第10話:勇者襲来、「俺が悪かった、戻ってこい」
魔猪の群れから村を守り抜いた翌朝。私たちのログハウスは、いつものように甘く平和な朝食の時間を迎えていた。
「さぁ、アリスさん。今日も私が特製スープをふぅふぅしてあげましたよ。あーん、です」
「ええと、ルミア様。私、猫舌じゃないですし、自分のスプーンが……」
「あー、ん。です(威圧)」
「……あむ」
今日も今日とて、ルミア様からの過剰なスキンシップ(という名の餌付け)が行われている。向かいの席では、ミオが昨日討伐した魔猪の極厚ステーキを、朝から嬉しそうに頬張っていた。
「んふぅ〜! お姉ちゃんのお肉、最高! 毎日これ食べたい!」
「ふふ、いっぱい食べてね。でも野菜もちゃんと残さず食べるんだよ」
「はーい!」
窓から差し込む朝日は暖かく、村の空気は澄み切っている。ああ、今日も平和な一日が始まる——そう思っていた、その時だった。
ドンドン! バンバンバンッ!!
突然、ログハウスの頑丈なオーク材の扉が、壊れんばかりの勢いで乱暴に叩かれた。
「おい! 開けろアリス! お前がここにいるのは分かってんだよ!!」
「えっ……?」その声を聞いた瞬間、私の心臓がドクンと跳ねた。背筋を冷たい汗が伝う。聞き間違えるはずがない。王都のギルドで、私を「無能」と罵り、冷酷に切り捨てたあの男の声だ。
「ガ、ガイル……さん?」
「お姉ちゃん、知り合い? なんだか外から、すっごく嫌な臭いと、嫌な感じがする……」
ミオが犬耳をピーンと立て、警戒するように低い唸り声を上げた。私は震える手で杖を握りしめ、ゆっくりと玄関へ向かう。その後ろを、ルミア様が一切の足音を立てずに、すーっと影のようについてきていることに、この時の私は気づいていなかった。
ガチャリ、と重い扉を開ける。そこに立っていたのは、とても「次期Sランクパーティー」とは思えない、信じられないほどボロボロの姿をしたガイルと、魔法使いのリアだった。
高価なミスリルの鎧は泥とゴブリンの返り血で汚れ、リアのローブもところどころ破けている。二人の目の下には濃いクマができ、何日もまともに休んでいないことは明白だった。
「ガイルさん……それにリアちゃんも。どうして、こんな辺境に……」
「ふんっ! 探したぜ、アリス。こんな立派な家に隠れ住んでたとはな。どうせ、俺たちから巻き上げた金で作ったんだろうが!」ガイルは私の顔を見るなり、鼻を鳴らして傲慢な態度で言い放った。
「え? 巻き上げたお金って……私、ギルドの報酬すら最後の月はもらわずに追い出されましたけど……。それにこの家は、私の生活魔法で直しただけで……」
「言い訳はいい! 全く、お前は本当に底意地の悪い女だ。自分が追放されたからって、俺たちに『弱体化の呪い』をかけて出て行くとはな!」
「……はい?」私は目を瞬かせた。弱体化の呪い?そんなもの、付与術師の私に使えるはずがないし、そもそもかける理由がない。
「とぼけるな! お前がいなくなってから、俺の体は鉛みたいに重いし、リアの魔法はマッチの火みたいになっちまった! どんな陰湿な呪いをかけやがった!」
「あ、あのね、ガイルさん。それは呪いじゃなくて、私がかけていた『身体能力五倍化』や『魔力消費9割減』のバフが切れただけで——」
「うるさい! 俺の才能を嫉妬したお前の呪いに決まってるだろうが!!」ガイルは血走った目で私を睨みつけ、一歩ずかずかと家の中に踏み込んできた。その威圧的な態度に、かつてパーティーで毎日怒鳴られていた記憶がフラッシュバックし、私は思わずビクッと肩をすくめて後ずさってしまった。
「ひっ……」
