深海魚
書いてから気が付きました。
この話、深海魚あまり関係ないみたいです。
人の意識というものの、深い、深い奥底には、深層心理、すなわち無意識という領域が存在していて、この無意識という世界はあまりに深く厚く広大無辺であり、表層化した個々の意識とは異なり、遍く万人の無意識は境なく全て繋がっている。
と、どこかの国の、心理学者だか宗教家だかが言っていた覚えがある。
それならば、と私は思った。
人というものは、無意識という広大な海に漂う、一匹の深海魚なのではないだろうか、と。
それなら、もしもそんなことが本当であるとしたら。
私は、深く深く眠ったままの、そしてもう目を覚まさないかもしれない彼の、その無意識と、繋がることもできるのではないか、と。
そんなことを、ちらりと思った。
彼が交通事故にあったのは、大体今から一年前になる。一命こそ取り留めた彼だったけれど、それからもうずっと、彼は目を覚まさない。
彼と出会ってから、今年で九年ほどになる。そして、私たちが付き合い始めてから、今年で三年目。
初めて出会ってからこんなに経つのに、彼と恋仲になってから過ごした彼との時間は、あまりにも短い。
やっと一緒になれたのに、また離れてしまった。しかも今度は、どうしようもなく遠く。
彼は目を、覚まさない。
彼の声をもう一度聞きたい。彼の笑顔をもう一度見たい。彼の瞳をもう一度見つめたい。彼にもう一度手を繋いでほしい。彼ともう一度歩きたい。彼ともう一度、一緒に。
話し合い、笑い合い、泣き合い、傷つけ合って。
一緒に歩き、一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に怒り、同じものを見て、同じ音を聴いて、違うことを思い、違うことを感じ、ずっと一緒に、同じで違う。
彼と同じ世界に生きて、彼と同じ空を見上げて。
彼と心を、繋ぎたい。
そんな一心で、私は目を閉じたまま動かない彼の手を取り目を閉じた。
揺らぎもない、濃くて深い紺色の中を漂っていた。息を吐くと泡になってどこかへ浮かんでいった。
見渡すと、真っ暗なのに遠くまでよく見えた。上も下もわからないけれど。
ふと、遠くに何かが見えた。ああ、何かというのは少し違う。私は見つけた途端に、そこへ向けて泳ぎだしていたのだから。
届いて。間に合って。私はもう、失いたくない。
私はあなたと一緒にいたい。
目を閉じて、眠っているかのように漂っている彼の前まで泳ぎつく。
私の口からはたくさん泡が吐き出される。音なんて全くしないのだけれど、その泡に起こされるようにして彼の瞼が震えて、彼はゆっくりと、うっすらと目を開いた。彼の口からは、全く泡なんて漏れ出さない。
彼の瞳が私を映した。何をしているの?私の言葉は言葉にならず泡になった。
でも彼はうっすらと、弱々しく微笑んだ。
息が、できないんだ。
どうして?
わからないけど、でもきっと、ずっとここにいるからだと思う。
ここから出られないの?
彼は困ったような笑顔を見せる。
出られないのか、出たくないのかもわからないんだ。
出たくないの?
わからない。
彼は首を振り、でもきっぱりと、
でも、出なきゃいけないような気がする。誰かが待ってるってことだけはわかる。だから・・・・うん、出なきゃいけないね。
どうやったら出られるかな。
・・・・息が、したいな。
息?
うん。もう長いことしてない。ここじゃあ息ができなくてさ。
ここから出たらまた息ができるようになるかな。
わからないよ。息ができなきゃ出られないかもしれない。
そう。それなら。
私は頷いた。
それなら、私の息あげる。
私は笑った。
君に、目を覚ましてほしいんだ。
私は彼の両頬に手を添えて、そして、
何かが落ちる音で、私は目を開けた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目をこすりながら振り返ると、看護師さんが落とした診察用具もそのままに病室を駆け出すところだった。廊下は走ったらダメなのに。落としたものもそのままで、おまけに大声まで上げている。先生を、つまりお医者さんを呼んでいるみたいだ。
寝起きの働かない頭でぼんやり思っていると、不意に私の握っていた彼の手が外れた。驚いて振り返る前に、そっと私の頭に手が載った。私は固まった。
今この病室には、私の他には一人しかいない。私の頭を優しく撫でてくれるその手の主を確かめるため、私はゆっくりと振り返った。
身体は起こすことができないままながら、彼が重たげに開いた瞳でこちらを見ていた。
私はとっさに反応できなかった。茫然としたまま、私の頭を撫でてくれる彼を見つめていると、彼はやがて微笑んだ。
ありがとう、と彼の口が動いた。その言葉は泡にこそならないけれど、確かに吐息になっていた。
やっと現実を呑み込めてきた私は、やがて目から、心から何かがあふれだすのを感じ、そして私は、
そして、私は。