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19. 安息:A short break


 淡い月明かりが窓から差し込み、室内のインテリアを薄っすらと照らし出す。

 いつの間にか日はすっかり落ち込んで夜の(とばり)が下りていた。

 濃紺の星空を灰色の雲海が覆い隠す。天から静かに降り注ぐ粉雪は、窓を塗り込めんとしていた。


 “崩月(ホウゲツ)”は極寒の地。真冬ともなれば突然天候が変わることも多々あり、天気予報は当てにならないほど異常気象が起きる。吹雪が突発的に発生することも少なくはない。今はまだ穏やかだが、夜が更けるにつれて降雪の勢いが熾烈になる可能性もある。


 吹きつける風も(たお)やかなもので、痛いほどの静寂が今というこの時間を支配していた。


 静けさが包括する夜。物思いに(ふけ)るにはうってつけの夜。

 だがなんとなく寝苦しさを感じた天夜は、重い瞼を持ち上げた。


 ゆっくりと身体を起こし、布団を除ける。ぼやけた眠気眼をこすりながら時計に目をやると短針は既に十九時を指していた。


 気を失ったのは昼前頃だったか、はっきりとは覚えていないが随分と長い間眠っていたようだ。


 ふと、脚に重みを感じた。正確には太もものあたりに何かが乗っている感覚だ。

 枕元のスタンド照明の紐を引いて灯りを点け、目を凝らす。


 そこには、天夜の布団の上で顔を突っ伏す橘がいた。

 可愛らしい横顔が天夜の太ももを柔らかく圧迫していたのだ。


「波流ちゃん……」


 ――まさかずっと付き添っていてくれたのだろうか? だとしても何故?

 疑問に思った天夜は彼女の髪を優しく撫でる。


 経緯は分からないが、自分を労ってくれる彼女がなぜかとても愛おしく感じられた。まるで妹でも持ったかのような気分に包まれる。

 だがその穏やかな気持ちを切り裂くようにして、部屋の隅の闇から一人の女が現れた。


 白銀の長髪を(なび)かせる女は、手の平大の薄い携帯端末を手にしている。


「天夜……見損なったわ……」


「白亜ァ⁈」


「もしもし警察ですか? 強姦未遂の男がいるんですけど――」


「ちょっと待てバカヤロー! 誤解だ! 無実だ! 冤罪だ!」


「……フフッ」


「あ?」


「ごめんなさい。冗談よ、天夜。ギリウスを見てると私もあなたをイジめたくなっちゃって」


「性格の悪い奴だぜ……」


「あら、あなたほどじゃないわ。……って、何ボーッとしてんのよ」


 ずっとクールな振る舞いだった白亜の笑顔のギャップに面食らう。普段の彼女には似つかわしくない無邪気な笑顔があまりにも美しくて見惚れてしまった。

 冷徹そうに見えて、案外彼女は人間らしいのかもしれない。


「うるせぇ、なんでもねぇよ」


「波流ちゃん、寝ちゃったのね」


「なんで俺の部屋に波流ちゃんがいるんだ?」


「あなたが倒れる瞬間、たまたま階段の上に居たのよ。その時、あなたから僅かな天力を察知したみたいで……」


「まさか、バレたのか? 俺が“矛盾者(パラドクサー)”だってこと」


「……ええ。真実を話すことを迫られたから、仕方なくギリウスが大方のことを話したわ。その引き換えに審問を行わせてもらったの。結果として彼女は潔白だったわ。正真正銘“天力の征乱者”であり、法と規則に反することも無かったわ」


 天夜はしまった、と大きく溜息を零した。額に手を押し当てて悩ましげに(うれ)う。

 それと同時に、橘のような少女が犯人でないことに胸を撫で下ろしてひどく安堵した。


「何処まで話した?」


「あなたの能力の詳細については伏せておいたわ。でも、私もギリウスに聞いて驚いたわよ。あなた、天力と覇力が放出する気配を体内で調整して均衡を保っていたなんてね……」


「あぁ。もう慣れたが、かなり不便なもんさ。常に天力と覇力を約4:6の比率にしておかなければならない。この均衡が大きく崩れてしまえば、天力の気配が露呈して俺が征乱者の力を有していることがバレちまう」


