老舗醸造屋の秘密〜味噌と焼き菓子と時々あやかしの昔話〜
創業300年のある老舗醸造屋には秘密がある。
それは、座敷童子ならぬ座敷妖狐がなぜか代々当主にだけ見えることだ。
当主の佐倉栄治は今日も足元にまとわりつく真っ白な塊に苦笑していた。
栄治の膝の高さほどあるその妖狐・琥珀は、真っ白な毛並みを揺らし、長い尻尾をパタパタと板間に打ち付けている。
「栄治、今日の麹の香りは一段と甘いのう。 これは良い出来じゃ」
そう言って琥珀は栄治の膝の上にちょこんと乗り、期待に満ちた瞳で見上げる。
この姿を見せられては蔵仕事の合間のお楽しみを抜くわけにはいかない。
「わかってるよ。 ほら、今日のは自信作だ」
栄治が懐から取り出したのは店の味噌を隠し味に使った特製の焼き菓子。 それを差し出すと琥珀は嬉しそうに目を細め、小さな鼻をひくつかせた。
「んん、美味い」
琥珀が尻尾を振ってそれを食べると、なぜかその年の仕込みは神がかり的な旨さになる。
夜。
栄治の一日の終わりの楽しみが琥珀の話を聞くこと。
「あれは100年ほど前じゃったか……若い歌人がこの蔵を訪れての。 言葉が枯れたと嘆いておったが、わしが少しばかり蔵の香りをその者に吹きかけてやったのじゃ。すると翌朝にはまるで泉が湧くように美しい歌を書き上げたのじゃ」
琥珀は遠い目をしながらふさふさの尻尾を自慢げに揺らした。
「栄治、お主も最近同じような顔をしておるぞ。 新しい味噌のことで頭がガチガチになっておるのではないか?」
図星だった。 栄治は数ヶ月前から、伝統の味を守りつつも若い世代にも親しまれる新しい看板メニューの開発に行き詰まっていたのだ。 あれこれと計算して材料を足してはどこか納得のいかない味に悩み、筆が進まない歌人のように立ち止まっていた。
「……わかるか琥珀。 伝統を壊したくないけれど何かを変えないといけない。 それが難しくて」
琥珀は栄治の膝の上でくるりと丸まると、金色の瞳でじっと栄治を見つめた。
「案ずるな。 発酵も物語も無理に急かしては良い味にはならぬ。 お主のその特製菓子のようにな、お主自身が楽しいと思う遊び心が蔵の菌たちにも伝わるもんじゃ」
琥珀が栄治の手に冷たい鼻先を押し当てる。
その瞬間、不思議と肩の力が抜けた。
「遊び心、か。 そうだな。 まずは琥珀がもっと驚くようなとっておきのおやつを考えるところから始めてみるよ」
栄治が笑うと琥珀は満足げにくぅと喉を鳴らした。
「発酵を怠ってはならんぞ」と言い、そのまま栄治の膝で心地よさそうに丸まり静かな寝息を立て始めた。
蔵の奥からは新しい命が育つようなパチリ、パチリという小さな音が月夜の静寂に優しく響いている。
明日にはきっと、蔵中を驚かせるような甘くて香ばしいアイデアが芽吹いているはずだ。




