第9章 コンクリートの正義
ダムの堤体の上を歩く。風が強く、ミズハの長い髪が舞い上がる。
「地理学には環境決定論と可能論という二つの考え方がある」
ケイの青空教室が始まった。彼は欄干から遥か下の放流ゲートを見下ろしながら語る。
「環境決定論は、自然環境が人間の生活や文化を決定づけるという考えだ。暑い国では人は情熱的になり、寒い国では忍耐強くなる、といった具合にな。かつて、人間は自然に対して無力だった」
「当然よ。自然こそが主なんだから」
「だが、近代以降、人間はテクノロジーで自然を克服しようとした。自然は人間に可能性を与え、人間はその中から選択し、環境を作り変えることができる。これが可能論だ。このダムは、まさに可能論の極致だ」
ケイはコンクリートの壁を叩いた。硬く、冷たい音が響く。
「でもな、ミズハ。最近の地理学は、また揺り戻しが来ている。人間がいくら自然をコントロールしようとしても、結局は『アンスロポセン(人新世)』という新たな地質年代区分が必要なほど、僕たちは地球を壊してしまった。だから今は、『自然との共生』じゃなくて、『破局的な自然災害といかに付き合うか』という生存戦略のフェーズに入っている」
「それが、あんたのやっている研究?」
「そうだ。完全に防ぐことはできない。だから、いかに被害を減らし、いかに早く復旧するか。**レジリエンス(回復力)**の設計だ」
その時、ダムの管理事務所の方からサイレンが鳴り響いた。放流の合図だ。「見るぞ、ミズハ。人間が作った人工の滝を」
ゴゴゴゴ……という地鳴りと共に、ゲートが開いた。白濁した水流が、凄まじい勢いで虚空へと吐き出される。その轟音は会話を不可能にするほどだった。水飛沫が霧となって舞い上がり、虹を作る。
「……!」
ミズハは目を見開いた。それは「死んだ水」
ではなかった。ゲートから解き放たれた瞬間、水は歓喜の声を上げているように見えた。重力に身を任せ、岩を打ち、飛沫を上げ、再び「川」
へと戻っていく。
(水は、許している)
ミズハは直感した。堰き止められようと、閉じ込められようと、水そのものの本質は変わらない。隙間があれば流れ出し、器があれば形を変える。コンクリートの檻の中でも、水は虎視眈々と海へ還る夢を見続けているのだ。
「……悪くないわ」
ミズハは轟音の中で呟いた。
「このダムも、一つの巨大な『器』だと思えば。人間なりの、必死な雨乞いの形なのかもしれないわね」
ケイは彼女の言葉が聞こえなかったようだが、その横顔が少し和らいだのを見て取ったのか、満足げに頷いた。




