第4章 初めての授業:スケールとレイヤー
現場は異様な臭気に包まれていた。
駅前ロータリーの交差点。
その中央にあるマンホールの蓋が吹き飛び、アスファルトには黒い汚泥が放射状に撒き散らされている。
警察が規制線を張っていたが、野次馬たちがスマホを掲げて遠巻きにその様子を撮影していた。
「うわ、臭っ」
「何あれ、下水?」
人々の囁き声。
しかし、ケイのリュックから顔を覗かせたミズハが感じ取ったのは、もっと生理的な嫌悪感を催す気配だった。
(――痛い)水が泣いている。
悲鳴を上げている。
「ケイ、あそこへ行って。もっと近くへ」
「無茶を言うな。警察がいる」
「いいから!あれは普通の下水じゃないわ。何かが……詰まっているんじゃない。何かが『留まろう』としている」
ケイは舌打ちをし、学生証を首から下げた。
「大学の調査」という顔をして、規制線のギリギリまで近づく。
警官が怪訝な顔をしたが、ケイが手にしたタブレットと専門的な機器を見て、役所の人間か何かだと勘違いしたらしい。
ケイはタブレットの画面を見た。
「ここの標高は海抜3.5メートル。昔は扇状地の端にあたる場所だ。地下水位は高いが、今日この時間にこれだけの逆流が起きる計算にはならない」
「計算なんてどうでもいいの。見て、あの色」
噴き出している水は、黒く濁っていた。
だが、それは単なる汚泥の黒さではない。
光を吸い込むような、底なしの闇を含んでいた。
「澱み……」ミズハが呟いた。
「澱み?」
「水は流れてこそ清らかさを保てる。流れを止められ、閉じ込められ、腐敗した水は、やがて怨念のようなものを溜め込むの。それが『澱み』。私たち精霊とは対極の、あだ花のような存在」
その時、黒い水面が盛り上がった。
ヘドロが人の形を模していく。
野次馬から悲鳴が上がった。
「出た!」
ミズハが叫ぶのと同時に、ケイがタブレットを操作した。
「ミズハ、あいつの構成要素は!?」
「水と泥、それと……大量の油脂!」
「オイルボールか!なら、熱には弱いはずだ!」
ケイが叫んだのは魔法の呪文ではない。
物理的な弱点の指摘だ。
しかし、武器がない。
泥の人形は、近くにいた警官に向かって腕を振り上げた。
「やらせない!」ミズハがボトルから飛び出した。
空中で実体化し、元の少女の姿に戻る。
その手には、空気中の水分を凝縮して作った水の槍が握られていた。
「穿て!」ミズハが槍を投擲する。
水の槍は泥人形の肩を貫いた――かに見えた。
だが、槍は泥の中に吸収され、逆に相手を大きくさせてしまった。
「なっ……!?」「馬鹿!同属性で攻撃してどうする!」ケイが怒鳴った。
「相手は流体だ!衝撃を与えても吸収されるだけだ。構造的に崩壊させるんだ!」
「構造的にって、どうやってよ!」
「奴の足元を見ろ!そこはマンホールだ。つまり、地下への入り口だ!」
ケイはタブレットの画面をスワイプし、地下の管路図を表示させた。
「ここの地下水路は、50メートル先で合流式下水道の幹線に繋がっている。そこは今、毎秒3トンの水が流れているはずだ。奴をそこへ落とせば、物理的な流速でバラバラに引きちぎれる!」
「落とすって、奴は浮かんでるのよ!?」「
サイフォンの原理だ!奴と地下の水脈を繋げ!呼び水になれ!」
ミズハは瞬時に理解した。
攻撃するのではない。
導くのだ。
水の精霊の本分は、流れを作ること。
ミズハは泥人形の懐に飛び込んだ。
悪臭が鼻をつく。
彼女は自分の身体を霧状に変化させ、泥人形の内部へ侵入した。
そして、その足元にあるマンホールのさらに奥、暗黒の地下水路へと意識を伸ばした。
(――道を開けなさい!)ミズハの魔力が、詰まっていた汚泥を強引に押し流す。
真空が生じた。
負圧が生まれる。
ゴボォォォォォッ!凄まじい吸引音が響いた。
泥人形は断末魔のような音を立てて崩れ落ち、自らが這い出してきたマンホールの穴へと、凄まじい勢いで吸い込まれていった。
「今だ、離脱しろ!」ケイの声に従い、ミズハは霧となって飛び出した。
直後、マンホールの穴からは、猛烈な勢いで空気を吸い込む音が続き、やがて静寂が訪れた。
アスファルトの上には、黒いシミだけが残っていた。
「……はぁ、はぁ」
ミズハは路肩に座り込んだ。
実体化を維持する力が尽きかけ、足先がまた透け始めている。
ケイが駆け寄ってきた。
「無事か」
「なんとかね……。あんたの言う通りだったわ。力でねじ伏せるんじゃなくて、流れを利用する……」
「それが地理学的アプローチだ。敵を知るには、まず敵が立っている『場所』を知ることだ」
ケイはミズハに手を差し出した。
「立てるか。人に見られる前にずらかるぞ」
ミズハはその手を取った。
冷たい雨の中で、彼の手だけが確かな熱を持っていた。
この日、ミズハは二つのことを学んだ。
一つは、現代の都市にも「澱み」という魔物が潜んでいること。
もう一つは、隣にいるこの偏屈な眼鏡男が、意外にも頼りになる「相棒」になり得るということだった。




