第5章 古地図のレイヤー
駅前での騒動から数日後。ケイのアパートは、相変わらず本の山とモニターの光に支配されていたが、一つだけ変わったことがあった。部屋の隅、直射日光の当たらない棚の上に、アクアリウム用の小さな水槽が設置されたのだ。
「……狭い」
水槽の中から、不満げな声が響いた。水草の陰からミズハが顔を出す。サイズは金魚ほどだ。
「文句を言うな。エアレーションも濾過装置も完備した最新モデルだぞ」
ケイはモニターから目を離さずに言った。キーボードを叩く音が、規則的なリズムで室内に響いている。
「そういう問題じゃないの。私はもっと、こう……広大な流域を感じたいのよ」「贅沢言うな。今の君の魔力残量じゃ、風呂場に実体化するだけで蒸発しかけるのがオチだ」
ケイの指摘は正しかった。あの泥人形――「澱み」を撃退した際、ミズハはなけなしの力を使い果たしていた。今はこうして、ケイが用意した「安全な水」の中で英気を養うしかない。ミズハは水槽のガラス越しに、ケイの背中を見つめた。この数日、彼は寝る間も惜しんで何かを調べ続けている。
「……何を見ているの?」
ミズハが尋ねると、ケイは椅子を回転させてモニターをこちらに向けた。画面には、いつもの現代地図ではなく、茶色く変色した古めかしい地図が表示されていた。
「『迅速測図』だ。明治初期に作成された、日本で最初の近代的な地図の一つだ」
ケイはマウスを動かし、先日事件が起きた駅前ロータリーの周辺を拡大した。
「現在の地図レイヤーを重ねてみるぞ。透過度50パーセント」
カチッ、という音と共に、現代の道路網の下から、古い地形が亡霊のように浮かび上がった。ミズハは息を呑んだ。現代の駅前広場がある場所に、かつては小さな池が描かれていたのだ。
「これ……」「そう、君が言っていた通りだ。ここにはかつて池があった。もっと正確に言えば、川が蛇行して取り残された**三日月湖(OxbowLake)**だ」
ケイは眼鏡の位置を直しながら、淡々と解説を続けた。
「都市開発の過程で、この池は埋め立てられた。だが、水は消えたわけじゃない。地下の帯水層には、今もかつての水脈が息づいている。先日の『澱み』は、その地下水脈の圧力が高まった場所に、都市の汚れ(オイル)が流れ込んで発生したと推測される」
ミズハはガラスに手を当てた。かつての記憶が蘇る。葦が生い茂り、カワセミが飛来していた静かな水辺。それが今は、アスファルトの下で窒息し、ドロドロの怪物へと変貌してしまったのか。
「悲しいわね」「感傷に浸っている場合じゃない。問題は再現性だ」
ケイは画面を切り替えた。今度は、街の広範囲を示す地図に、赤い点がいくつも打たれている。
「僕が独自に収集した、過去10年間の『原因不明の浸水』や『異臭騒ぎ』があったポイントだ。これを古地図上の『かつての水辺』と照らし合わせると……」
赤い点は、驚くほど正確に、埋め立てられた川や池の上に重なっていた。
「一致する……」「**空間的自己相関(SpatialAutocorrelation)**が高い、と言うべきだな。偶然じゃない。かつての水系網に沿って、何らかの連鎖的な『異変』が進行している」
ケイの表情が険しくなった。彼は立ち上がり、壁に貼られた巨大な地形図に赤いピンを刺した。そこは、街の北側に位置する丘陵地帯の麓だった。
「ここだ。次の特異点になる可能性が高い」「そこは?」「古い地名で『蛇崩』。君が流されていた暗渠の上流端であり、かつての大規模な**湧水(SpringWater)**ポイントだ」
湧水。その言葉に、ミズハの身体の奥底が熱くなった。そこは彼女の「生まれ故郷」に近い場所かもしれない。
「行きましょう、ケイ」
ミズハは水槽から飛び出した。空中で光の粒となり、等身大の少女の姿を形作る。まだ少し輪郭が甘いが、意思の強さがそれを補っていた。
「私の故郷が汚されるのを、これ以上見ていられない」「……やれやれ。君のバッテリーはまだ20パーセントくらいだぞ」
ケイは呆れたように肩をすくめたが、その手はすでにフィールドワーク用のジャケットを掴んでいた。リュックサックには、ステンレスボトルと、折り畳み式の地形図。そして万が一のための塩と清酒(「一応、民俗学的な魔除けも用意した」とのことだ)。
「行くぞ、ミズハ。現代の地理学探偵のお出ましだ」




