15. 強者:Another Tuner
まともな照明一つ点けず、部屋に佇む少年。その横顔を、暖炉の穏やかな炎の色が染め上げる。
濡れたカーペットやフローリングの上の水を、蒼牙は丁寧に体内に吸い上げるようにして消滅させていた。
液体の征乱者のため、液体を消すことも可能なのは言うまでもない。
「ハァ……結局、僕の勝ちか……」
倒れこんだ天夜と白亜に目をやり、残念がるような表情で、彼は独りごちた。
つまらない。彼にとっては何もかもつまらないのだ。この世の全てが。彼の貪欲で贅沢な悩みは、この世のあらゆることに喜びを感じられないことだ。何をしてもあっさりと出来てしまう彼にとっては、この世の出来事は何もかも色褪せて見える。何かをやり遂げたり、苦難を乗り越えた時などに感じられる達成感から来る喜びという感情が、彼には欠落しているのだ。
栴檀は双葉より芳しとも言うように、幼い頃から神童と褒め称えられたこともあった。勉学においても、運動能力においても、蒼牙は天才的なセンスをまざまざと見せつけた。
その天賦の才は、兄を著しく凌駕していた。兄は兄で優秀ではあったが、蒼牙はあらゆる分野において秀でていた。それゆえに兄も何処か弟のスペックの高さに嫉妬していた面もあったかもしれない。
それでも兄弟の絆は固かった。周りの薄汚い大人たちは、九道家次期当主候補である兄弟二人をこぞって利用しようとしていたが、互いが注意し合うことで甘言に惑わされることなく生きてこられた。
特に意馬心猿を渦巻かせる大人たちの下衆な下心は、幼くして聡明な蒼牙には見透かされていた。浅ましい魂胆に呆れ果て、人間という存在のくだらなさに失望した。
それは、彼がまだ齢五歳の頃のことであった。
元より人と接する事が苦手だったのもあいまって、兄にも勝る華やかな才能を、彼は自ずと隠すようになっていった。
次期当主は蒼牙とも言われた頃もあったが、カリスマ性においては兄の方が圧倒的に上だと感じた彼は、その座から身を引いた。否、人の上に立つのは、彼のように人望のある者の方が良いと理解していた。これからの時代、大財閥である九道家を台頭して取り仕切るのは、自分ではなく兄にこそ相応しい。そして自分は、九道家の代表として表立つ兄を精一杯支え、兄の影で生きようと幼少の頃より決意していた。
2020年。つまり今年の春。銀牙の高校卒業と同時に、蒼牙は兄と同じ有名進学校に入学。
祝福ムード一色で、その時は九道家現当主である働き詰めの父も珍しく、首都東京から、“崩月”へと帰省した。
父が九道邸に居る間、北の辺境では滅多に無い、晴れやかな青空と暖かな陽気の日が続いた。麗らかで、嬉々とした日々だった。
久々の一家団欒も兼ねて、隣町の領主主催のパーティーへと九道家の面々は赴いた。
そこで、悲劇は突如として訪れた。
パーティー会場で、他の参加者に挨拶などの社交辞令を、父も兄弟も行っていた頃だった。
トイレに席を外した母が姿を消したのだ。待てど暮らせど、会場に戻ってくる気配はなく、夜になっても母が現れることは無かった。何処を探しても見つからず、ついに行方不明という捜査方針で、その晩のうちに警察が動いた。
そして警察の懸命の捜査によって母が見つかったのは、その二日後であった。
――見るも無残な死体と成り果てて。
彼女こそが“ひねくれジャック”の最初の被害者だった。誰にも気付かれることなく、路地裏で悲惨な死を遂げていたのだ。
この事件を口火に、獣の身体が捻れた奇妙な変死体が見つかるようになった。
しかし、被害者にほとんど共通点は無く、犯人の動機も足取りも掴めぬまま、半年以上が過ぎた。
警察は捜査を打ち切り、奇怪な事故死と断定してしまった。
その間に、人間の被害者数はとうとう四人へと到達。
残された三人の親子は、征乱者の仕業に違いないと睨みを付け、独力でありとあらゆる方面から調べ上げた。父も東京に戻り、警察や匡冥獄への協力を仰いだ。
