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第1話 定休日の客

旧湯ノ沢村は、長野県の山の奥にある。

最寄り駅は新幹線の止まる佐久平駅だが、そこから車で30分。微妙に遠い。観光地としては不利な距離で、都会から来る客は「意外と遠い」と言い、地元の人間は「案外近い」と言う。どちらも半分正しい。

村の入口に、古びた看板がある。

「ようこそ 湯ノ沢温泉へ」

その下に、小さく

旧湯ノ沢村

と書かれている。

平成の大合併で、村は消えた。行政上は今は市の一部だ。それでも村の人間は、今でもここを「村」と呼ぶ。

その中心にあるのが、温泉施設。

白樺の湯。

第三セクターが運営する、村唯一の観光施設だ。

その日、白樺の湯は定休日だった。

入り口には張り紙がある。

本日定休日

だが、午後二時過ぎ。

一台の軽自動車が駐車場に入ってきた。

降りてきた男は、三十代半ば。

コート姿で、少し疲れた顔をしている。

湯沢慎一郎。

つい3日前、この村に引っ越してきたばかりだった。

彼は入口の暖簾をくぐる。

誰もいない。

フロントも静まり返っている。

湯沢は辺りを見回す。

「……空いてるな」

静かなのは平日の昼だからだろう、と勝手に納得した。

そもそも彼は、細かいことをあまり気にしない性格だった。

脱衣所へ入る。

やはり誰もいない。

壁に張り紙がある。

本日定休日

湯沢はそれをちらっと見る。

だが、なぜかそのまま通り過ぎた。

気づかなかったのか、気づかないふりをしたのか、自分でもよくわかっていない。

浴室の扉を開ける。

湯気が立ち込めていた。

木の梁の高い天井。

石造りの浴槽。

大きな窓の向こうには、まだ雪の残る山。

湯沢は思わず声を漏らした。

「……これは、いい」

服を脱ぎ、湯に浸かる。

肩まで沈む。

「はぁぁ……」

全身の力が抜けた。

東京を出て、3日。

色々ありすぎて、頭がまだ整理できていない。

温泉の熱が、ゆっくり体に染みていく。

湯沢は天井を見上げた。

「村っていいな……」

そのとき。

ガラッ。

浴室の扉が開いた。

湯沢は振り向く。

入ってきたのは、女だった。

ビキニ姿。

手にはデッキブラシ。

湯沢は固まった。

女も固まった。

数秒、沈黙。

先に口を開いたのは、若い女だった。

「……なんでいるんですか」

湯沢は反射的に言う。

「すみません」

女は壁を指さした。

張り紙。

本日定休日

湯沢はそれを見て、初めて理解した。

「あ」

女は腕を組む。

「読めません?」

湯沢は言葉に詰まる。

「いや、その……」

「日本語ですよ」

湯沢は湯の中で小さく頷いた。

女は気にした様子もなく、浴室に入ってくる。

ビキニのまま。

湯沢は思わず言った。

「ここ男湯ですよ」

女は答える。

「掃除担当です」

「……そういう問題じゃ」

「もう入ってるなら別にいいです」

湯沢は驚く。

「いいんだ」

女はホースを掴む。

蛇口をひねる。

ザァァァァ。

冷たい水が勢いよく出た。

湯沢にかかった。

「冷たい!」

女は平然と言う。

「邪魔なんで」

「客ですよ」

「定休日です」

湯沢は黙った。

完全に負けている。

女は床をブラシでこすり始めた。

ゴシゴシと音が響く。

しばらくして、彼女が言った。

「引っ越してきた人ですよね」

湯沢は驚く。

「え?」

「古民家の」

「なんで知ってる」

女は肩をすくめる。

「村、狭いんで他所者よそものについて早く情報が回るんですよ」

確かにそうだろう。

引っ越して3日で、スーパーの店員にまで顔を覚えられていた。

湯沢は湯に浸かったまま聞いた。

「毎週ここ掃除してるの?」

「はい」

「ビキニで?」

女は真顔で言う。

「濡れてもいい服」

「合理的だ」

「あと」

女はブラシを止めた。

湯沢を見る。

「男がいても動きやすい」

湯沢は少し考えた。

「そういう意味か」

沈黙。

湯気がゆっくり流れる。

女はふと聞いた。

「ところで」

「はい」

「無職ですよね」

湯沢は眉をひそめる。

「言い方」

女はあっさり言う。

「ちょうどいいです」

「何が」

女はデッキブラシを肩に担いだ。

「温泉の支配人やってください」

湯沢は目を瞬いた。

「え?」

女は名乗った。

「箕輪さやか」

「ここの従業員」

湯沢は言った。

「湯沢慎一郎」

「温泉に入ってる人」

箕輪は少し笑った。

「知ってます」

「どうして」

「村、狭いんで」

そして彼女は、あっさり言った。

「温泉、潰れそうなんですよ」

湯沢は湯船の中で、静かに瞬きをした。

それが、すべての始まりだった。

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