2. 報告:Inference
橘の検死後、部屋に戻った天夜は結局一睡もせぬまま朝を迎えた。
ベッドに倒れ込んだまま声を押し殺し、枕に顔を埋め、歯を食いしばり、怒りを抑えようと必死だった。
「クソ…………クソ……クソ、クソ、クソ、クソ! ああぁぁぁぁぁぁぁ! クソが!」
ベッドを何度も何度も殴りつけ、半狂乱で苛立ちをぶつける。
どうしようもない悲しみ。
どうしようもない責任感。
ひねくれジャックに狂おしいほどの憎悪と殺意が沸々と湧き上がる。
このやり場の無い怒りをどこにぶつければ良いのだろうか。負の感情が心の中にうず高い塔を形成し、冷静さを打ち壊してゆく。
たかが定期審問に来たつもりが、まさかこんな事態になろうとは思いもしなかった。
……侮っていた。これも全て、己の慢心が産んだ惨劇ではないのか。自分はまだまだ未熟だと言うのに、何を思い上がっていたのか。
早急に手を打つべきだった。悠長に一人ずつ定期審問を行っている場合ではないかもしれない。
いや……だがそれではダメだ。秘密裏に行わなければ、もしひねくれジャックが暴れ出した時に被害が周囲にも及ぶ。
そのために一箇所に固まって全員で審問を行うことだけは避けようと決めたではないか。
天夜はベッドにしがみつくようにして唇を噛み、声を抑える。
――この屋敷のみんなを守るだと? 兄の仇を取ってやるだと?
俺は何を思い上がっていたんだ。波流ちゃんを心配させまいと大見得を切っておいてこのザマか。
笑えない。情けない。
「朝、か……みんなに、報告しなきゃな……」
全て伝えなければいけない。そう思った途端に、また涙が零れ出す。
感触が、臭いが、死に様が、脳裏に焼き付いている。鮮明に蘇る惨状が胸を詰まらせた。
人の死というものは、実感すればするほど悲しみと恐怖が込み上げてきて不思議な感覚に包まれる。
ふと窓に目をやると、射し込んだ陽光が素知らぬ顔で燦々と照りつけている。昨晩の吹雪などまるで忘却の彼方だ。今はこの光でさえ不快に感じる。
いつまでもここで泣きじゃくったままでいるわけにもいかない。橘波流が死んだという事実を伝えなくてはならないのだ。
動揺が生まれるのは免れない。
だがそれも覚悟の上だ。
全てを、伝えよう。
『その人の分までしっかり生き抜いて、自分の生き様を見せつけてあげようよ。それこそが、今やるべきことじゃないのかい?』
不意に明鏡の言葉が過った。
……そうだ。ひねくれジャックの正体を暴き出し、己の生き様を見せつける。そうすることでしか、償うことはできないのだ。
これは復讐であり、贖罪であり、弔いだ。
拳を固く握り締め、込み上げる激情を押し殺す。
コートを勢い良く羽織った天夜は、覚悟を決めた力強い一歩を、部屋から踏み出した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……というわけだ。ひねくれジャックはまだ誰かを殺すつもりかもしれない。充分に警戒して欲しい。これも全て、俺たち調律者の力不足だ。すまない」
――午前八時半。
食堂には刀条以外の生存者全員が揃っていた。強気な彼女も、流石に昨晩の出来事は相当 堪えたのだろう。返事はあったが、部屋から出ようともしないらしい。
逆に、昨日の晩餐に顔を出さなかった九道兄弟が今日は現れた。
蒼牙は一転してとても大人しく、昨日の自分たちへの反抗的な態度は微塵も見えない。
その兄銀牙は、満身創痍で頭部に包帯を巻きつけていた。また“ペット”とやらを躾けていたのだろうか?
しかも二人目の被害報告によって重圧も上乗せされた。
意気消沈してしまい、沈痛な面持ちで伏し目がちになっている。僅かながらに開いたその目は虚ろだった。
「天夜はん……そらほんまなんか……橘ちゃんが死んだって……」
無理矢理絞り出された銀牙の言葉は、今にも消えかかりそうだった。
心身共に傷だらけの彼には、もはやあの陽気な面影は無かった。
「あぁ……事実だ」
「……すまんな、みんな……俺の所為なんや……」
「そんなことはない、気を落とすな」
責任を感じている銀牙に、天夜は慰めの言葉をかけた。
暗鬱な重苦しい空気が食堂を包み込む。それ以降誰も一切口を開こうとしなかった。各々思うところはあるらしいが、この状況で元気に口を聞けるのは明鏡くらいだろう。
「ねぇ君たち。何をそんなに悲観しているのさ?」
沈黙を破ったのは、九道蒼牙だった。ただただ真顔で、淡々と彼は言葉を紡ぎ始めた。
「さっき僕も畑を調べに行ったけど、確かにあの死体は酷い有り様だった。でも手掛かりはたくさんあったじゃないか」
その言葉に、皆の顔色が一瞬で変わった。
「何っ?! それは本当か!」
「うるさいなぁ。それじゃあ基本的なことから教えようか。そもそも、あの畑に行った君たちは、庭周りと裏庭に必ず足跡を残すはずだ。なぜなら地面は雪だからね。警察の鑑識とかがわざわざ調べなくても良いくらいに、靴の裏を見せてもらえばすぐ分かるほどくっきりと足跡が付く」