だが返事は芳しくなく、証拠が何一つとして上がらない以上、警察も匡冥獄も動けないと跳ね除けられた。
無力感を感じたまま、兄弟は11月の半ばまで来てしまった。
母が殺されて以来、ひねくれジャックを自らの手で討つためにと、蒼牙は夜な夜な天力操作と液体を自在に操る猛特訓を積んだりもしていたが、それを発揮する機会は見つからずにいた。
そんな折、定期審問を12月の半ば、つまり約一ヶ月後に住まいである九道邸で行うという一報が入る。
銀牙は何も思わなかったかもしれない。だが、愛する母を殺した犯人について見向きもしなかった匡冥獄の遣いが来ると聞いた蒼牙が、冷静なままでいられるはずなどなかった。
その憤りは、彼の永久凍土のような冷たい心の中にありながらも、烈火の如く膨れ上がった。
オーサライズ・チューナーという大層な称号を持った調律者の連中が、母を見捨てた匡冥獄の駒であるならば、その非道を問い質し、実力行使で屠ってやろうと蒼牙は胸に誓った。
彼にとっては復讐よりもまず先に、調律者に物申すことが先決であったのだ。
「あぁ、母さん。ごめんね。こいつらに色々と聞きたいことがあるのに、気絶させちゃった。もう少し後で聞いてみるよ……じっくり嬲りながらね」
蒼牙は倒れた白亜に近寄り、艶やかな頬に指先で優しくなぞるように触れる。
指を離し、蒼牙は五指を揃えて大きく振りかぶる。そして容赦無く、白亜の頬に平手打ちを落とした。
「痛ッ……! な、に……?」
叩かれた肌から、甲高い音が静かに木霊する。その目の覚めるような衝撃を受けて、白く美しい頬はほのかに赤く染まった。
「ねぇ、起きてよ。君たちにはまだ聞きたいことがあるんだ」
「天……夜は?」
「あの黒い調律者さんなら、そこに寝てるよ。結構弱かったね。そんなことよりさ、起きて、早く。色々と聞きたいのさ」
「そんな、天夜が負けるなんて……」
絶句する白亜。
あれほどまでにアニムスを圧倒的な力で封じた天夜が、あっさりと敗北していたことが信じられなかった。それは、目の前にいる少年の力の強大さを物語っていた。
「ねぇ、ところで……そんな格好で恥ずかしくないの?」
蒼牙に言われ、白亜は自分の服に視線を落とすと、叩かれた左頬だけでなく、今度は両頬を赤らめた。
白に紺のラインが施されたスタイリッシュな上着がはだけ、黒い薄手のシャツが濡れて下着が丸見えになっている。恐らく先ほどの蒼牙の水柱攻撃のせいだろう。
タイトなミニスカートもすっかり濡れてしまい、白亜は両腕で肩を抱くようにして顔をしかめた。
「あ、あんたがやったんでしょっ!」
「そうだけどさぁ……とりあえず、君には色々と聞きたいから動かないでもらうよ」
白亜の自由を奪うために、蒼牙は彼女に手錠と足枷を付けた。一体何処から持ち出したというのか。
「な、何すんのよ!」
「うるさいな〜」
「はぁ……まあいいわよ。話って?」
「あぁ、何処から話そうかな」
蒼牙が言葉を紡ぎ出そうとしたその瞬間だった。何の前触れも無く、蒼牙の立つ大理石の床が粉々に破砕されたのだ。
咄嗟の反応により、蒼牙は不意を突いた奇襲にも動じることなく横っ跳びに回避し、すぐさま液体の防御壁をふたたび展開。
瓦礫の崩れるような派手な音に合わせて白い粉塵が舞い、その中から黒い影が飛んで現れた。
耳触りの良い靴音を鳴らして着地し、屹立するすらりと伸びた長身の男。針のような刀剣の銀がその手元で煌き、燕尾服の男は軽く裾の汚れを手で払う。
「まったく、九道蒼牙。あなたには失望しました。仮にも九道財閥の子息。良識ある方だと思っていましたが……今此処で、排除させていただきます」
ギリウスの濃紺の瞳が、ギラリと光った。剣尖を真っ直ぐ正面に構え、少し腰を落とす。四肢の力を抜き、隙と無駄の無い構えは、天夜の体術の構え同様に静かな威圧感があった。
「執事の人じゃあないか。どうやって出てきたんだい?」
床を壊そうにも、密度の高い特殊な液体の抵抗で、思うように攻撃はできなかったはずである。さらに、蒼牙はあの液体にたっぷりと天力を含ませていた。
