第8章 水源地への旅
都市の空気が灰色であるのに対し、山の空気は緑色をしている。少なくとも、ミズハの目にはそう映っていた。
「窓、開けてもいい?」
「駄目だ。高速道路だぞ。風圧で首が飛ぶ」
「……ケチ」
助手席のミズハは頬を膨らませ、ガラスに額を押し付けた。ケイが運転する軽自動車は、中央自動車道を西へと走っていた。目的地は東京の水瓶、奥多摩方面にある巨大ダムだ。ミズハの魔力回復と、より広域的な「水のネットワーク」
を理解させるためのフィールドワークである。
「そろそろ**分水界(Watershed)**を超えるぞ」
ケイがハンドルを握りながら言った。
「ブンスイカイ?」
「雨が降ったとき、水が東の海へ流れるか、西の海へ流れるかの境界線だ。尾根筋がその役割を果たすことが多い。人生の岐路みたいなもんだ」
トンネルを抜けると、景色が一変した。ビル群は姿を消し、深いV字谷が連続する山岳地帯が現れる。眼下には、都市部ではドブ川のようだった川が、ここではエメラルドグリーンの輝きを放って流れている。
「綺麗……水が生きているわ」
「ここはまだ上流だからな。だが、自然のままであることだけが善じゃない。これを見ろ」
車は山道を登りきり、視界が急激に開けた。ミズハは息を呑んだ。巨大な灰色の壁が、山と山の間を塞いでいる。その向こう側には、静まり返った膨大な質量の水が、鏡のような湖面を作って横たわっていた。
小河内ダム。高さ149メートル、貯水量1億8000万トン。東京の喉を潤す、巨大な心臓。
「……酷い」
車を降りたミズハの第一声は、震えていた。展望台の手すりを握りしめる彼女の指が白くなっている。
「川を、殺してある」
「殺しているんじゃない。制御しているんだ」
「同じよ!流れたがっている水を無理やり堰き止めて、こんなに溜め込んで……苦しそうよ、水たちが」
精霊の感覚では、ダム湖の水は「死んだ水」
に近いのかもしれない。流れを奪われ、重力に従うことを禁じられた水。その重圧が、ミズハの身体にものしかかる。
「人間は傲慢ね。自然を支配できると思っている」
「支配じゃない。これは契約だ」
ケイは湖面を見つめながら、淡々と言った。
「このダムがなければ、下流の都市は数年に一度の洪水で壊滅し、夏場は渇水で死人が出る。人間が都市というシステムを維持するために自然と交わした、コンクリートの契約書だ」
彼はポケットから一枚のパンフレットを取り出した。ダムの資料館でもらったものだ。
「それに、犠牲になったのは川だけじゃない。この湖の底には、かつて945世帯の村があった」
「……村が?」
「沈んだ故郷、というやつだ。ここの水底には、かつての学校や神社、墓地が眠っている。それら全ての『場所の記憶』と引き換えに、僕たちは蛇口を捻れば水が出る生活を享受している」
ミズハは湖面を凝視した。静寂な水面の下に、かつての人々の営みがある。そう言われると、ただの水溜まりに見えていた湖が、巨大なタイムカプセルのように思えてきた。
「……重いわね」
「ああ。水圧だけじゃない。歴史の圧力がかかっている」




