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もしもウンディーネが地理学を学んだら。水底の精霊は、オンラインマップの夢を見るか ——ウンディーネの現代地理学講座——  作者: もしものべりすと


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第3章 研究室という名の聖域


 翌朝、ミズハはケイに連れられて大学へ向かった。といっても、戸籍も住民票もない精霊が正規の学生になれるはずもない。ケイのリュックサックの中に「水筒」として潜り込み、密入国さながらの登校である。


「いいか、絶対に音を立てるなよ。あと、蓋を中から開けるな」「わかってるわよ。揺らさないで」


 ミズハは、ケイの愛用する1リットルのステンレスボトルの水の中に溶け込んでいた。これが現在の彼女の仮住まいだ。狭いが、清潔な水道水で満たされており、塩素の臭いを除けば悪くはない。ケイの歩調に合わせて、水面がちゃぷちゃぷと揺れる。電車のアナウンス、自動改札の電子音、学生たちの話し声。それらがステンレスの壁越しに、くぐもった振動として伝わってくる。


 大学のキャンパスは、街中の喧騒とは少し違う空気をまとっていた。理学部棟の四階。そこにある「地理学研究室」のドアが開く。


「おはようございます、天宮先輩」


 元気な声が飛んできた。ミズハは水筒の中で気配を殺す。ケイがリュックを机に置き、ボトルを取り出した。キャップが回され、新鮮な空気が入り込む。ミズハは水面から顔だけをひょっこりと出した――もちろん、霊的な視覚イメージとして。物理的には水面が少し盛り上がっただけにしか見えないはずだ。


 そこは、ケイのアパートをさらに混沌とさせ、かつ広大にしたような空間だった。壁一面に貼られた巨大な地形図。天井からぶら下がった地球儀のモビール。部屋の中央には、何層にも重ねられたアクリル板の模型が鎮座している。独特の匂いがした。古紙とインク、そして微かな土の匂い。これは、ケイのアパートで感じたものと同じ「知の聖域」の香りだ。


「先輩、また徹夜ですか?顔色悪いですよ」


 声をかけてきたのは、ショートカットの女子学生だった。彼女の手には、コンビニのおにぎりが握られている。


「昨夜の降雨データの解析が終わらなくてな」「ああ、昨日のゲリラ豪雨すごかったですもんね。下水管の圧力が警戒値を超えたって、SNSでも話題になってました」


 女子学生はそう言いながら、ケイの机に置かれたステンレスボトルに視線をやった。


「あれ、先輩新しいボトルですか?」「……まあな」「一口くださいよ、喉乾いちゃって」「だめだ!」


 ケイが珍しく大声を出した。女子学生がビクリと肩を震わせる。


「え、えぇ……ケチ。減るもんじゃないのに」「減る。というか、中身が特殊なんだ。硬度が高すぎてお腹を壊すぞ」「なんですかそれ、実験用の水?」


 ケイは強引に話題を変えるように、パソコンの電源を入れた。ミズハは水筒の中で、くすりと笑った。(硬度が高い、ね。上手い言い訳じゃない)確かに、数百年の記憶と魔力を含んだ水は、普通の人間には消化不良を起こすかもしれない。


 女子学生が自分の席に戻ると、ケイは小声でボトルに向かって囁いた。


「出てきていいぞ。ただし、実体化は最小限にしろ」


 ミズハは水蒸気のようにふわりと立ち上り、ボトルの縁に腰掛けるサイズ――体長十五センチほどの手乗りサイズで実体化した。これならフィギュアか何かだと誤魔化せるかもしれない。


「ここがお前の教室だ」


 ケイはモニターに地図ソフトを立ち上げた。ArcGISアークジーアイエス。地理情報の解析に使われるプロフェッショナルなソフトウェアだ。


「今日はまず、『レイヤー』という概念を叩き込む」


 画面上に、真っ白なキャンバスが表示される。ケイがマウスを操作すると、そこに一本の青い線が引かれた。


「これが『水系』だ。川や湖、水路のデータ」


 次に、茶色の線が等高線として現れる。さらに、灰色の四角形が無数に現れ、建物を形作る。最後に、道路、鉄道、行政界の線が重なっていく。


「世界は一枚の絵じゃない。無数の透明なフィルムが重なってできている」


 ケイの声は、講義をする教授のように滑らかだった。


「普通の人間は、一番上の『目に見える風景』しか見ていない。だが、地理学者は違う。必要なレイヤーだけを抜き出し、あるいは重ね合わせることで、目に見えない関係性を浮き彫りにする」


 彼は「建物」と「道路」のレイヤーを非表示にした。画面に残ったのは、起伏のある大地と、そこを流れる水系だけ。


「見てみろ。建物がなくなれば、この街の本来の姿が見えてくる」


 ミズハは息を呑んだ。そこには、彼女がよく知る「昔の姿」の面影があった。コンクリートのジャングルに隠されていた谷筋。尾根の連なり。水は正直だ。一番低い場所を選んで流れている。


「この谷の形……ここ、昔は湿地帯だった場所ね」「正解だ。今は高級住宅街になっているが、地盤データを見れば一目瞭然だ。液状化リスクが高い」


 ケイはニヤリと笑った。


「面白いだろう?時間は不可逆だが、空間には過去が埋め込まれている。地図を読み解くということは、土地の記憶を再生するということだ」


 土地の記憶。その言葉は、精霊であるミズハの琴線に深く触れた。彼女はずっと、自分だけが過去に取り残されていると感じていた。だが違う。過去は消えたのではなく、現在の下層レイヤーとして、確かにそこに存在しているのだ。


「私にも……それが読めるかしら」「読めるさ。君には誰よりも鋭い『水を感じるセンサー』がある。それをこのデータとリンクさせれば、最強のGISになる」


 その時、研究室のドアが乱暴に開かれた。先ほどの女子学生が、青ざめた顔で戻ってきた。


「先輩!大変です!」「どうした、騒々しい」「駅前のロータリーで、マンホールが爆発しました!」


 ケイの目が鋭く細められた。ミズハもまた、肌にピリつくような不穏な気配を感じ取っていた。ただの水蒸気爆発ではない。もっとドロドロとした、悪意のような粘着質な湿気。


「……ミズハ、戻れ」「え?」「フィールドワークの時間だ」


 ケイはボトルを掴み、リュックに放り込んだ。ミズハは水の中で身を翻す。予感がした。これは、ただの事故ではない。都市の血管である下水道。その暗闇の中で、何かが産声を上げようとしている。


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