身体に覇力を纏って液体の抵抗を無効化しようにも、覇力は天力のエネルギー量に押されて減衰され、分散されるから無意味のはずである。
そのことを思い出し、どうやってあの状況を打破されたというのか、少年は思考を巡らせる。
「この屋敷にはあなたのお兄様が使用されるパイプがあるのでしょう? あれを利用させていただきました」
「パイプ……だと?」
蒼牙は予想だにしなかった返答に眉をひそめた。対するギリウスはしたり顔で不敵に笑う。勝ちを確信した顔だった。濡れた髪を左右に振り、ギリウスは髪を手櫛で軽く梳かすと、レイピアを正中線の前で構える。
「ええ。あなたのお兄様が凶暴なペットをいつでも何処でも躾けられるようにと、屋敷全体に張り巡らせてあるという例の特殊合金のパイプです。あのパイプが何処に繋がっているのかは知りませんが、床下にも通っていましたよ。私はレイピアによって錐のような要領でいくつもの穴を開け、排水しました。晴れて自由の身となった私は、あなたの静かな声を聞き分け、位置を探り、奇襲を実行したのです」
「ナメるな……その程度で良い気になるなよ無能どもッ!」
激昂する蒼牙の手元から、白亜を下した、強力な推進力を有する水柱が発現した。
まるで極太のレーザー砲のような水柱が、ギリウスを襲う。蒼牙の力が元より危険なものであることを理解していたギリウスは、先手必勝と言わんばかりに踏み込んだ。
水柱攻撃を繰り出す時、蒼牙には約二秒ほどの溜めがある。水柱の攻撃速度など、天夜と同じく簡単に見切り、回避。そして一気に間合いを詰め、全体重を剣に乗せて渾身の一撃を突いた。
「くっ……!」
蒼牙の顔面を容赦無く狙った剣の軌道は、液体の防御壁など物ともせずに突き進み、彼の頬を掠めた。
「銃弾すら通さなかったこの液体を……やるじゃん。じゃあ、これならどうかな?」
僅かな驚愕の色を浮かべた蒼牙は、天力をレイピアの周りに集中させる。するとレイピアは液体の中で固定され、ギリウスは身じろぎもせず目を細めた。武器を手放すわけにもいかず、膠着状態となった。
そしてギリウスは、なるほど、と得心したようにつぶやいた。
「あなた、水圧も上げられるのですね。流石は液体の征乱者……では私も、そろそろ本気を出させていただいてよろしいですか?」
少年は戦慄した。
先ほどの剣捌きで、ギリウスはその辺のただの手練れなどよりも圧倒的な実力の持ち主であるとは蒼牙も思っていた。
だが、さらに驚いたのは今の言葉だ。
まだこの上があるというのか。それが本当ならば、このままでは脳や心臓を串刺しにされてしまうと、彼は生まれて初めて死を恐怖し、敗北を危惧した。
「凡人のハッタリなんて、僕には通用しないよ」
震えわななく声だが、蒼牙は毅然とした態度を崩さない。右に動かされた視線が、動揺をじわりと浮き彫りする。
「凡人? ハッタリ? フフフ、なかなか面白い冗談だ……」
哄笑するギリウスは、レイピアを更に前へ追い討ちをかけるように押し込むと、水圧の呪縛もそれをさせまいと一層水圧を高める。
だがギリウスは、突然何を思ったのか、蒼牙の脛を蹴ろうと脚を振るった。
――効かない。
這いずりながら見ていた白亜は直感する。ギリウスは一体何をしているのかと疑問符を生む。
銃弾やレイピアでさえ制止してしまう液体を、蹴りで破れるはずがないと。
だがその予想は裏切られた。本来水の抵抗によって邪魔されるはずの物理攻撃は、すんなりと通り、蒼牙の脚に直撃した。
「ぐぅっ!」
凄まじい威力の不意打ちに、液体の防御壁が瓦解する。すかさず蒼牙の腹部に同じく足裏で、鋭い追撃の蹴り込みが飛ぶ。よろめいた蒼牙の顔面に肘鉄を追撃で喰らわせる。続けて少年の襟を掴み、床に強引に投げ倒した。
「あなたの弱点は、至極単純です。一点集中で水圧を上げようとすると、それ以外の部分の守りが見た目以上に甘くなる。つまり、防御しようと天力を集中させた部分以外の抵抗や水圧がほぼゼロになってしまうようですね」