「さっき波流ちゃんに気付かれたのは、九道蒼牙との戦いで天力を使い過ぎてそのバランスが崩れたのと、疲労による体内での比率の調整ができなかったせいという事ね」


「ああ、おそらくな」


 天夜は幸せそうな顔で寝息を立てる橘に視線を落とす。巻き込んでしまった罪悪感を何処となく覚えた。

 一人ずつ審問を行うのが唯一の手段だが、それでは遅い。もしかするとひねくれジャックは何らかの行動をじきに取るかもしれない。奴にはきっと何か目的があるのだ。


 この屋敷に潜伏し、わざわざ殺人を犯したということはそれなりの理由が……それなりの、何か動機が――


『ヴオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!』


 突如、静謐を突き破ってけたたましい重低音が屋敷全体を震わせた。凄まじい振動と衝撃が壁を伝い、窓ガラスを激しく揺らす。天夜も白亜も思わず耳を手で塞いで身を縮める。

 焦燥が全身を駆け巡った。嫌な汗が全身から噴き出てくる。

 あまりの爆音ゆえに音の発生源が何処か分からない。


 天を衝くグロテスクな唸り。

 頭が割れそうな鬱陶しさと共に卒倒しそうな吐き気すら催してしまう。


「ふわっ?! な、な、なにごとですか?!」


 突っ伏して寝ていた橘は、驚いて跳んで起きた。その反動で間抜けにも椅子から転げ落ちて頭を打つ。


「大丈夫か波流ちゃん!」


 天夜はベッドから飛び出て橘に手を貸す。


「な、なんとか!」


 それを支えに立ち上がるが、彼女の膝は笑っていた。

 震える彼女の右手。恐怖心のせいか少し汗ばんでいる。余程恐ろしく感じているのだろう。


「ホントなんなのよこの屋敷は!」


 遠吠えのような荒ぶる咆哮は、十数秒の甲高い残響ののち収まった。しばらく不安感を拭い去ることなどできはしなかった。

 いや、聞こえなくなった今だからこそ、底知れぬ恐ろしさを如実に感じる。

 正体不明の何かが、この九道邸の何処かで蠢いている。そのことを銀牙に問い詰める必要もある。これ以上隠し事をされては堪らない。


「あいつは一体、どんなバケモンを飼ってんだ」


「分からないわ……こんな声で鳴く動物なんて、聞いたことが無いもの」


「動物って定義で済む生き物かどうかすら怪しいぜ」


 本当にわけが分からない。

 殺人鬼が闊歩し、獰猛な獣が棲むこの屋敷で安らげる場所など本当に有るのかさえ疑わしくなってくる。


「少しお手洗いに行ってくるわ……なんだか気分が悪い」


「あぁ。足下気を付けろよ」


 一言小さな声で礼を言って白亜は部屋を出た。


 手を取って橘の身体を支えていた天夜は、椅子に彼女をエスコートする。向かい合うようにして天夜がベッドに腰を下ろす。


「あの、天夜さん。お身体の具合はどうですか?」


「あぁ、もうだいぶ良くなったよ。ありがとな」


「いえ……そんな全然。私はただ、目の前で人が倒れるのが嫌なだけなんです」


 彼女の顔に何処か憂いを抱いたような陰が落ちた。

 兄への郷愁に伴って去来する恐怖。人の死を目の当たりにした負の刻印。それらがあどけない少女の心臓を満たす。正負の感情の衝突が、彼女を慟哭させていた。


「……大丈夫だ、波流ちゃん。俺は死なねえ。調律者……いや、人間としての誇りと尊厳を持ち続ける以上は己の職務を全うするつもりさ」


 天夜は思わずその言葉を口にしていた。とにかく彼女を安心させてやらねばなるまいと必死に。

 ここまで啖呵(たんか)を切ったからには全力で事に当たらねばならない。それこそがひねくれジャックの犠牲者となった者たちへの最大の(とむら)いとなるだろう。


「ありがとうございます……。私が天夜さんを支えなければいけないのに、逆に支えられちゃってますね。おまけに天夜さんの秘密まで知っちゃって」


 少し照れくさそうに、それでいて申し訳なさそうに優しくはにかむ橘。何かを言い出したいのだろうが、口を開きかけてはまた(つぐ)む。


「あの、天夜さん」


「ん?」


 やっと声になった。続けてしどろもどろな調子で言葉を紡ぐ。天夜は落ち着けと言って橘の小ぶりな頭をくしゃくしゃと撫でた。


「天夜さんとお兄ちゃんって、何処となく似てたんです。ぶっきらぼうで少し口は悪いけど、とても優しくて頼り甲斐がある――私のお兄ちゃんはそんな人でした。だから、その、えっと、一緒に居ると、とても安心できるんです」


「そうか? 俺は少なくとも、自分のことをそんな良い人間だとは思ってない」


「そ、そんなの誰だって同じです! でも自分の良い所って自分じゃ気づかないものですよ? 自分の長所とか短所って、人が気付いて初めて意味があると思うんです。私は天夜さんの良い所をもう知っています。……だから、天夜さんもきっと良い人です」


「“良い人”……ね。ま、波流ちゃんが言うなら、そうかもな」


 天夜は気恥ずかしそうに頭を掻いた。

 常日頃からギリウスの酷い言われように慣れているせいか、人からの純粋な褒め言葉という物をどう受け取ればいいのか分からない。

 素直に受け止めるべきなのだろうが、どうにも歯痒い。


 調律者という立場のため、暴れる征乱者を取り押さえるために非道なことも数多く行ってきた。

 良い人と言われることにはなんとなく抵抗があった。


「天夜さん。全てが終わったら、一緒にお兄ちゃんを弔っていただけませんか? きっとお兄ちゃんも喜ぶと思うんです」


「……あぁ、もちろんだ」


 天夜はもう一度橘の頭を優しく撫でた。ずっとこの穏やかな時間に微睡(まどろ)んでいたい。そうとさえ思った。


 橘も同じ想いだったのだろう。

 兄と重ね合わせるその一瞬に甘えるようにして、身じろぎもせず目を閉じて微笑む。綻びた彼女の顔には一片の不安や不信感も無く、ただただ安寧に満ち溢れていた。

 (ほの)かな灯りだけが部屋と二人をぼんやりと照らしていた。二人の手と頭の影が壁に這って重なる。

 静けさの中で勢いの増した吹雪がやや強く窓を叩く。


 暗い雪はまだ、止みそうにもない。


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