第2章 座標を持つ男
男の名前はケイといった。漢字でどう書くのかは聞かなかった。ただ、彼の部屋の表札には活字体のアルファベットで『K.Amamiya』とだけ記されていた。
彼のアパートは、大学に近い古い木造建築の二階にあった。そこは、部屋というよりは「資料の洞窟」だった。六畳ほどの空間の壁という壁が、本棚で埋め尽くされている。そこに収まりきらない書物が床に塔のように積み上げられ、足の踏み場を侵食していた。本のタイトルを横目で追う。『人文地理学概論』『水文学の基礎』『都市構造と空間解析』『近世河川改修史』……。ミズハには理解できない文字列ばかりだ。
部屋の中央には大きなデスクがあり、そこには二台のモニターが青白い光を放っていた。画面には複雑な色彩で塗り分けられた地図が表示されている。
「タオル。そこにある。適当に使え」
ケイは部屋の隅にある電気ポットのスイッチを入れると、パイプ椅子にどっかりと座り込んだ。彼自身も濡れているはずなのに、気にする様子もない。
ミズハは借りたタオルで髪を拭いた。不思議なことに、この部屋に入ってから身体の震えが止まっていた。ここは乾燥している。エアコンが効いているせいもあるが、何より、この部屋に充満している「知」の気配が、混沌とした外の世界から切り離された結界のように機能している気がした。
「さて」
ケイは眼鏡を外し、シャツの裾でレンズを拭きながらミズハを見た。裸眼の瞳は少し三白眼で、神経質そうな光を宿している。
「君が何者なのか、警察に通報する前に合理的な説明を聞こうか。足が透けている件も含めて」
ミズハはソファ代わりのビーズクッションに深く沈み込みながら、小さく息を吐いた。どう説明すべきか。私は、この土地の女神だ――と言って信じるだろうか。いや、信じなくてもいい。事実を述べるだけだ。
「私はミズハ。このあたりの水脈を……水を管理していた者よ」「管理していた?」「そう。かつては、人間たちは私に供物を捧げ、雨乞いをし、氾濫が起きないように祈っていたわ。私はそれに応えて、水を田畑に引き、時には荒ぶる川を宥めていた」
ケイは鼻で笑わなかった。ただ、冷静にマグカップにインスタントコーヒーを注ぎながら、こう言った。
「つまり、土着の信仰対象。アニミズム的な精霊、あるいは土地神の一種と定義していいか?」
定義。その言葉の響きに、ミズハは眉をひそめた。
「……好きに呼びなさい。でも、神としての力はもうほとんど残っていないわ。見ての通りよ」
ミズハは自分の左手を持ち上げて見せた。指先はまだ少しぼやけている。
「人々は私を忘れた。川は埋められ、水は鉄の管に閉じ込められた。信仰という糧を失った私は、形を保つのもやっとの状態。さっきの濁流で、危うく自我まで溶けて消えるところだった」
「信仰がなくなったから弱った、か」
ケイは熱いコーヒーを一口啜り、モニターの方へ向き直った。マウスを操作し、地図の一部を拡大する。
「それは少し違うな」「何が違うの?」「君が弱ったのは、信仰がなくなったからじゃない。君が『迷子』になったからだ」
ケイはモニターを指差した。そこには、この街の地図が映し出されていた。しかし、普段目にする地図とは違う。青や赤の線が無数に引かれ、等高線がびっしりと描かれている。
「これを見ろ。これはGIS――地理情報システムで作成した、この街の**DEM(数値標高モデル)**だ」
「でぃーいーえむ……?」
「簡単に言えば、地形の凹凸をデジタル化したものだ。赤いところが高い場所、青いところが低い場所を示している」
ケイは指先で青いエリアをなぞった。
「君が流されていたのはここだ。昔は『蛇崩川』と呼ばれていた二級河川。昭和三十年代のオリンピック開発で暗渠化され、今は下水道の幹線として使われている」
「蛇崩川……」
懐かしい名前だった。そうだ、私はその川の主だった。岸辺には桜並木があり、春には花弁が水面を埋め尽くしていた。
「君は、自分がどこにいるかわからなくなったと言ったな?」
「ええ。真っ暗で、どっちが上流でどっちが海なのかも……」
「当然だ。現代の都市河川は、自然の摂理とは違うルールで動いている」
ケイはキーボードを叩き、別のレイヤー(層)を重ねた。地図の上に、網の目のような直線的なグリッドが現れる。
「自然の水は、重力に従って高いところから低いところへ流れる。これが絶対のルールだ。だが、都市は違う。ポンプ場が水を強制的に汲み上げ、地下トンネルが山を貫通し、**分水界(watershed)**さえも人工的に書き換えられている」
ケイはミズハの方を振り向いた。その目には、先ほどまでの無愛想さとは違う、探求者特有の熱が宿っていた。
「君は『川』の精霊だったかもしれないが、今のこの街に『川』はない。あるのは『排水システム』だ。君が迷子になったのは、君が持っている地図が古すぎるからだ。明治時代の古地図を持って、現代の地下鉄路線図を歩こうとしているようなものだ」
ミズハは言葉を失った。彼の言う通りだった。最近、水の中にいても息苦しかった。流れに乗ろうとしても、突然壁にぶつかったり、ありえない方向へ吸い込まれたりした。それは、人間たちが水の理をねじ曲げたからだと思っていた。だが、彼は違うと言う。ねじ曲げたのではない。新しいルールを作ったのだと。
「じゃあ、私はどうすればいいの?」
弱々しい問いかけが、資料の山に吸い込まれていく。自分の存在意義を否定されたような気分だった。
「学ぶんだ」
ケイは短く言った。彼は本棚から分厚いハードカバーの本を抜き出し、ドサリとミズハの膝の上に置いた。表紙には『現代人文地理学』と書かれていた。
「君に必要なのは、信仰という曖昧なエネルギーじゃない。現在地を知るための座標と、この街の構造を理解するための知性だ」
「……地理学を、やれと?」
「そうだ。君は水の精霊なんだろう?なら、水のプロフェッショナルになれ。感性だけで水を操る時代は終わった。これからは、データを読める精霊だけが生き残れる」
ミズハは呆気にとられて、その重たい本を見つめた。そして次に、目の前の不遜な眼鏡男を見上げた。
「……あんた、名前は?」「天宮ケイ。大学院で都市水文学を専攻している」「そう。私はミズハ」
ミズハは本を抱きしめた。意外と、その重さは嫌いではなかった。
「教えて、アマミヤ。私に、この街の新しい地図の読み方を」
こうして、水の精霊と地理学オタクの奇妙な同居生活が始まった。窓の外では、まだ雨が降り続いていた。だがミズハには、その雨音が先ほどまでとは少し違って聞こえた。それはただのノイズではなく、解読されるのを待っている膨大なデータの奔流だった。