仰向けに倒れ、鼻血を垂れ流す蒼牙。嬲るようにしてギリウスはその腹に片脚を乗せ、体重をかけることで身動きを取れなくする。
「さて、そろそろくたばっていただきましょう。凡人だと思っていた相手に敗北する気分はいかがですか?」
「ナメやがって……凡人ごときが、この僕に勝ったつもりでいるなよ……」
「生憎、人間の範疇で凡人などというランク付けをされては困ります。何せ私、生まれた時より人ではないので」
「またまたハッタリかい? 君はつくづく面白いね。凡人のくせにさぁ~~!」
「その生意気な言葉、自分の今の状況をよく見てもう一度言ってみなさい」
ギリウスは手にしていたレイピアの剣先を真下に向け、蒼牙の手の甲に突き立てた。肉を貫通し、赤い血が這うように溢れてくる。
「ああああああああああ!! ……ハァ……ハァ……ッ……!」
「痛みに対する耐性が随分と低いようですね? たかが手を貫いただけです。骨を砕かれたり指を切り落とされるより幾分マシでしょう? その程度の精神力で、アニムスを引きずりだす際にショック死しないでくださいね?」
恵まれた環境で生きてきた蒼牙にとって、肉体的な痛みというものとは無縁だった。延いては、彼の能力である液体の絶対防御が、痛みを隔絶された存在たらしめていたのだろう。
「あなたは実戦経験が少ないようだ。せいぜいその辺のチンピラ風情を屠ったことぐらいしか無いのでしょう。ですが私たちは、こと戦闘においてはプロだ。いくら征乱者と言えど、私に勝てる道理など何処にも存在しない」
さらに容赦無く刃を食い込ませ、円を描くように剣を回すことで、皮膚を裂くようにしてめりめりと傷口を拡げる。
そのたびにみっともない悲鳴を上げ、呼吸と心拍を蒼牙は荒げ立てる。
「それに、あなたはまだ幼い。所詮は尻の青い子供だ。敗北を喫してしまった天夜には、少々ガッカリせざるを得ませんがね」
ギリウスがそう吐き捨てると、喚き悶絶していた蒼牙が突如ピタリと沈黙した。まるで夕立の豪雨が過ぎ去った空のように、黙り込んでしまった。
恐ろしいほどの沈黙。ほどなくして、蒼牙は沈黙を破る。
「……やっぱり君は所詮凡人さ。ガッカリしたのは僕の方だ。僕の手に剣なんかを突き立てた時点で、君の負けは確定した」
掠れ声で蒼牙が呟く。
共鳴するようにして、刺された彼の右手が疼き、蠢いた。
何か仕掛けてくると感づいたギリウスは、すぐにレイピアを蒼牙の手から引き抜こうと柄を引っ張る。
しかし、堅く固定され、押さえつけられたかのように、レイピアをいくら動かしても、うんともすんとも言わないのだ。目を細め、ギリウスは滑らかな光沢を放つレイピアの刃部に焦点を合わせる。
「僕が“液体の征乱者”だってこと、まさかもう忘れたのかい?」
ギリウスの視界に飛び込んだのは、一筋の赤い糸だった。レイピアに絡み付くようにして、螺旋状に赤い糸がぐるぐると巻き付いていたのだ。
だがよく見ると、それは糸などではなかった。血液だ。
蒼牙の貫かれた手から溢れた血が、渦を巻いてレイピアにまとわりついている。
血の螺旋は柄まで到達するとメキメキと耳障りな音を出し始めた。細身の針のような剣は、血の糸の締め付けによって呆気なく幾つもの山と谷を形成し、いと容易くひしゃげてしまった。
赤い螺旋の行進はレイピアをぐしゃぐしゃに折るだけに止まらず、ギリウスの腕まで這い上がってきた。
武器が使い物にならなくなっただけではない。何か、目覚めさせてはいけないものを呼び起こしてしまったようだ。危険を察知したギリウスはすぐに手を離して後退し、間合いを目測で測る。
蒼牙は無惨な有様になったレイピアを右手から抜き、手にしたまま立ち上がった。
「天力は血液を通して循環している。血液だって液体さ。しかも天力の伝導率は抜群に良い。そんな血液が自由自在ということは、血は僕にとって“最強の矛”となりうる!」
目を見開き、勝利を確信した蒼牙は、何を思ったのかレイピアの剣尖だった部分を自らの左手に刺し始めた。
