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犬色の空

川沿いの道を歩いていた。

さっきまで雨が降っていたから、アスファルトの地面は湿って黒くなり、ガードレールの向こう側の川の流れはいつもより速くなっている。

空はどんよりとしていて、雲の天井が無気力に蠢いていた。

春が近付いているとはいえ、まだまだ寒く、首や顔など僅かに露出した部分を冷たい空気が刺す。


昨日、犬が死んだ。

僕が小学生になったときにウチに来たから、かれこれ十年以上生きていたことになる。

「僕が世話するから」なんて約束したのは遠い昔の事で、最近はかまってやれた記憶もほとんど無い。

ワイマラナーとかいう灰色の犬種だった。

小さい時分は可愛かったのだが、最近では一番溺愛していた母も世話が面倒に感じてきたらしく、よく「あの馬鹿犬は」などと悪態をつかれていた。

とはいえ嫌っているという訳でもなく、「おチビさん」みたいな感じで親しみを込めて馬鹿にされていたわけだが。


そう、なんだかんだ言っても愛されていたのだ。

だというのに、アイツが死んだとき、僕は涙の一粒も流せなかった。

もう高校生だし、そんな年頃じゃないから当然かもしれない。

それでもアイツの呼吸音がおかしかったおとといでは、少しくらいは悲しい気持ちになるだろうと思っていた。

でも実際は、何の感慨もわかなかった。


「はぁ……」


ため息をつくと、白い煙になって辺りに消えた。

何も悲しめなかった事が悲しい。

学校から帰ってくると、アイツは家で死んでいた。

親が獣医に見せに行ったが、もう手遅れだから家で看取ることにしたそうだ。

元々兆候はあったから、それを知った時は「ああ、やっぱりな」というのが第一印象だった。

死体に触ってみたときも、死後硬直って本当にあるんだなと思ったくらいで、喪失の重みを実感するようなことはなく、ただただ人形みたいに感じた。


しょっちゅう映画やアニメで泣いているから、自分は感情的な人間だと思っていたけど、実際はこんな様子な所を見ると、案外僕は薄情な人間だったらしい。

昔は公園を一緒に駆けて遊んだり、夏には簡易なプールに入ったりとか、決して思い入れが無かった訳ではないのにだ。

妙にさみしがり屋で、祖母に預けて旅行に行ったりなんかすると、帰ってきたら小便を漏らすほどに喜んだりする奴だった。

そういえばアクシデントだったとはいえ、ファーストキスの相手もあの犬だった気がする。

というように沢山の思い出があるにも拘らず、僕は涙一つ流してやれない。


何か悲しくなるだろうか、と昔はよく通っていた散歩コースを歩いてみているのだが、やっぱり心情に変化は無い。

わざと感傷に浸ってみようとしても、自分の感情に嘘をつくのは難しかった。

胸にあるのは何も感じられないこの状況への、漠然とした不安だ。



ざりざりざりざり



普段から人気も無い道の上、雨上がりの直後なので自分の足音、それと水の流れるの音だけしか聞こえない。

多分僕は、何も感じれなかった事を気にしているだけでは無いのだろう。

この調子で、家族や仲の良い友人が死んだ時も、同じように悲しめないかもしれないのが怖いのだ。

挙句の果てに「明日から自分の教室内のポジションが狭まったな」とだけしか思えなかったら、余計に自分が嫌いになる。

他の人も実際はそんなものだったりするのだろうか。


「あ」


ほとんど口の中で転がすようにして、声が漏れる。

向こう側から女の子一人と柴犬一匹が近付いてきた。

彼女は犬を散歩しているつもりなんだろうけど、逆に犬が女の子を引きずっているようにしか見えなかった。

すれ違うまであと三歩、という所まで近づく。

すると犬は僕の前に立ちふさがって座り込み、何を考えているのか分からない瞳でこちらを見上げた。

綺麗な光沢を持っているのに、吸い込まれそうな暗くて黒い目。

それに映るのは怒りとも、悲しみとも、喜びとも、僕の解釈次第で好きなように取ることができる。


「あ、あれ?」


女の子がリードを引いて歩かせようとするが、犬の方は全くの不動で、知らんぷりで僕を見つめ続ける。

僕はしゃがんで、犬と同じ目線になって、ゆっくりと手を伸ばして彼を撫でた。

犬は少し嫌そうな顔をした後、黙って撫でられ続けている。

感触こそ違うものの、手のひらから伝わる温かみは、あいつから感じられたものと同じだった。


「あの……えと……」


飼い主の女の子は何を言っていいのかわからず、その場でうろたえている。

僕は手を彼から離して、その代わりに人工の宝石のようにまっ黒な彼の目を見た。

何かを言いたいのかもしれないが、生憎僕に犬語はわからなかった。

けれど、何らかの意図をもって彼が立ち止ったことだけはわかる。

そうしている内に、自分の中にこのもやもやとした感情がなんなのかを理解した。

しばらくの間、奇妙な沈黙を保って一人と一匹は見つめ合った後、僕は彼女に目線を緩やかに移して、ほんの少し微笑んで言った。


「大切にしてあげてね」


「え……は、はいっ」


良い子だな。

僕はゆるりと腰をあげて歩き始めた。

向こうは変な人だな、と思ったかもしれないが、そうだったとしても今は余り気にならない。

気配で二人が歩き始めたのを背中で感じた。


やっぱり涙を流したりはしないけど、そういえばアイツをあの女の子のように散歩してあげたのは何年も前だったな、ということを思い出した。

もう少しだけ遊んだり、世話したり、触れ合ったりすれば良かった。

悲しさの代わりに、後悔が確かな重みを持って腹の中に鎮座している。

けど僕は、その事がわかったのが嬉しかった。

きっとこれからの他の人との出会いの中で、その後悔を役立てられるかもしれないからだろう。


「お」


急に視界が明るくなったのを感じ、立ち止まって空を見上げる。

雲の切れ間から光が幾筋も差し込んでいた。

湿り気を帯びた風が、何だか今は心地よかった。






小説は経験がものをいう、というような事をたまに聞くので、自分の経験を元に書いてみました。

おんなじ気持ちを感じた人がいないかなー、と思いながら書いてます。

誤字脱字報告、批評や感想など、どんな些細なことでもいいのでコメントをいただたら嬉しいです。

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