では描けていた。
だがそれが、呆気なく崩れた。
「ッ……⁈」
交錯の勝敗は一瞬で着いた。
明鏡が行ったのは、掌を冬真の魔拳に添えつつ体をわずかに前のめりにずらしただけの肉薄した回避。結果、冬真の拳は明鏡の耳朶を僅かに掠めたのみ。
しかし、少女はただ避けただけではない。彼女の小さな拳は、不可視の悪魔の腹部に確かに食い込んでいた。
「キサマ……視えているなッ⁈」
少女は反撃を警戒し、素早く後退する。
「やっと分かったのかい? 意外とバカなんだね。ボクは“音の征乱者”だと知っていたはずだろう? キミが浮遊しようが透明人間になろうが、元から視覚に頼ることのないボクは音を視るのさ」
だが今のカウンターはそれだけでは成し得ない。少女の見事と感嘆せざるを得ない体捌きとカウンターは、明らかに練度の高い武人のそれであった。構えもしない脱力した状態から、無駄のない動きによって躱しつつ相手の踏み込むエネルギーを利用して打撃の威力を増幅させるカウンター技術。ここから鑑みるに、中国拳法の類と思われる武術を彼女は体得しているのだろう。
「驚いてる驚いてる、ふふ。ボクは知らないことは全部知りたいからこんな戦い方まで知ってるんだ……。さぁ、ボクのモルモットになってよ‼︎」
「ナメるな、人間風情が!」
一際、爆轟とした風が吹き荒れた。その姿は見えないが、冬真が襲いかからんとしていることは明白。おおよそ人体の運動エネルギーでは生み出せるはずのない突風と轟音。繰り出されるステルスな嵐。
だが、それすらも精密すぎる動作によって全てを躱し続ける少女。まるで機械であるかのような正確さには恐れを抱かずにはいられない。
「当たらないと言っているだろう? いい加減遊んでないで本気を出したらどうだい。このウスノロ」
「……そうか、そんなにも捻り殺されたいか!」
途端、明鏡の周囲の空間が歪んだかと思うと、その身体は宙へ浮く。手足が固定され、彼女は一切の自由を奪われる。
絶対絶命。一撃必殺。このままいけば四肢は捥げ、肋は突き出で、内臓は四散する。そんな、誰の目が見ても明らかのこと。
「お前はなかなか興味深い人間であった。臣下として取り立てるならお前のような者の方が良かったかもな。さて、言い残すことは?」
発動から殺害手前まで、わずか3秒。
その気になればいつでも殺せるはずなのに、奴はあの捻じ曲げる技を使わなかった。直接的な攻撃による充足感を得たいのか、ただ遊んでいるだけなのか、嬲るように直接的な打撃しか行わなかった冬真は、とうとうその禁じ手を放った。
「そりゃどうも。でも言い残すことなんて、何一つとして無いよ。だってキミはここで、仇を討たれる」
「ほう、それは誰にだ?」
「そこの、飢えた眼をした獣にさ」