何度も何度も、ぐしゃぐしゃと刺しまくり、手は傷で穴だらけになる。剣を持ち替えると、今度は右手にも穴を穿つ。
こちらも左手同様に、十数箇所もの傷を自ら創り上げた。
自傷行為をしている間、悲痛な歓喜の声をあげていた蒼牙は、まるで群れの頂点に立ち、勝鬨の咆哮を唸らせる獣であった。
痛みのあまり気でも狂ったのかと、ギリウスが無声でたじろぐ。倒れ、拘束されたまま傍観せざるをえない白亜も、身の毛もよだつ恐怖を感じ、寒気が身体の芯を通り抜けていった。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははは!! 痛み! そう、痛みだ! 僕には痛みが足りなかったのさ!!」
「……一体、何をしようと」
「言ったろォ? “最強の矛”だってさ。今までは液体防御による“最強の盾”ばかりだったけど、ここからは少し趣向を変えようか! 出来ればこの技はあまり使いたくなかったけど、僕に本気を出させるなんて、君は相当だよ!!」
天力を全力で解放した蒼牙の両手が、青白い光に包まれ、辺りを照らす。
するとその両手からは、何本もの赤い糸が現れた。どれも液体のままの血液だが、これの何処が危険なのかなど、皆目見当もつかない。
「ふんっ……最強の盾? 随分と笑わせてくれるじゃありませんか。あなたのジョークはつくづく面白い。あの程度で最強の盾と言うのなら、その最強の矛とやらもたかが知れているのでしょうねぇ」
「泣きごと言っても知らないよ!!」
「寝言は寝てから言いなさい!!」
互いに皮肉を吐き捨てると、二人はほぼ同時に動き出した。
ギリウスはインテリアとして置かれていた陶芸品の水瓶の口を掴み、蒼牙目掛けて投げつける。様子見の攻撃だが、レイピアが使えなくなった以上、牽制しながら策を講じなければならない。
「無駄だねッ!」
水瓶へと走り寄り、蒼牙は右手を横薙ぎに払う。それに続き、紅が尾を引いて空間を舞った。
――いや、切り裂いた。
陶磁器としての硬度など無視し、細切れに刻まれた水瓶は、パラパラと静かに散った。切断面は全く粗が無く、滑らかで、通常の刃物の切れ味など比にならないことを物語っている。
その意外な威力に、ギリウスは目を見張った。今の一瞬、何が起きたのかと。だが考える間も無く、蒼牙は距離を詰めてギリウスを先ほどの水瓶のように引き裂かんとする。
身体を捻り、幾筋もの紅い閃光を紙一重で躱すも、相手の攻撃は両手。すぐに第二波が訪れる。躱しきれなかった分が、ギリウスの身体に生傷を彫り込む。
そのたびにギリウスの燕尾服は切り裂かれ、素肌から血が溢れ出す。致命傷だけは避けようとギリウスも必死の回避を見せるが、食らいついてくる刃の群れは、喉元や動脈などの神経をもろに狙っていた。
少し挙動が遅れれば、バラバラにされてあの世送りだ。規則など知ったことかというほどの、おぞましい気迫と殺意がギリウスを追い詰める。
しかし、途端に猛攻はピタリとやんだ。蒼牙が小休止のつもりなのか、余裕の表情で血の糸を見つめる。
「イメージしていた通りだ……やはり使える。この技を使うのは初めてだけど、僕の理論通り上手く使いこなせた。教えてあげよう。これはね――」
「いえ、当ててみせましょう。その技は水圧カッターと同じ原理だ。極細の穴から超高水圧で噴出される水は、鋼鉄すらも切り刻む。それと同様に、機械などでも出せぬほどの亜音速で血液を噴射させつつ、チェーンソーの刃の如く循環させることで、血液の刃を生み出した……そういうことですね?」
「ご名答だ。素晴らしいじゃないか。その高速さゆえに体組織が崩壊しないよう、微調整が必要だけどね。天才の僕にはこの程度の芸当、他愛もない」
「確かに恐ろしい破壊力だ。だが、実に脆弱。そんなことにも気付かぬとは、哀れですね」
「はぁ?」
頬から血が滴るギリウスは、とめどなく溢れるそれらを手の甲で拭うと、艶かしく舌を這わせて舐め取った。
「さぁ、来なさい。ここからが調律者である私の本領だ」