「あぁ、そうだが……それがどうかしたか?」
「実は僕も、朝一で庭をぐるっと一周して、畑含めて全て調べて来たんだ。あの時間、雪はあまり降ってなかったみたいだし、足跡も完全には消えていなかったから助かったよ。そこで、僕の発現したゼリー状の半液体を足跡に流し込んで型を取ってみた。これはそのサンプルを紙に印刷したものだ。これと照らし合わせてみるから、一応全員の靴裏を見せてもらえるかな?」
その言葉に従い、みな靴を脱いでその裏を照合していく。
ちなみに足跡を強引にかき消したような痕跡もないか入念に調べたらしいが、それもなかったという。すべて新雪の上に付けられた足跡ばかりだったということだ。
「うん、犬の足跡、メイドの靴、調律者さんのブーツ、明鏡のスニーカーまではわかった」
「この丸い足跡は誰のだ?」
「消去法でいけばおそらく刀条さんだね。今はここにいないから確認できないけど、彼女、綺麗な草履をはいてたのを覚えてるよ」
これでハッキリした。あの事件現場に向かう足跡は天夜、メイド、犬のエリック、明鏡、刀条の足跡しかなかった。
「足跡を残した者の誰かが犯人の可能性が極めて高いのは言うまでもないね。でもまあ時間が経過してるから、何か細工をされたかもしれない。だから足跡だけでは断定できなけどね」
彼が聡明というのはあながち嘘ではないらしい。能力を応用した推理力を持つ者が発言するだけで、一気に前進した気にもなる。
「橘さんの遺体には靴が無かった。彼女自身の足跡も無かったし、犯人は彼女を殺してから運んだと考えられる」
「ほう……なるほど」
「見直したかい? 調律者さんたち」
「いや、なんつーか、意外だ。お前がこれほど協力的とは」
「何言ってんのさ……僕が恨むべきはひねくれジャックだ。君たちじゃあない」
まるで昨日の出来事が、そして蒼牙の怒りが、それら全てが嘘のようだ。
あの後彼なりに思いつめて考えを改めたのだろうか。短期間で人の成長を感じられるのはとても喜ばしい。
「待て蒼牙。相手はあのひねくれジャックや。足跡なんぞいくらでも誤魔化せるはずや。昨日の真希ちゃんの死体を思い出せ」
ここで蒼牙の大きな手掛かりにもなり得る推理に、兄の銀牙が反駁した。
銀牙の言う通り、昨日の出来事を追想する。朝食の際に、突如天井から落下して現れた荒瀬真希の死体。明鏡という異端児を除く誰もが、あの異様な光景には息を飲んだであろう。
「単純に考えてみろや。死体を乗っける部分なんか、この食堂には存在せえへん。よお見てみい、シャンデリアの位置も死体の落ちて来た場所とはかけ離れとるやろ。せやのに死体を引っ掛ける場所なんか何も無い天井から現れた。まるで瞬間移動でもしたみたいにな」
「兄さん、まさか空間転移なんていうとんでもない能力の持ち主だなんて言うんじゃないだろうね?」
「そのまさかや。今蒼牙が言うてくれた空間転移……つまり瞬間移動。そしてもう一つ考えられるのは、空中浮遊や」
「なるほど。物質を浮かせるか、物質を別の場所から任意の場所に転移させる。どちらかの能力なら死体を突然天井から落とすことも可能だし、足跡を残さずに畑まで死体を運べる。単純に考えれば、それ以外に考えにくいな」
銀牙の推理を天夜が補足して考察する。
ひねくれジャックが何らかの征乱者であることは明白だが、空中浮遊と空間転移のいずれかにあの殺害方法がどう関係してくると言うのか?
死体は皆一様に螺旋状に捻れて、肉体を雑巾絞りにでもされたような死に方だった。
一体どうすればあのような死体が生み出されるのか、皆目見当も付かない。
皆考えを巡らせているのか、黙り込んで一言も発しようとしない。
すると突然、銀牙が立ち上がった。
「いつまで考えとっても堂々巡りや。腹が減っては戦は出来ぬ。朝飯にしようや」
銀牙は辛い面持ちを無理矢理拭い、精一杯の笑顔を浮かべて気丈に振舞った。
流石は大財閥の次期当主。人の上に立つ者には、こういったカリスマ性が必要なのだろう。
銀牙の言葉に合わせてメイドたちが奥の扉から銀のワゴンを押して続々と現れる。そして食卓に並べられる絢爛で優美な食事の数々。
どれも食欲を誘う香りが立ち昇り、それらが美味であることを誇示している。
洋風朝食の定番であるクロワッサン、香ばしい肉の照り焼き、瑞々しく優雅に盛り付けられたサラダ、ぷりぷりとした目玉焼きとソーセージ、じっくりと煮込まれたコーンスープ。
その辺のホテルでもありそうな朝食のメニューだが、見た目だけでも比にならないほど美味であることが分かってしまう。
「もうボクお腹ペコペコだよー」
明鏡は相も変わらずマイペースな奴だ。曇り一つ無いその笑顔は、今のこの状況では似つかわしくない。一体何がそんなに面白いのか、不気味なほどに彼女は笑顔だった。
明鏡以外の表情はあまり浮かばれないが、少しでも鋭気を養うために次々と席に着く。
こうして平穏を味わっていられるのも、あとどれくらいなのだろうか――。