「お前もこの辺境で、自分の愚かさを反省した頃だろう。俺は心が広いからな。今回だけは特別に許してやる。今すぐ呪いを解いて、俺たちのパーティーに戻ってこい。一生タダ働きで、俺たちに都合のいい魔法だけをかけ続けさせてやる!」
ガイルが、ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべて私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた——その瞬間。
「ウゥゥゥ……ワンッ!! ガルルルッ!!」
「痛ぇっ! なんだこの獣のガキは!?」
私の前に飛び出したミオが、ガイルの伸ばした手に鋭い牙で噛み付いた。「ミオちゃん!」
「お姉ちゃんに触るな! お前、すっごく臭い! 心の中が泥水みたいにドロドロの臭いがする!! お姉ちゃんはあたしとルミアお姉ちゃんの家族だ、お前なんかについて行かない!!」
ミオはガイルを威嚇しながら、小さな体で私を庇うように両手を広げた。
「チッ、なんだこの薄汚い獣人は。アリスの野良犬か? ……どけっ!」ガイルが苛立ち、腰に差した長剣(かつては軽々と振るっていたが、今は重くて抜くのすら遅い)に手をかけた時だった。
「——その薄汚い手を、私のアリスさんに向けないでいただけますか」
空気が、凍りついた。いや、比喩ではない。本当に、ログハウスの玄関周辺の気温が一気に氷点下まで下がったかのような錯覚を覚えた。私の背後から、純白の法衣を揺らしながら、ルミア様が静かに進み出た。
「ル、ルミア……! よかった、無事だったか!」ガイルはルミア様の姿を見るなり、パァッと顔を輝かせた。
「この陰湿な女の洗脳魔法に操られて、無理やり連れ去られたんだろ? 大丈夫だ、俺が迎えに来てやったぞ! さぁ、早く俺に極位ヒールをかけて、この疲労を癒してくれ!」
ガイルの言葉に、ルミア様は答えない。ただ、その完璧な美貌に、慈愛に満ちた「聖女の微笑み」を浮かべたまま、ゆっくりと、ゆっくりとガイルの顔を見つめていた。
「……あの、ルミア様?」
私が不安になって声をかけると、ルミア様は私の前にすっと立ち、私を自分の背中の後ろに完全に隠した。
「見ないでください、アリスさん。あなたの美しい瞳が、直視するのもおぞましい『生ゴミ』のせいで腐ってしまいますから」
「……え?」ガイルの顔が、ピクリと引きつった。「ルミア……? お前、今、なんて……」
ルミア様は、ガイルの言葉を完全に無視して、氷のような、そして地獄の底から響いてくるような、低く冷酷な声で紡いだ。
「私が残した手紙が読めなかったのですか? 脳まで筋肉でできている単細胞とはいえ、人間の言葉すら理解できないとは思いませんでした」
「な、なにを……」
「アリスさんは、私の光であり、私のすべてです。そのアリスさんを『無能』と嘲笑い、あまつさえ今、再び彼女の心に土足で踏み入ろうとした。……その罪がどれほど重いか、その空っぽの頭で理解できますか?」
ゴゴゴゴゴゴゴ……!!
ルミア様の足元から、神聖魔法とは思えないほどの黒い魔力が、嵐のように渦を巻き始めた。圧倒的なプレッシャーの前に、ガイルもリアも、顔面を蒼白にしてへたり込んだ。
「あ、ル、ルミア……お前、洗脳されてるんじゃ……」
「洗脳?」ルミア様は、この世のすべての蔑視を込めたような目で、ガイルを見下ろした。「笑わせないでください。私は正気です。正気のまま——お前たちという存在を、この世から物理的に『浄化』すると決めたのですよ」
完璧聖女の、被っていた「清楚の皮」が完全に剥がれ落ちた瞬間だった。彼女の背後に、天使の羽ではなく、黒い堕天使の羽が幻視できそうなほどの殺気が、勇者パーティーを飲み込もうとしていた。




